第673話:おかえりなさい、あなた(1/2)

「だんなさま、おかえりなさいませ」


 リトリィが、俺の道具袋を受け取りながら微笑む。「ちかごろは、はやくに帰ってきてくださって、とってもうれしいです」と、頬を染めて言う彼女が愛おしくて、その頬にキスをする。


「おなかペコペコ! マイセルお姉ちゃん、今日の晩ごはん、なあに?」


 家に飛び込んだリノに、マイセルが「手は洗ってきたの?」と問われて、井戸のある方を指差してから「洗ってきたよ!」と両手を見せる。


「偉いわね。じゃあ、今日のお夕餉ゆうげは鯉の煮つけですから。いい子にして待っててね」


 微笑んで答えるマイセルに、リノは歓声を上げて飛びついた。




 リトリィの妊娠が分かってからは、俺はなるべく早く仕事を切り上げることを心がけるようになった。


 日本で働いていた頃は「働き方改革」なんて言葉があったけど、それを聞く度に、「そんなこと言ってられるか、政治家は現実も知らないのか」とイライラしていたものだ。


 でも、今になってそれを痛感する。自分の妻の体のこと、おめでたのことも気づかずに、何が夫だ。

 自分の心身の健康はもちろんのこと、生涯を寄り添い生きる大切なひとのことを思いやれる「心の余裕」を持てるようにすること。それも、「働き方改革」の一つのポイントなのではないだろうか。


「マイセル姉ちゃん! シシィが泣き始めたよ! おっぱいかな、おむつかな、ねえどっち?」


 ニューが、藤籠の中をのぞきながら手を振る。


「わかったわ、ちょっと待って」


 マイセルがエプロンで手を拭きながらキッチンから向かおうとするのを制して、俺はシシィのもとに行くと抱き上げた。初めて手にしたとき、あんなに小さくて、しわくちゃな猿だと思った我が子だけれど、今ではすっかり丸々として、腕なんかコンビニの「ちぎりパン」状態だ。顔を真っ赤にして泣くのも、可愛らしくてたまらない!


「おっさんおっさん、おっさんが抱っこすると泣くんだから、余計なことすんなよ」


 ニュー、お前はいい加減に言葉を直せって。女の子だからってのはあまり言いたくないが、ヒッグスとニューとリノの三きょうだいのなかでお前だけだぞ、いまだに言葉が荒いのは。


「俺だって父親なんだ、これくらいできるさ」


 そう言っておむつに鼻を近づける。においをかげば、この子が求めているのはおむつ交換かおっぱいか、それが一発で分かるから──


 ……うん、この、におい。


 鼻を直撃した香り・・に意識を一瞬、持って行かれそうになったものの、歯を食いしばって踏みとどまる。天使シスのように愛らしい我が子シシィだが、それでも人の身なのだ。飲めば出す!

 ……よォーし、気合を入れて頑張ろうか!


「あっ、おっさん、どこ行くんだよ」

「決まっているだろう、おしりを洗ってあげるためのお湯を準備するんだよ!」


 作った動機の半分以上が、「赤ちゃんのおしりキレイキレイ」のためなんだからな、太陽熱温水器!

 いや、ほんとにすぐかぶれるんだよ、赤ちゃんのおしりって。

 やっぱりちゃんと綺麗にしてやらないとな!




「ふふ、あなた、どうなさったんですか?」

「……いや、今日も働いたなあ、と……」


 月明かりの中、リトリィの金色のふかふかの毛並みは、銀色に輝いて見える。

 獣人の妊娠期間は、人間のそれよりも短い。種族にもよるが、犬や猫の系統だと、半年余り──七カ月程度で出産となることもあるようだ。おそらくリトリィもそうなるのだろう。


 今のリトリィは、妊娠してふた月ほど──人間で言えばもう、三カ月目に入りそうなものらしい。お腹のふくらみを、少し感じるころになった。つわりはもう治まったようだが、今度は以前よりも食欲がわいてくるようになったそうだ。


