268. 先ほどの礼をさせてもらうわね
浮かれたベルゼビュートが向かったのは、招集されるまで魔物狩りをしていた魔の森の辺境だった。人族との緩衝地帯が迫る森は、アルラウネが群生している。
「ちょっと邪魔するわね」
足元で葉を揺らして光合成に勤しむアルラウネ達に声をかけて、ふわりと地面に降り立った。風の魔法を得意とするベルゼビュートは上級精霊属に分類されるため、植物や妖精系との相性が非常にいい。
揺れて歓迎するアルラウネの間をすり抜け、人族に聖水を掛けられた場所で立ち止まった。見回すが、もう彼らの姿はない。アスタロトからの緊急招集を優先して見逃したことを、盛大に後悔しつつ溜め息を吐いた。
痕跡を追うために、ベルゼビュートは地面に座った。胸元が開いたドレスのスリットから、脚線美を誇る白い肌が覗く。露わになった肌に泥がつくのも気にせず、目を伏せた。
人の魔力は少なすぎて、追いかける目印にならない。しかしあの聖水とやらの臭いは、魔族にとって手がかりになり得た。精霊や魔獣系なら、必ず嫌悪感を覚える悪臭なのだ。
魔力の網を広げて、ゆっくりと魔の森を覆っていく。緩衝地帯の森の手前に、不快な感覚を見つけた。すこし横に逸れた、シルフの森に寄った方角だ。
「あたくしを怒らせたこと、後悔させてあげるわ」
ベルゼビュートは、人族の排除も擁護も興味がなかった。アスタロト達は排除を望み、魔王ルシファーは擁護する。どちらでも構わないと考えてきた理由は、あまりに脆弱で短命な種族だから。
わずか100年保たずに死んでしまう。かつて精霊女王と呼ばれたベルゼビュートから見れば、季節外れの蝉のようだ。彼女にとって、わずか数日で死んでしまう羽虫に心砕く必要もなければ、守る意義も感じなかった。
しかし同族や魔王に刃向かうなら、話は別だった。
弱く愚かな種族は、魔族の多様性を否定して攻撃する。圧倒的弱者が、強者に立ち向かうことほど哀れな事はない。ならば、わからせれば良かった。
誰が強者で、誰が弱者かをーー。
「見つけた!」
森は精霊と深く繋がっている。それは魔の森であろうと同じ。精霊の女王と呼ばれたベルゼビュートを遮る森は、存在しないのだ。
森の木々が教える異物は、聖水の臭いを漂わせていた。不自然過ぎる。動物と薬草の匂いを合わせたはずの聖水は、森の木々でさえ感じる違和感があった。
原料か製法に、呪詛に似たなんらかの人工物が入っているのだろう。
乾いた髪を整え、泥を払って立ち上がり、一瞬でドレスを着替えた。戦うなら、もっと扇情的なドレスがいい。
豊かな胸元が溢れそうなドレスは、背中も胸もギリギリまで露出させたデザインだ。
右手に愛用の槍を取り出すと、ベルゼビュートは長い髪を背に垂らした。着飾ったベルゼビュートは、唇に紅をひく。
侮った人族は痛い目を見る者が絶えないが、魔族のように魔力を読み取れない彼らに、ベルゼビュートの恐ろしさは伝わらないだろう。
木々が示す地点へ、彼女は転移した。
美しい森の木に、人は斧を突き立てる。切り拓こうとする男の腕を、ベルゼビュートの槍が切り落とした。森の木が歓喜の声を上げて、木霊が緩衝地帯の森を揺らした。
拓けた場所はすでに木々が倒され、その周りにテントがいくつか並んでいる。20人ほどの人族が飛び出した。彼らのいる場所は緩衝地帯だが、ベルゼビュートの後ろは魔の森だった。
「魔族だ!」
「魔法使い、前に出ろ」
杖を持つロープ姿の男が炎弾を放った。
「魔女め! 食らえ、ファイアーボール」
ありきたりの詠唱付きの魔法に、左手の魔法陣で応じる。触れる前に解除された炎は、そのまま魔の森の養分として吸収された。
「失礼な人族だこと。あたくしは魔女でなく、精霊の女王なのに」
呟いたベルゼビュートがその場にいた1人の女に目を止めた。髪を覆い隠す禁欲的な白い衣装の彼女が、聖水をかけた犯人だった。
聖職者らしい彼女を含め、この場にいる人族は戦う意思を示して武器を手にする。ならば遠慮はいらなかった。
にやりと口角が上がる。魅惑的な笑みを浮かべ、ベルゼビュートは槍の先で女を指した。
「先ほどの礼をさせてもらうわ」
守るために立ちはだかる騎士達を、槍で薙ぎ払う。魔法陣を使うまでもなく、魔物より簡単に狩れる獲物に、ベルゼビュートは物足りなさを覚えた。
こんなことなら、わざわざ魔王の許可を得なくても良かった気がする。不満の憂さ晴らしを込めて、大きな魔法陣を描いた。ここは魔の森ではない。傷つけても多種族に影響を与える心配はなかった。
「弱過ぎるわ」
ぼやいたベルゼビュートの手で魔法陣が光を放った。風で練り上げた大きな水の矢を人族の気配に向けて射る。一瞬で殲滅を終えたベルゼビュートは、人族の死体を大地に飲ませると、機嫌よく踵を返した。
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