42章 魔王妃殿下のお勉強

564. 幸せな引きこもり

 魔王や大公が城に引き上げたことで、貴族達も領地に戻った。タブリス国の最後を見届けた魔王軍による掃討戦も終わり、魔族は穏やかな日常へ帰っていく。そんな彼らに届いた新しい噂は、僅か数時間で魔の森全体に広がった。


『魔王妃殿下は人族の呪いにかかっていたらしい』『今回の人族殲滅戦で、呪いが解けたそうだ』『魔王様が魔力を魔王妃へ注いでこられたので、無事だったというぞ』


 どの噂もすべて間違っているが、発生するたびに魔の森に広がる。発生源を辿って消すことも考えたが、さほど害はない好意的な話が多いため、今回は見逃すことになった。


 それらの決定が行われた執務室で、空席となった魔王の椅子に目をやり、4人は溜め息をついた。


「陛下はまだ、ですか?」


「ええ、部屋から出ようともしません」


 魔王ルシファーの不在は、殲滅戦から7日間続いている。当初は「あの状態から回復しただけでも奇跡」と好きにさせた側近達も、いい加減出てきて欲しいと口を揃えた。


「即位記念祭の予定もありますし、事務処理もとどこおります」


 愚痴ぐちるアスタロトが覚悟を決めて立ち上がった。叱られようが怒鳴られようが、彼と彼女を部屋から引っ張り出さなくてはならない。嫌われる役目だが、誰かが引き受けなければ事態は硬直したままだ。


「私がなんとかします」


 城内は転移が使えないため、歩いて移動する。上階の魔王の私室へ近づくと、不思議な結界が張られていた。物理的な侵入防止措置ではなく、心理的な罠に似ている。近づきたくないと認識させる結界に「何もここまでしなくても」と苦笑いが零れた。


 突破して扉に手をかける。今度は物理で弾かれた。触れた手が痺れるのは雷系の魔法陣だろう。扉全体に水を染み込ませ、魔法陣を発動させる。ばちっと大きな音がして、扉の抵抗が消えた。


「ルシファー様、リリス様……入りますよ」


 最低限の礼儀として声をかけ、扉を開いた。薄暗い部屋の中は静まり返っている。リビングや執務室として使えるよう、2人の部屋の間に設えられた部屋だ。柱を極力減らした広い部屋は、ドワーフ自慢の技術が施された傑作だった。猫足の家具が並ぶ部屋に、人影はない。


 左は魔王妃の私室、右は魔王の寝室だった。常に一緒に眠るため、リリスの部屋に寝室は存在しない。ルシファーと一緒に寝る彼女の私室はドレスやお茶の道具、彼女が気に入った玩具と家具が並ぶ。魔力を感じる右側へ進んだ。迷いなく扉に手をかけて開く。


「……ルシファー様」


 呆れに似た感情が滲んだ声に、もそもそとシーツの中から白い髪が覗く。頭までシーツに包まった美貌の青年は、腕に抱き込んだ少女が起きないよう気遣いながら顔を見せた。


「なんだ?」


「もう7日間ですよ。そろそろ表に出ていただかないと困ります。御前会議も延期したままですから」


 大規模な戦いの後は、必ず御前会議が行われる決まりだ。日程に明確な決まりはないが、通例では死者がなければ3日以内とされていた。死者が出た場合は、彼らの喪に服した後で開かれる習わしだ。今回の戦で死者は確認されていない。にもかかわらず魔王が姿を見せないため、大きなケガをしたのでは? と不安が囁かれ始めていた。


 魔王陛下か、魔王妃殿下のどちらかに回復困難なケガがある――そんな噂を放置するわけにいかない。そう告げて反応を見れば、ルシファーは渋々身を起こした。


「わかった。起きる」


 最愛の少女をシーツで隠し、覗き込む瞳は優しい色を浮かべている。手が届くところに彼女がいる、その事実が嬉しくて堪らない。表情が語る感情に、アスタロトは肩を竦めた。


 隣にいろと誰にも望まなかった主君が、どうしても手放せないと望むリリスはまだ眠っているらしい。手早く身支度を整えるルシファーの髪を掴んだ手は、見慣れた幼女より大きかった。


 ああ、12歳前後に戻ったのでしたね。蕾を選択したルシファーの意向を汲んだリリスの外見は、美しい少女に成長した。改めて実感しながら、シーツで包んだリリスを抱き上げるルシファーに首をかしげた。


 まさか夜着の少女をシーツで隠して連れていくのか? この人ならやりかねない。注意しようとしたアスタロトの前で、ルシファーが魔法陣を描いて発動させた。一瞬で着替えた少女が、うっすら目を開く。


「ん、ルシファー?」


「寝てていいぞ」


 よくないです。言いかけた言葉は喉の奥に張り付いた。ふわりと微笑んだルシファーの表情は、今まで見た笑顔が作り笑いに見えるほど、柔らかく美しい。驚きすぎて何も言えないアスタロトの前で、シーツを外したルシファーがリリスの額にキスをした。擽ったそうに首をすくめるリリスが、首に手を回して引き寄せる。


 強請るリリスに屈んでキスをした。ルシファーの唇が重なって離れると、リリスは幸せそうに笑う。頬をすり寄せる仕草は、幼女の頃からよく見せる癖だ。


「……まだいたのか、アスタロト」


「当然です、お2人を連れていくのが私の仕事ですから」


 邪魔者扱いされる。それもまた平和な証拠と受け入れる側近の嫌味に、リリスとルシファーは顔を見合わせた。

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