292. 落ち着くとぶり返す痛み

※多少痛いケガの表現があります。

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 リリスが言う『いなくなるパパ』は、ルシファー自身だ。逆にいま彼女が心配している存在は、かつての魔王位に就いた男だった。同じ器で同じ生命だが、リリスにとっては、大切な保護者と知らない男なのだ。まったく違う存在だと認識されていた。


 人族を滅ぼす魔王が怖いのではなく、自分が知らない口調と声で、見たことがない表情で、恐ろしい気配をまき散らす存在パパが恐いだけ。


「ごめんな、リリス」


 黒髪に唇を押し当て、潤んだ目を隠すように抱き着いた娘を何度も撫でた。そしてリリスの告げた言葉の中に、聞き捨てならない部分を見つける。


「リリス……何か『酷いこと』を、されたのか?」


「……うん。だってルカのこと棒で叩いたし、ルーシアやレライエに何か魔法かけた。シトリーもリリスの代わりに殴られたもん」


 どうやらお取り巻きに選んだ彼女達は、自分たちなりに主人となるリリスを守ろうとしたらしい。あの複数転移でどれほどタイムラグが生じたか不明だが、少なくともリリス達が危害を加えられる程度の時間があったのだ。


 怒りで目の前が赤くなった。今回はリリス達が目の前で攫われたから間に合ったが、もし魔の森の中で遊ぶ他種族の子供だったら? 知らぬ間に次世代を担う子供を犠牲にされた可能性がある。それも彼らは魔族に対する魔術の実験の一環として、この誘拐を企てた。


 生きるために必要な狩りとは違う。娯楽で人殺しをする犯罪者と変わらぬ、非道な行いだった。魔力の高い子供を攫って、魔力を絞り出すためにどれだけ残忍に振る舞うか知れない。


 腕の中で身を竦めているリリスも例外ではなかった。もし助けに飛び込んだ場所で彼女に危害が加えられていたら、後先考えず地下室を吹き飛ばしただろう。


「どこか痛くないか?」


 到着時に最初に聞いたが、あのときリリスは首を横に振った。しかし緊張感が痛みを抑えていたかも知れず、再度確認して、腕の中の幼女の手足を確かめる。見た目に傷は見当たらなかった。


「あのね……ここ痛い」


 我慢していたリリスの顔が、くしゃりと歪んだ。


 突然知らない場所に飛ばされ、向けられた敵意、恐怖、自分を庇って傷つく友人達、どうしたらいいのかわからず混乱していた気持ちが落ち着くと、痛みがじわじわとリリスを侵食する。一時的な昂ぶりで感じなかった傷が、痛みを生み出した。


 痛いと泣いても、もう誰も危害を加えたりしない。あの場で「やめて」と叫んだら、さらにひどい目に合わされた。だから庇ってくれた友達を守って、前に立ったけれど……怖くて。


 パパの名を呼ぼうとしたら、助けに来てくれたから。もうきっと大丈夫なはずで、殴られたりしないよね。滲んだ涙をそのままに、そっと手で押さえた場所は太ももだった。


「パパに見せてくれるか?」


 頷くリリスだが、さすがに都上空で最愛の存在の服をめくるわけにいかない。周囲を不透明のガラスに似た素材で包んで、簡易的な密室を作り出した。地上から見上げれば不自然だろうが、人族を気遣うつもりがないルシファーは、腕に抱いたリリスのスカートに触れる。


 手が震えてしまい、ルシファーはひとつ深呼吸した。このまま治癒魔法をかけることは簡単だ。治すだけなら、傷つけられた場所を見なくてもいい。しかし……都合が悪いから、見たくないから目を逸らすのは違う。


 淡いクリーム色のワンピースは、小さな血のシミがついていた。返り血ではなく、内側から沁みた血だ。気づかず見落とした自分を責めながら、ゆっくりスカートをずらす。


「ここ……」


 リリスが自分でスカートの裾を持ち上げて、膝と足の付け根の真ん中あたりを見せた。何かを突き刺したような鋭い傷が血を滲ませる。剣ではない……小さく細い、棒の先端に似たもの。あの地下室で見た風景に該当する物を、ひとつ思い浮かべた。


「杖、か?」


「……わかんない。棒みたいの」


「まず治そう。すぐに痛いのを止める。傷が残らないようにするからな」


 武器の詮索なんて後で構わない。複雑な治癒魔法陣を纏めて展開させた。痛みを止めて傷を癒し、流血を消して毒に対する魔法陣も追加する。巻き戻すように傷が小さくなり消える様子を、食い入るように見つめていた。


 完全に治ったはずなのに、心配で傷口があった場所に触ることができない。自分の手足ならいくら傷ついても我慢できるが、この小さな体で恐怖と傷に耐えたと思うだけで怒りが身の内を焼き尽くした。

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