890. 名付け親はリリスになりました

 魔王城の庭を壊した卵の中身――1歳の幼児――は、引き取ったルキフェルにまったく懐かなかった。お手上げを表明したルキフェルの不機嫌さを宥めながら、ベールはしかたないと決断を下す。


「いいでしょう、陛下にお預けします……ですが、くれぐれも騒ぎを起こさないでください」


「オレが騒動を起こすはずがないだろう」


 にこにこと告げる魔王へ、指を折ってベールが現実を突きつける。


「いつから遡りましょうか。魔王妃殿下が瀕死になられた時は魔族を全滅させそうになり、魔の森は半分ほど枯れましたか。ピヨを拾った時は……」


「ああああ! もういい」


 むっとして唇を尖らせたルシファーが遮ったことで、ルキフェルが笑いだす。リリスの腕の中で大人しくしている幼児が、きょとんとした顔で周囲を見回した。


「この子に名前は?」


「まだだよ」


 ルキフェルが笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、首を横に振った。決めようと思ったのだが、懐かないので「君」とか「ちょっと」で用が足りていたのだ。


「僕は子育てに向かないみたいだから任せるね、リリス」


「もちろん、任せてくれていいわ」


 胸を張るリリスだが、実際に面倒を見るのはルシファーだろう。そして尻拭いをベールかアスタロトが行う。今までに数え切れないほど経験した過去が、未来となって幻獣霊王に襲いかかった。


 がくりと崩れそうな膝を支え、ベールは気持ちを立て直す。これ以上この部屋にいると、精神が削られそうですね。内心で呟き、ルキフェルに手を差し伸べた。当然のように繋いだ手を引いて、ドアへ向かう。


「では失礼いたします。名前をつけるなら、事前に相談を」


 ルシファーのネーミングセンスは結構ひどい。偶然の産物でリリスは認められたが、過去の事例を考えると注意した方がいい。フェンリルに「リル」だの「フェル」を名付けようとしたのは、わりと記憶に新しい事例だった。


「え? お名前つけていいの? だったら『レラジェ』がいいわ。いいでしょう?」


「れらぁ」


 嬉しそうに手を振り回す幼児の姿に、今度こそベールは床に膝を折った。がくりと崩れた保護者の姿に、ルキフェルが慌てる。ルシファーは「決まっちゃったみたいだ」と苦笑いした。


 子供自身が気に入っているなら、しょうがない。そう割り切るのは、ベールよりアスタロトの方が得意だった。何しろ、側近としてルシファーの尻拭いをしてきた期間が長すぎる。騒動を起こさないよう注意しても、騒動を起こされるのだから後片付けが上手になるのは必然だった。


「……レラジェですね。登録しておきます」


 もう好きにすればいい。ぐったりと床に懐きそうな膝と腰を叱咤し、ベールはゆらりと身を起こした。長い銀髪で顔が見えないため、幽霊のようだ。ふらふらと歩き出すが、ルキフェルと繋いだ手は離れていなかった。そこはブレないベールを見送り、ルシファーは幼児の頬を突く。


「いいか? リリスはオレのお嫁さんだ。今は一時的に抱っこを許可しただけだからな!」


 胸を揉んだりしたら殺す。そう匂わせて脅すが、肝の太い幼児はきゃっきゃとはしゃいだ声を立てた。


「最近、オレの威圧の効果が落ちてるのか?」


 効かない奴が増えた気がする。唸ると、リリスは笑いながらレラジェを差し出した。反射的に受け取るため屈んだルシファーの首に腕を回し、リリスはちゅっと音を立ててキスした。


「ちゃんと効果あるわよ、でも私もこの子もルシファーが優しいって知ってるもの」


 だから効果がないの。そう慰める可愛い婚約者の頬と額にキスを返し、ルシファーは抱き上げたレラジェの背を叩きながら頷いた。


「ところで、視察にレラジェは連れて行けるかしら?」


 明日の朝には出掛ける。思い出して慌てるルシファーを他所に、リリスはアデーレを呼び出しておんぶ紐を用意してくれるよう頼んだ。

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