646. 誰がそんなこと約束しました?
足元の魔法陣はすでに稼働している。この大広間から彼らを逃がさないための結界がひとつ、重ねられた魔法陣は最上級の治癒魔法陣だ。頭が潰された者も、手足を千切られた者も、すぐに治癒されていく。興味深そうに様子を窺うアスタロトが、右手に剣を呼び出した。
ベルゼビュートは無防備極まりないドレス姿で溜め息をつく。想像より詰まらないと頬を膨らませる彼女に、ルキフェルが無邪気に提案した。
「ねえ、死なないなら決着を待つ必要はないよね」
飽きて魔法陣を解くまで殺され続ける未来しかない。絶望に染まる人族は無抵抗に転がり、獣人とドラゴンの戦いも迫力に欠ける。飽きてしまったとルキフェルが呟くまで、3時間もかからなかった。大量の血が流れた広間は赤く染まり、ぬらぬらと光る床は生臭い。
大量の血を流しても体内の損傷を強制的に回復させる効果により、再び戦うことを強いられる状況に、罪人達の目は淀んでいた。戦って勝てば見逃してもらえる。しかしゴールが見えない戦いは、彼らの精神を汚染し濁らせた。
「……くそっ、もう……動くんじゃねえ」
妻として迎え入れた女すら区別できず、目の前で動くものを叩き潰す大柄な男が、元侯爵令嬢をこん棒で殴る。悲鳴を上げた彼女が放つ炎球が近くのドラゴンの尻尾を焼き、獣人達は狂ったように笑いながら足元の人族を切り刻んだ。
「そろそろ飽きました」
溜め息をついたアスタロトは、とばっちりで飛んできた罪人を斬った剣を消し、ベールを振り返る。猫足のソファを取り出し、さっさと休憩していたベールが顔をあげた。長椅子ソファの上に寝転んだルキフェルは、ベールの膝枕で寛いぎながら足をばたつかせる。
殺伐とした罪人と、日常のスタンスを崩さない大公――その均衡が崩れた。
「ルキフェル、魔法陣を解除しましょうか」
「ん、治癒だけ?」
「ええ」
ベールに促され、ルキフェルはごろんとソファの上で寝返りを打った。そのまま血塗れの床に手を伸ばし、血の下にある魔法陣へ指先で触れる。絡み合って作用する魔法陣を分離するため、確実性を求めたルキフェルが魔法文字を描いた。
光った魔法陣がひとつ浮かんで消え、直後にドラゴンの爪が突き刺さった人族がそのまま絶命する。ゾンビに似て何度も生き返った敵が動かなくなった事実に、ドラゴンが咆哮を上げた。勢いのまま近くの獣人に爪を振り下ろす。今度は死ぬと分かったため、全力で戦い始めた。
膠着した状況に吹く風は、さらに鉄錆びた臭いを運ぶ。
「やっと……死ねる」
安堵の表情を浮かべて死んだ魔術師、無念で顔を歪めた獣人、夫であるはずの男を焼き殺す妻……地獄絵図が広がる広間で、ベルゼビュートがにっこり笑った。
「勝者を殺す権利は私にくれるのよね?」
「え? 僕もやりたい」
「私の分はルキフェルに差し上げます」
「やった! ありがとう、ベール」
物騒な会話の大公3人に、アスタロトはちらりと視線を空へ向ける。そこには天井があるだけで、地下にある城から外は見えなかった。それでも見透かすように目を細め、アスタロトは溜め息を吐く。
「あの人、ちゃんと仕事していますかね」
「無理よ。誰もいないもの」
けろりと無責任に言い切ったベルゼビュートが我慢しきれず、近くにいたドラゴンに斬りかかる。尻尾を落とされ、切り刻みながら本体まで粉々にした。突然増えた敵にパニック状態の広間は、混戦の様相を呈してくる。本来は仲間だったドラゴン同士が組み合い、爪を突き立てて牙を剥いた。
「あ、僕の分なのに!」
赤く濡れた血に汚れることも気にせず、ソファから飛び降りたルキフェルが参戦する。竜化した腕で直接叩き潰す感触に酔い、子供らしい残酷さで腕を捥ぎ、足を切る。そこに獲物への同情はなかった。できるだけ時間をかけて遊びたいだけの子供だ。
「くそ! 嘘だったのか!」
「卑怯者め」
「……っ、勝ったら許すって」
言ったじゃないか! そう叫んだ獣人へ、アスタロトは心底不思議そうに返した。
「生き残った者を……そこから先を私は口にしていません。卑怯も何も、どうして許されると思うのでしょうね。弱肉強食の掟だと言ったでしょう? 私は『生き残った者を絶望に染めて殺す』なんてどうかと提案しただけです。我が主に逆らって――生き長らえる権利があるわけないでしょう」
最初から逃げ道も慈悲もなかった。捕まりこの城に連れてこられた時点で、全員の死刑は決定事項だったのだ。どこまでも美しい顔に、悪びれない笑みを浮かべて吸血鬼王は笑う。返り血を浴びた瑠璃竜王と精霊女王の剣が、残った獲物を競うように屠った。
「口でアスタロトに勝てるはずがないでしょうに」
呆れかえった声で呟いたベールは、汚した広間の掃除と死体の処分方法を考えながら肩を竦めた。
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