 庭のテーブルとベンチ──結婚式のとき、大工の見習いたちが、式場準備として我が家でいろいろ手伝ってくれたとき、一緒に作ってくれたもの。俺たちはそこで、月を見上げていた。

 ベンチに寝そべって、リトリィの膝枕で、月を見上げている。


「このふた月、ほんとうにたいへんでしたね」

「……まあ、そうだな」


 約二カ月前、震度四程度の地震が発生した。

 建物が一部損壊・屋根の瓦が滑り落ちて無くなってしまう事案が多発。少なかったが、全壊してしまった例もあった。そして、それに巻き込まれて怪我をする人、亡くなった人もまた、少なくなかった。

 住んでいた家が全壊してしまった瀧井さん夫妻など、俺たちが助け出さなかったら、どうなっていただろう。


 そして、屋根瓦が失われた家が多数あったことで、雨による被害も深刻だった。この二カ月は、とにかく屋根の修理に費やされた。瓦の製造も修繕作業も間に合わないから、とりあえずブルーシート代わりの、草皮そうひで作られた油紙あぶらがみによる防水シートでしのぐありさまだった。


 もちろん、二カ月経った今でも街の復旧は進んでいない。街の修繕しなければならない規模に対して、大工が少なすぎるんだ。


 ……とはいっても、この対応に十分な人手が確保されているとしたら、それはそれで問題だ。そんな大人数の大工が、平時に必要なはずがない。つまり、限られた顧客パイを奪い合っての共倒れだ。


 結局、今の殺人的な忙しさは、平時の大工が食っていけるための人数、という安全策が生んだ、一時的なものなのだ。とにかく、今をしのぐしかない。


「……風も、涼しくなってきましたね」

「秋、だからな」

「ふふ、もうすぐ、あなたとであったころですね」

「そう、だな……」


 そうだ。俺がこの世界に落ちてきたとき、この世界は秋だった。

 俺はこの世界にやって来た異邦人なのだ。

 それが、今では現地の人──リトリィと結ばれ、この世界で、「おかえりなさい」と言ってもらえる人間になった。


 そう、俺はもう、この世界の住人なんだ。

 日本を懐かしく思うことは何度でもあるが、それでも、もう、あの世界に帰ることはない。

 たとえ、その機会があったとしてもだ。


「なつかしいですね……」

「なつかしい……かな」

「ふふ、おんなのひとになれていないあなたが、一生懸命だったり、わたしをさけたり……。おぼえていますか? はじめてあなたが起きた日のこと」

「忘れるものか」

あぬびす・・・・さま……でしたっけ。あなたのふるさとの、神さま……」

「うん、まあ、そんな勘違いをしたこともあったっけ」


 初めて出会った、この世界の人。

 それが君で、本当によかったと思う。

 その君のお腹の中に俺の子がいると思うと、感無量だ。


「職人のほこりをかけて、お兄さまとけんかをしたり」

「あれは、リトリィがアイネの脳天を切り株・・・で殴りつけて収めたよな」

「あ、あれは……お兄さまがわるいんです」


 恥ずかしそうに目をそらす。

 彼女の感性でも、愛しい男性の前で兄を鈍器でぶん殴る姿をさらすのは、やはり恥ずかしいことだったのだろう。


「いたんだ屋根をなおそうとして、おちかけたり」

「……屋根材を探していたとき、君のしっぽを触って、平手打ちを食らったよな」

「……あれは、あなたが、しっぽのつけねをさわったからですよ?」

「まさかそこが性感帯だったなんて知らなかったんだよ、あのころは」

「屋根をなおしたあとに、くちづけも、はじめていたしましたよね。いまでは、おんなのこの体のすみずみ・・・・までご存じなのに」

「君の体で知ったんだよ。どうすれば悦ぶかも、全部、君で」


 年齢=彼女いない歴、二十七年。デートの仕方も満足に知らなかった俺を、いろんな意味で導いてくれたのが、彼女だった。


 彼女は王都と呼ばれる大都市の暗部で生きる、ストリートチルドレンだったという。生きるために、男の欲望を、その口や手などで吐き出させて糧を得るというようなこともしたことがあるらしい。当時、姉と慕う年上の女性から、いざという時に男性を満足させるための手練手管を学んだとも聞く。


