150. ベルちゃん、こっちいらっしゃい

「ヤンが悪い子だったのか……困ったね、奥さん」


 話しながら、軽いがしっかりお仕置きしたように見える行為を考える。時間稼ぎするルシファーに、ヤンが不安そうな目を向けた。尻尾が足の間に入っている。すごく哀れな状況だった。


 安心させようと微笑んだが、逆に震えられてしまった……解せぬ。


「ヤンのお耳をもらいましょう」


「いや……さすがにそれはっ」


 もう半泣きのヤンが潤んだ目で助けを求めている。耳を取ったら、フェンリルじゃないだろ。おままごとじゃ済まない、スプラッタ映像だ。


「あなた?」


「えっと、そうだ! ヤンを少し離れた場所に繋ごう」


「甘やかしてはだめですよ、あなた」


 本当に、誰におままごとを習ったんだ? リリス。困惑したルシファーが次の案を提示した。普段から魔族への仕置きが厳しいアスタロトの、危険な過去のお仕置き例が浮かんでは消える。あんな方法を使ったら、ヤンは再起不能だった。ルシファーの頭はフル回転である。


「嫌がる方法が一番だ。ヤンを洗おう!」


 考え込むリリスへ畳み掛けるように、追加条件を出す。


「ヤンが嫌いな石鹸で洗う!」


 ぺたんと伏せたヤンは、もう敷き物状態だった。出来るだけ存在を消して、気付かれないように振舞う。本能がなせる技だろうが、彼もそれだけ必死なのだろう。耳も尻尾も平らになっていた。


 ヤンが石鹸を嫌いなのは、野生の魔獣ならば当然のことだ。自らの身体から出る匂いは、敵を呼び寄せる一因だった。狩りをする種族ならば、石鹸や香水のような人工的な匂いを纏いたがらない。


「ヤンが嫌い?」


「石鹸は大っ嫌いだぞ。なあ、ヤン」


 助け舟を兼ねた問いかけに、困りきったヤンが「く~ん」と情けない声をあげた。倒れた耳や尻尾をみていたリリスが、大人びた態度で溜め息を吐く。仕方ないから許してあげるお母さん役らしい。


「ではそうしましょう、あなた」


「はい、奥さん」


 耳を切らされなくて良かったとほっとしながら、表情は真面目さを作って頷く。ここでうっかり笑顔になると、奥さん……ならぬ、リリスに見破られてしまう。





「陛下、追加の書類はこちらに置きますね」


 気の毒そうな眼差しを向けながら入室したベールが、床に座る魔王と森の獣王である灰色魔狼フェンリルの姿に苦笑いする。彼女がおままごとに飽きるまで、彼らはしばらく付き合うことになるだろう。哀れだと同情しながら、書類を机の上に置いて踵を返そうとしたベールが呼び止められた。


「ベルちゃん、こっちいらしゃい」


 小さい「っ」がひとつ抜けてる。噛んだのとも違う可愛い間違いに、ルシファーの頬が緩んだ。逆に呼び止められたベールが青ざめる。


 急にターゲットにされ、ベールの青い目が泳いだ。以前に一度『赤ん坊役』をやらされた記憶が苦く脳裏を過ぎっているに違いない。気の毒だが、ベールを逃がすと後が怖い。ルシファーがこっそり拝んだ。


「い、忙しいので……」


「ベルちゃん」


 にっこり笑ったリリスに手招きされ、陰でルシファーに両手を合わせて頼まれると、仕方なく近づいた。ぽんぽんと床を叩くので素直に座る。突然巻き込まれたおままごとから逃げる方法を模索する、魔王軍の策士は視線をさ迷わせた。


 とっさのことで、良い案が見つからない。


「お母さんのお膝ですよ」


 あ、まただ。どういう理由か知らないが、ベールは赤ん坊役らしい。ルシファーより少し背の高い男に寝転ぶよう指示し、リリスは笑顔で銀髪を撫で始めた。


 こうなったら早く終わらせて帰ろう。諦めの表情で横たわったベールを、突き刺す殺気まじりの視線――リリスの膝枕を羨むルシファーの殺人光線を受けながら、ベールは苦行に耐えた。






 なお、彼らのこの姿は一部の侍女や侍従の口を伝い、城下町を賑わせる娯楽うわさとなる。


 『魔王妃となるリリス姫を巡って、魔王陛下とベール大公閣下が対立している』から始まり『魔王陛下とベール大公閣下は、リリス姫のお膝を争っている』になり、最後は『リリス姫のお膝を勝ち取ったベール大公閣下は、魔王陛下に決闘を申し込まれた』まで活用されたらしい。

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