933. 元勇者の直感は侮れない

 珍しくアスタロトは城を留守にしており、ベールは軍の演習に出かけた。ルキフェルは研究が大詰めのため、辺境周りを中断したベルゼビュートが合流する。


「この子を抱っこしていればいいの?」


「そうだ」


 ルシファーの肯定に、レラジェは嫌々と首を横に振る。そんな子供に視線を合わせ、ルシファーはきっちり言い聞かせた。


「嫌なら宿の部屋に閉じ込めるぞ」


 ぐすっと鼻を啜って、レラジェは我慢するように親指を咥えた。その姿が可哀想だと同情するのは簡単だが、アスタロト達大公の懸念も理解できる。視察中は、婚約した魔王と魔王妃のお披露目を兼ねていた。そんな2人を足して割った外見の幼子を抱いて歩けば、すぐに噂が広まってしまう。


 いずれリリスとの間に子供が生まれるとして、それまで他人の子を養子として育てることもあるだろう。だが今はまずい。婚約前に純潔を失ったとなれば、リリスの名誉に関わる。レラジェの外見が、ルシファーやリリスに似過ぎだ。否定しても噂に油を注ぐだろう。


「リリスを貶め、オレを貶す材料になりたくないだろう?」


 そんな事態になったら、誰が何と言おうがお前を刻むぞ。本気の脅しに、幼子は少し考えて頷いた。多少唇が尖っているものの、辺境を回るベルゼビュートの腕に収まることを承知する。


「では視察頑張ってくださいね。レラジェはお預かりしますわ」


「任せる」


 レラジェがどうやって魔王と魔王妃の間で寝ていたのか不明だが、その解明は大公達に放り投げる。魔王として今のルシファーの仕事は、視察を無事に終えることだ。ほぼすべての領地を回る大視察は、数百年に一度だった。寿命の問題で、一度しかルシファーの姿を見ずに死ぬ種族もある。魔王と魔王妃の大仕事だった。


「さあ行こう」


 腕を絡めたリリスと次の視察地へ向かう。仲睦まじく過ごす2人を見守る大公女達、護衛が続き、アベルは一番後ろを歩いていた。


 森が揺れる。風もないのに葉を揺らす木々を見上げ、アベルは不思議そうに呟く。


「変なの」


 音がこれだけ煩いのに、鳥や獣の気配は遠い。魔力を広めて感知する範囲を大きくしたアベルに気づき、ルーサルカが駆け寄った。


「どうしたの?」


「変な感じがするんだよな。予感というか、説明できないんだけど」


 肌の表面をざわざわと何かが這う感触に似た、違和感が近いのか。それより嫌悪感だろうか。気持ち悪さだけが積み重なる状態を説明できず、アベルは言葉を迷わせた。


「アベルって、勘が鋭いのかもね」


「俺のいた世界だと、フラグを立てるって言うんだよ。あまりいい感じじゃない」


 何がおかしいのか、見落としてて後悔するんじゃないか。そんな感覚がアベルを責めるように騒ぐ。しかし原因が分からなくて、アベルは大きな溜め息をはいた。


「何かあっても陛下とリリス様なら大丈夫。だから溜め息じゃなくて、深呼吸して気分を切り替えて。せっかく色々な魔族と会えるチャンスでしょ」


 笑い飛ばすルーサルカの後ろで尻尾が揺れる。ゆらゆらと左右に機嫌よく動く様子に、アベルは肩を竦めた。言われた通り森の空気を吸い込み、吐き出す。


「よし! 行こう」


「何よ、私が待っててあげたんだからね」


 走るアベルと手を繋ぎ、少し離れた同僚達に追いつく。仲の良い2人の様子に、レライエのバッグから顔を出す翡翠竜がぐっと右手を突き出した。右手の親指を上げて返事しながら、アベルは無意識に剣の柄に手を乗せて歩き出した。

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