1036. 百害あって一利なし

「……っ、よくやりました」


 ルーサルカの足元の影がぶわりと膨らみ、一気に容積を増やす。義娘の影を利用して移動したアスタロトが顕現し、触れずに狒々を吹き飛ばした。少し先で細切れの肉片となった狒々に、仲間が群がって共食いを始める。


 異常な光景に目もくれず、アスタロトは続け様に闇を操って狒々を拘束した。私としたことが、なんたる失態……舌打ちしたい気分で八つ当たりを込め、狒々を一塊にして潰す。


 ルシファーと別れてから、気になっていた書類を確認した。そこへ義娘の叫びが届いた。しかし魔王城内では転移が出来ない。焦って廊下を駆け、途中で影を利用することを思い出して飛んだ。もう少し早ければ、ルーサルカに傷をつけることはなかった。


「助かった。守りきれないかと思ったぜ」


 ほっと息をついたアベルが膝をつき、慌てて立ち上がって駆け寄る。


「ケガしてただろ、平気か? アミーは?」


 鼻を鳴らすアミーの無事を確認していたルーサルカが、擦り傷が残る頬を指差して笑う。他に傷はないと確認したアベルは、ほっと息をついて笑い返した。結界が割れる音がしたときは、心臓が止まるかと思ったが。


 剣を地面に突き立てるが、鞘に戻さない。この世界に来て、魔王軍と行動を共にして覚えた教訓だった。安全を確保するまで、武器は手の届く位置で常に使える状態にしておく。イザヤも同じ方針だ。アベルもその教えは忠実に守っていた。


「魔物風情が、私の娘に傷をつけて生きて帰れると思わないことです」


 残った狒々を闇で潰そうとしたアスタロトへ、制止の声がかかった。


「待ってくれ。狒々の行動が異常だ!」


 駆け寄って叫んだゲーテに、アスタロトは生き残った数匹の狒々を見下ろす。ほとんどは叩き潰してしまったが、子供を抱いた母親を含め、離れた場所にいた狒々が闇に拘束されて震えていた。


「異常とは?」


「ボスを殺された群れが、攻撃を続けた」


 ぐるりと状況を見回し、見事な断面を晒すボス個体を見つける。アベルの持つ魔剣だろう。ならば、最初にボスを倒したということか。


「確かに変ですね」


「だから調べたほうがいい」


「わかりました。ですが、調べるのに狒々は不要です」


「お義父様……子供に罪はないわ」


 魔物であっても、生まれた命に罪はない。そう懇願するルーサルカ自身、親に売られた経験をもつ。彼女の言葉には重みがあった。大きく息を吐いたアスタロトは、狒々を一つの場所に集める。


「わかりました。雄はあらかた処分しましたから、いいでしょう」


 危険もなさそうです。溜め息と呆れ顔を隠そうとしないが譲歩したアスタロトに、ルーサルカが飛びついた。


「ありがとう!」


「それより傷の手当をしなくては」


 女性の顔に傷など、百害あって一利なしでしょう。


 頬についた擦り傷に眉尻を下げ、痛そうな顔でアスタロトが手を伸ばす。吸血種は自らの治癒能力は長けているが、他者を癒す力は弱い。以前に血を与えたルーサルカであっても、瞬時に消すのは難しかった。


 連れ帰ってエルフ辺りに頼むほうが早いですね。アスタロトの判断は早かった。この状態に陥った以上、彼らもピクニックや花を愛でるのは諦めるだろう。


「ゲーテ、もう少し近くに」


 捕まえた狒々を先に転送し、追って自分達も城門前に飛んだ。魔法陣が一瞬で浮き上がり、残されたのは狒々の死体ばかり……赤い花が咲く木立の間を、野犬や他の魔物が歩き回る。どの個体もガリガリに痩せて、肋が浮いていた。


 飢えた獲物は強者が消えたことを確認すると、切り刻まれて潰された肉を貪り始めた。無慈悲なようだが、葬る手間は必要ない。生き残った者が倒れた者を食らうのが習いだった。


 ざわりと森が揺れる。哀れな子供達を嘆くように、枝を大きく揺すって葉を鳴らした。

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