第539話:それはてるてる坊主のように

「だんなさま、つめたーい!」

「ほら、動くなって」

「えへへーっ、わしゃわしゃわしゃ~っ!」


 春とはいえ冷たい井戸水をぶっかけながら、リノの髪を洗う。

 初めて出会ったときは明るい茶色だと思っていた髪だが、明るい茶色とはちみつ色のまだらだということに、最近気が付いたんだ。


 特に前髪の一部の房がまとまっているほか、髪全体の中に混じり合うような感じ。光の加減でそう見えるのだろうと思っていたが、やっぱり髪の色自体が違っていたらしい。


 よく乾かした髪がふわりと風をはらむと、陽光にきらきらと輝いてとても綺麗だ。春だからこそ、気づくことができたのかもしれない。

 で、気づいたからこそ、朝、彼女の髪を洗うことにした。現場では保護帽ヘルメットで隠れてしまう髪だが、現場に行くまでにふわりとなびく彼女の髪を眺めることも、楽しみの一つになった。


「ね、ね、だんなさま!」


 リノが、俺の手を無視して俺を見上げる。


「こら、まだ洗ってる途中だ」

「シェクラの花、もう半分くらい咲いてるよ!」

「そうだな、今年の花もとても綺麗だ」

「パイって、いつ食べれるの?」


 ……リノの期待に満ちた目が愛らしい。思わず抱きしめたくなるのを我慢する。


「……そうだな、花が咲き終わったあと、実になってからだから……あとふた月ほど先かな?」

「ええーっ⁉ そんな先なの⁉」


 リノが目を丸くする。

 ぴんと立っていたしっぽが見る見るうちに垂れていき、耳も伏せてしまった。


「なんだ、シェクラの実自体は食べたことはあるんだろう?」

「地面に落ちてるの食べただけだから、いつごろとか気にしたことないもん」


 ……今度こそ、考える前に抱きしめていた。

 くすぐったがって身をよじるリノを、力いっぱい。


「ふひゃっ⁉ くすぐったい、だんなさま! 急にどうしたの?」

「……リトリィたちが、美味しいのを食べさせてくれるからな?」

「わ、わかったから! だんなさまくすぐったい、おむね……!」


 リノの後頭部があごを直撃するまで、それは続いた。




 屋根の修理ももうすぐ終わる――そんなときにこそ、油断というのは起こるものだと実感させられた。


「うわっ⁉」


 悲鳴とともに、バーザルトがしりもちをつく。

 ――軒先に向かって。

 後ずさりしながらつまずいたバーザルトは、そのまま実にあっさりと背中から転げたあと、腐っていたためバラ板を外したままだった空白部分から姿を消す――‼


「バーザルトッ‼」


 そばで作業をしていたリファルも、新しい瓦を持って足場を歩いていた俺も、バーザルトに何も届かないまま、彼が屋根の穴から消える瞬間を見送ってしまったのだ。


 とっさに瓦を足元に置くと、足場を駆け抜けて俺は屋根の上に飛び乗った。


「あっ――バカ! ムラタ、お前は……!」


 その瞬間、バラ板を踏んだ俺の足は、そのまま腐りきったバラ板を踏み抜いた。

 奇妙な一瞬の浮遊感のあと、激しい衝撃が胸を打つ!


「ぐへッ!」

「だんなさまぁッ!」


 リノの声が妙に遠くに感じ、俺はそのまま足をつかまれてずるりと体が引きずりおろされるかのような感覚に襲われ――


 気が付いたら、襟首をつかまれてぶら下がっていた。


「ムラタ、このバカヤロウが! お前は安全帯も命綱もつけてねえんだぞ! それなのに軽はずみに屋根に乗りやがって!」

「……すまない。バーザルトが落ちたのを見て、つい……」

「バカ! バーザルトは安全帯も命綱も付けてるだろうが! お前は何にもつけてねえんだぞ! お前が一番危ねえんだ! 現場監督のくせに何やってんだ!」


 リファルが、顔を真っ赤にして怒鳴る。


「ていうか、もう重くて持っていられねえよ! お前、残りの高さは三尺(約一メートル)もねえんだろ? 手を離すから、うまく着地しろよ!」

「わ、分かった」


 すぐ目の前はバラ板があって、首からを見ることはできないが、逆に言えば首から下はすっぽりと部屋の中に入っている。屋根裏部屋で、軒先近くの屋根は低いから、たしかにつま先から床まで、一メートルもないだろう。

