730. 口はすべての災いの元
「リ、リリスを虐めるなっ!」
せっかく黙ったお姫様の気遣いを台無しにする魔王へ、アスタロト並みに黒い笑顔を向けたベールはゆっくり区切りながら言い聞かせる。
「虐めた? 誰が、ですか? 陛下、王たる存在が……軽々しく、そのような単語を、使ってはなりません。ご理解いただけますね?」
「え、あ、その……」
「
後ろに何か別の生き物が被って見える気がして、がくがくと首を縦に振る。了承を示したルシファーへ、魔王軍を束ねる男は満足気に頷いた。ルキフェルは紅茶のセットを用意し、目の前の人狼と子狼にお菓子を差し出す。この程度のやり取りは大公なら見慣れた日常だが、庶民の彼らには恐ろしいだろう。
震える子狼を守るように抱っこした人狼が、不安げに耳を垂らした。尻尾もしっかり足の間に隠しているため、よほど怖いのだ。正常な反応だな……調査票の最後に「恐怖への反応、正常」と追加記載したルキフェルは、書類を収納空間へほうり込んだ。
「ベール、お菓子食べよう」
この状態のベール相手でも、養い子のルキフェルは気にしない。手招きしてお茶に誘うと、ベールはいそいそと隣に移動した。腰掛けたベールは優雅な仕草でカップを手に取り、月と兎が描かれた模様を確認してから口元に運ぶ。
「美味しいです」
「よかった。リリスとルシファーもいる?」
ベリーや柑橘のジャムを乗せて焼いた小さなタルトのような焼き菓子を並べ、ルキフェルは無邪気に誘う。目を輝かせたリリスが喜んで立ち上がり、「行きましょう」とルシファーを促した。しかし正座して痺れた足が動かない。リリスも膝に乗せたので、さらに痺れは酷かった。
「……足、ちょ……っ、リリ、ス!!」
足が痺れてるから少し待って。そんな声の途中で、首を傾げたリリスは再び座った。先ほどと同じルシファーの膝の上だ。痺れた足に乗ったリリスは重くない。断じて重くないが……軽くもなかった。じわじわと痺れが回復しつつあった足は、再びの重量と刺激に悲鳴をあげる。
「どうしたの?」
「う、あ……な、でもな……ぃ」
瀕死の重傷かと疑う口調で否定するが、お姫様が信じるはずはなく、心配そうに身を乗り出した。だがまだ膝の上から下りていない。体重のかかる位置が変わったことで、さらに足の痺れを増長させるリリスが眉尻をさげた。
「ベール、治してあげて」
「……まず、私がした仕置きではありません。足の痺れに治癒魔法は効きませんから、お諦めください」
丁寧に魔王妃候補へ言い聞かせるが、「膝から下りたらすぐに治ると思う」旨の発言はなかった。そのため、リリスは悪気ない所作で正座したルシファーの足を撫でる。
「大丈夫? すぐに治るわ」
「あ、ありがと……リリス。その……向こうの机に、行こうか?」
どいてくれと言えば傷つけそうだし、嫌われたと勘違いされるのも御免だ。ルキフェルが用意したお菓子で気を引いて、その間に痺れを取るしかない。決死の覚悟の提案に、リリスは素直に頷いてくれた。
「わかったわ。私に掴まって、ちゃんと運ぶから」
ここでリリスの優しい手を断れるほど、ルシファーに余力はなかった。へっぴり腰でリリスに支えられ、悲鳴を押し殺しながらソファまでたどり着く。肩で息をするほど疲れたルシファーが倒れ込むように座ったソファに、リリスも当然のように腰掛けた。
「うぐっ……」
「ロキちゃん、お菓子は赤いのが欲しいわ」
「わかった。これでいい?」
いくつか別の皿にのせてリリスの前に差し出す。ベールが優雅な仕草でお茶を差し出し、リリスは笑顔で礼を言った。そんな彼女が腰掛けた下に、痺れきったルシファーの足が敷かれている。ルシファーの膝上が日常のリリスにとって、普段通りのごく当たり前の行動だった。
「ルシファー、食べられそう?」
「今、いい……」
というか、無理。涙が滲みかけたルシファーの目元に指先を触れ、リリスは頬を両手で包んで慰めるように触れるキスを頬に落とした。幸せな頬と、痺れが痛みに変わった足……天国と地獄を同時に与える黒髪の少女は、己の所業の残酷さも知らずに微笑む。
恐ろしい光景を目の当たりにした人狼は心に固く誓った。今見たすべてを記憶から抹消するか封印すべきだと……これは息子である子狼にもよく言い聞かせる必要がある。口はすべての災いの元――賢い人狼の決断により、魔王陛下の不名誉が城下町に流れることはなかった。
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