253. 鬼がいなければ魔王も逃げる

「陛下とリリス嬢がいません」


 報告という名の愚痴を漏らすベールへ、ルキフェルが置手紙を指し示す。新調した執務机は以前の1.5倍の大きさだった。その半分は積んだ書類に占拠され、空いたスペースに1枚の紙が残されている。


「ルシファーは逃げた」


 端的なルキフェルの解読に、暗号ばりに汚い文字で書き殴られたメモをぐしゃりと握りつぶす。ベールの表情は厳しかった。ただでさえアスタロトがいなくて手が足りない。書類はもちろん、現場もあたふたしているこの時期に、視察の続きをするといい置いて逃げ出した上司を心の中で罵る。


「仕方ありません、軍に『陛下の保護要請』を出しましょう」


 魔王軍最高司令官はルシファーだが、実質的なトップは大公ベールだ。各地に散らばって魔物退治を行う魔王軍の情報網ならば、すぐにルシファーの足取りが掴めるはずだった。直接連れ戻さなくても、情報をもらえばいい。


 魔力を辿られないように結界で遮断して逃げる魔王を、人海戦術で追う決断をしたベールが慣れた指示を出した。今までにも何回か行われた要請なので、軍人達は「ああ、またか」程度の感覚で受け止めるだろう。そして迅速に魔王捕捉に尽力してくれる。


「僕は書類整理するから」


 処理は戻ったルシファーにやらせると明言するルキフェルの水色の髪を撫でて、ベールは魔力を探る。ベルゼビュートは城下町のダークプレイスにいた。


「ベルゼビュートを連れ戻します」


「役に立たない」


 まだ子供のルキフェルに断言されるベルゼビュートが情けないが、事実、事務仕事で彼女が役に立つのは経理だけだ。数字は強いが、文字は汚くて仕事が荒い。修正の余計な手間が増えるとしかめっ面のルキフェルへ、ベールが苦笑いした。


「陛下が凍らせた火口の被害予測が提出されていないのです。あれは彼女の職責でしょう」


「……そうだね」


 頷いたルキフェルが書類を崩し始めたのを確認し、ベールは中庭へ急いだ。ベルゼビュートの魔力を指定して魔法陣を描き、一気に転移する。その先の光景を知らずに……。







「ちょっ! ベール、邪魔しないで」


 魔王ルシファー陛下がいつ発見されるか。賭け金を握り締めたベルゼビュートが「2日以内」と慎重に検討した結果を口にしたところに現れたベールは、胴元のバアルへ金を渡す前に彼女を捕獲した。金貨を握り締めたベルゼビュートを引きずって、そのまま城へ転移する。


「お願い。もう一度だけ街へ行かせて。すぐ戻るわ」


 懇願するベルゼビュートに逃走防止の枷をはめながら、にっこりと笑顔で否定する。


「残念ですが、仕事が待っています」


「帰ったらすぐにやるわ」


「あなたと陛下の『すぐ』はどちらも信用できません」


 切り捨てたベールが暴れる美女を鎖で繋いで引きずっていく。魔王城の重鎮である大公の肩書きを持つ男として、どうなのか……そんな疑惑を招きそうな蛮行だが、ドワーフやエルフはまったく気にしなかった。普段の光景の一部なのだ。


 ピンクの巻き毛を振り乱したベルゼビュートを引きずったベールは、執務室のドアをノックしてから開いた。最後の抵抗で室内に入ろうとせず頑張るベルゼビュートだが、ルキフェルの攻撃を咄嗟に防ぐ。突き出された竜の爪を呼び出した剣で弾いた瞬間……ドアから手を離してしまった。


 隙を見逃さないベールに鎖を手繰られ、ベルゼビュートが室内に転がり込んだ。相変わらず胸元が開けた服を着る美女は豊かな胸から着地する。ルキフェルとベールの連携が取れた作戦に負けたベルゼビュートの目の前で、無情にもドアは閉ざされた。


 拘束されたベルゼビュートが「怖い、もう無理」と嘆きながら、試算した経済損失を提出するまで……魔王の執務室からすすり泣く声が聞こえた。お陰で侍女や侍従の間に幽霊説が持ち上がる。


 街に噂として知れ渡る頃には『魔王陛下の新しい執務室は、人柱が埋め込まれている。女のすすり泣く声が聞こえるそうだ』という、いつもながら原型を留めぬ状態だった。

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