 だから、初めて愛し合ったときも、彼女にリードされてのことだった。彼女自身は純潔を守り抜いてきたから、どちらも初めてのことで、色々大変だったけれど。

 

「わたし、あなたと出逢えて、ほんとうにしあわせです。……ううん、あなたに巡り逢うために、わたしは生きてきたのだと思います」


 きっと、神さまのおぼしめしですね、と彼女は笑った。


「神さまはきっと、あなたとつがわせるために、わたしをあの山にとどめおいていたのでしょうね。ひととはちがうわたしを、きらわず、さげすむこともなく、ひとりのおんなのことして愛してくださる、あなたのために」


 お兄さまの心配性も、そういう意味で配されのだろうと、リトリィは苦笑した。

 俺は神様なんてものはあまり信じていない。……信じて、いなかった。


 俺がリトリィを差別しないのも、たまたまだ。たった一年だけの俺の同期だった、島津の影響だ。あのアニメオタクに布教されまくって、世の中にはケモノキャラというものが存在すること、その魅力を徹底的に吹き込まれたせいで、そういう嗜好にも一定の理解をするようになっていただけ。


 もし島津と出会っていなかったら、俺はリトリィを見たとき、恐れたり嫌悪したりしていたかもしれない。なにせ外見は「体格が人間準拠」というだけの、直立二足歩行の犬と大して変わらないのだから。


 ……リトリィの、そこだけ狙ったようにすべすべの白い肌がまぶしい豊満なおっぱいに魅了されたってのは、口が裂けても言えないけどな! さすが童貞だった俺、童貞力は種族の壁をも乗り越える!


「そういえば、その……」


 リトリィが、言いにくそうに目をそらした。


「……やっぱり、なんでもないです。ごめんなさい」

「なんだい? 俺たち夫婦の間では、隠し事は無しにしようって決めただろう?」


 かつての自分が──今もだが──おっぱいに魅了されて彼女との種族の壁を乗り越えたことは隠しつつ、しれっと聞いてみる。


 リトリィは、しまった、というような目をした。でも、ちゃんと話してくれた。


「あの……いまさらですけれど、どうして、あなたは、身投げをなさったんですか?」

「身投げ?」


 ……俺、自殺なんてしたことなんてないぞ?


「でも、お父さまはおっしゃいました。あなたは身投げをしたのだろうって。わたしも、お父さまが川から引き上げてきた、氷みたいにこごえきったあなたをあたためるために、とこをおなじくしたのですよ?」


 俺は首をかしげる。

 ……そういえば、俺、リトリィに温められて、命を救われたんだっけ。

 彼女の育ての親──今となっては俺の義父おやじ殿となったジルンディール親方も、そう言っていたか。


 俺の日本での最後の記憶は、確か午前二時を回った職場を出て帰宅しようとしたら、真っ黒な穴に落ちた──というものだ。


 多分、そのままこの世界に転移した時に、川に落ちたんだろうと思っていた。

 ずいぶん間抜けな転移だと思う。神さまにチートをもらうでもない、召喚されて素晴らしい能力に目覚めるでもない。強いて言うなら、突然開いたワープトンネルで、偶然、この世界に落ちてきただけなのだ。


「だから、俺は身投げなんかじゃなくて──」


 言いかけて、そして、気づいたんだ。


 ──俺は、リトリィと出会う前に、なにをしていた?


 唐突に、記憶の断片が蘇る。


 何者かから逃げる俺。

 必死で森を走る俺。

 森が切れた先の崖を踏み外す、あのぞわりとする浮遊感。


 ──俺は、リトリィと出会う前に、たしかに、どこかで、何かをしていたんだ!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る