562. ただいまとおかえり

 魔力に色はない。それは有史以来不変の原則だと考えられてきた。その常識を覆し魔力を色で判別したのは、魔王妃リリス1人。しかし今、この場にいる全員が、白銀の魔力を見て感じていた。


 麻痺していた痛みが蘇り、じわりと薄くなっていく。不思議な感覚は治癒に似ているが、どこか違う。まるで傷の記憶を巻き戻して無かったことにするような、幻想的な感覚がルシファーを襲った。


 開いた目に映ったのは、アスタロトの腹を貫いた己の手。最後の記憶はリリスが腕の中から消えて、軽くなった腕。引き抜く腕を濡らす赤が、アスタロトの傷口に吸い込まれるように消えた。初めて見る現象に首をかしげる。治癒であっても、失われた血が体内に戻ることはない。流れた血を吸収して傷を塞ぎ、


「ルシファー」


 その呼び方をするのは、ルキフェル。拾い子である彼は公的な場面でなければ、敬称を使わない。だがこの声はいた。


 震える指が己の口元を辿った。それから視線をゆっくり動かす。もし振り向いて違ったら、別の誰かで……再び絶望を味わうなら、すこしでも夢見る時間を先延ばししたい。愚かだと思う。弱気な魔王だと自嘲しながら向けた視線の先で、少女は泣きそうな顔で笑った。


 ――ああ、この子がいればそれだけで。世界は正しい形を取り戻し、調和に満たされる。


「リリス……?」


「そうよ」


 感動のままに身を起こそうとして、背から腹に突き抜けた聖剣に気付いた。これはベルゼビュートに褒美として与えた剣だ。慌てて起き上がると、角度が変わった刃が内臓を切り裂いた。


「けほ……ぐっ」


 吐き出した血は鮮やかな濁りのない赤。治癒した内臓をまた傷つける剣に、ルキフェルが手をかけた。


「抜くよ、ルシファー」


「たの、む」


 一息に抜いて放り出せば、白銀の魔力に触れた聖剣は消えた。持ち主となったベルゼビュートの収納へ戻ったのだろう。本来、聖剣とは意思を持つ武器だ。役目を果たしたと判断した剣の意向だった。


 白銀の魔力が満ちる場で、リリスから金色の光が滲んで混じっていく。波動のように強弱を繰り返しながら、白銀を淡い金へと染めた。温かく感じる魔力が、体力も魔力も消耗した彼らを癒す。心地良い空間に、アスタロトは一度開いた目を閉じた。


 口元の血に、リリスの手が触れる。シーツを巻いた彼女は、シーツの端を使ってルシファーの顔を汚す血を拭った。乾いた血も丁寧に拭い、見慣れた美しい顔に頬を寄せる。


「ただいま、ルシファー」


「おかえり……リリス、もう離れないでくれ」


 ありがとうと礼を言って姿を消した最愛の幼女、軽くなった腕は寒くて、世界を全力で憎んだ。奪うのならば『滅びよ』と叫んだ記憶がよみがえる。


 頬を寄せた少女を抱きしめた。逃げられないように、今度こそ離れないよう。きつく抱きしめた腕の力を緩めることができない。苦しいはずのリリスは、何も言わずに両手をルシファーの背に回した。泥に汚れた黒い翼は12枚――。


「戻ったの、リリスはルシファーのお嫁さんだもん」


 幼女の時と同じ口調、一度は失った少女の声色。涙が零れた。胸が詰まって言葉が出ない。苦しく切ない想いが喉元まで埋め尽くして、全身が強い想いに満たされた。


「リリス嬢が苦しいのではありませんか?」


 あまりに動かないルシファーの様子に、見かねたアスタロトが苦笑いしながら声をかけた。泥に塗れた金髪も羽も、服や肌に至るまで、汚れていない場所がない。それでも損なわれない美貌の主が集った場に、少女の声が飛び込んだ。


「お義父さま!? 何ですか、そのお姿……うそ、お腹に穴……え? 死んでるの?」

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