797. 不安と恐れが混じる先で

 大量の報告書を自動筆記する魔法陣を使用するルキフェルは、ぶつぶつと呟いた内容を筆記させていた。資料と向き合っている間に呟いた内容が、意外と的を射ていたりするのだ。微妙な内容も多いが、後で整理すればいい。


 持ち帰った海水と、巨大生物の三角の頭と触手らしき部分を分析しながら、後ろの研究員に声をかける。


「終わった?」


「はい、これですね」


 イポスの恋人であるストラスだ。近々婚約予定だがこの騒動で、申込は数ヶ月の延期を検討していた。そのため少しでも早く解決しようと、研究所に泊まり込んでいる。ルキフェルが持ち込んだ海水を複数に分けて試薬を入れた。その分析を行う魔法陣ごと、ルキフェルへ差し出す。


「うーん、特に気になる変化はないね」


 思った成果が出ないことに苛立つルキフェルへ、別のテーブルで作業をしていた者から声がかかる。


「こちらは変化しました」


「どれ?!」


 慌てて駆け寄り、魔法陣の上に置いたガラスの瓶を覗き込む。蓋をした上で魔法陣により時間を数十倍早めた瓶は、奇妙な現象が起きていた。


 黒い粒が大量に沈んでいる。海水の時間を進めただけなら、濁って腐るのが一般的だ。それなのに僅かに濁る海水から黒い粒が発生した。研究員が手を伸ばして蓋を開けようとした瞬間、毛の生え際が痺れるような感覚に襲われた。


「ダメ、開けないで」


「中の粒を取り出さないでいいんですか?」


 不思議そうに首を傾げる男は、危険を感じていないらしい。後ろから覗き込むストラスも平然としている。だがルキフェルは、過去何度も己の直感に助けられたため、疑うことはなかった。


「結界で包んで開ける。屋外へ運ぶから」


 緊急時に建物の中だと逃げ場を失う。魔王城の敷地の一角にあるため、転移で危険物を放り出すことも出来ないのだ。妙に慎重な上司に首を傾げながらも、彼らは素直に従った。


 研究所前に作られた庭は、基本的に毒のある植物が多い。研究材料を兼ねて育てるこれらの植物は、いま花の季節で紫や赤い花びらが揺れていた。


「下がってて。僕より前に出たら、何かあっても守れないからね」


 最低限の注意をしたルキフェルの後ろには、興味を引かれた研究者が5人に増えていた。転移魔法陣をひとつ描く。転移先は昔から危険物を捨ててきた、地中深くの洞窟内だ。近くに溶岩が迫る場所なので、いざとなれば溶岩で固めて封じられる手筈になっていた。


 転移魔法陣の上に魔力で膜を作る。これで上の魔法陣が作動しても、連動しないように分離した。以前にルシファーが使った手法を参考にしている。膜の上に結界の魔法陣を描く。真ん中に瓶を移動させて、結界を閉じた。


 ここでようやく安堵の息をつく。


「よし、蓋を開けるよ」


 ルキフェルの念を入れた手順に、研究員たちの緊張も高まる。ごくりと喉を鳴らした彼らの前で、結界内の蓋がゆっくり捻られた。密閉容器の中身が広まる。


 次の瞬間、ぴしっと硬い音がしてガラス瓶が砕け散った。黒い粒が結界の内側に張り付き、中が見えなくなる。


「っ、ベール!!」


 咄嗟に呼んだのは、頼りになる養い親の名――召喚の響きをもって口をついた声は、悲鳴に似た恐れを滲ませていた。

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