 ということは、そのまままっすぐ飛び降りれば、着地のタイミングさえ間違わなければ怪我をすることもないはずだ。


「……よし、手を放してくれ。放すときは声、かけてくれよ?」

「分かって、るって……!」


 何度も「放すぞ!」という確認、そして訪れた浮遊感。すぐさまやってきた衝撃。


 そして、転倒。


 いや、着地した場所に、俺が踏み抜いたバラ板が散らばっていたんだよ。

 それを踏んでしまったものだから、足をひねって着地に失敗。俺は無様に床に転がったというわけだ。

 そして目の前には、命綱のおかげで屋根の上から宙吊りになっているバーザルト。

 彼には申し訳ないんだが、一瞬、自分自身の足の痛みを忘れた。まるでてるてる坊主のようにぶら下がっている、その珍妙な姿に。


「監督……なんかすみません。自分のせいで……」


 床に転げて足首を押さえてうめいていた俺に、心底すまなそうに声をかけてきた彼に、俺は歯を食いしばりながら無理矢理笑ってみせる。


「いい、いいんだ……。お前が無事なら、それで……!」


 足首をつかんで転げ回りながらそんなことを言っている俺は、相当にかっこ悪かったはずだ。だが、バーザルトが怪我をしなくてよかった。俺が怪我をしても俺が我慢をするだけで済むが、バーザルトが怪我をすると、作業が遅れる。


 しかも彼は、マレットさんから借りてきたマレットさんの大事なお弟子さんだ。怪我をさせるなんてとんでもない。それにバーザルトはまだ十代だが、生まれたばかりの子供もいる。怪我をして働けなくなったら、困るのは彼の家族だ。


 それにしても、本当に安全帯を実用化しておいてよかった。また、言うことをちゃんと聞いてくれるヒヨッコたちでよかった。


「バーザルト、怪我とか痛みとかはないか?」

「自分は大丈夫です。それより、監督は……」

「俺はいいんだよ。お前のほうが心配だ、背中から転げ落ちたから、変な衝撃でどこか痛めていたりしないか心配なんだ」

「いえ、監督こそ、奥さんが――」


 バーザルトが言いかけたときだった。

 天井の穴から飛び込んできた影があった。


「だんなさまっ!」


 ――リノだった。

 足首を抱えていた俺を見て、泣き出さんばかりに飛びついてきた。


「いてて――どうした、何かあったか?」

「だんなさま、足どうしたの⁉ おけが? おけがした⁉」


 ひどく狼狽して泣きださんばかりのリノの姿に、俺は胸が痛くなる。

 たった今バーザルトには「自分よりもお前が心配だ」と、本気でそう考えて声を掛けたが、考えてみたら俺にだって、怪我をすると俺のことを心配して胸を痛めてくれるひとたちがいるんだ。


 「自分だけの体じゃない」――よく聞く言葉だけど、その意味を俺は深く考えていなかったのだということを、改めて思い知らされる。


「……心配かけたな、すまない」


 だんなさま、だんなさま――そう繰り返してしがみつくリノの頭を撫でてやりながら、俺は、自分という存在について、俺自身があまりに軽んじていたことに気づく。


 そうだ。

 自分だけのためじゃない・・・・・・・・・・・んだ、安全も健康も。自分の身の回りの人たち――自分の身を案じてくれるひとたちのためにも、俺たちは自身の安全や健康に気を配らなきゃいけないんだ。


「――ほら、引っ張り上げるぞ! そらっ!」


 掛け声が上から聞こえてくる。宙づりのバーザルトを引き上げようと、屋根の上のメンバーが一緒になって声を掛け合っているようだ。


「よーし、そのまま引っ張れ!」


 リファルの声に合わせて、さらに掛け声が合わさった、その瞬間だった。


 ミシッ――バキッ!


 いやな音が聞こえた――そう思ったのと同時に、天井が抜けて降ってくる!


「うわああああっ‼」


 四人が、瓦礫とともに一斉に降ってきた!

 なんて偶然だよ!

 見落としていた垂木の傷みが、バーザルトを引き上げようとした四人分の負荷の集中に耐えられなかったんだ!


 酷いほこりでしばらく咳き込んだあと、やけに明るくなった部屋を見上げる。


「……とりあえずムラタ。脚立きゃたつを持ってこい」


 上で作業をしていたリファルをはじめとした四人が、仲良くてるてる坊主となってぶら下がっていた。

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