第674話:おかえりなさい、あなた(2/2)
「きゃっ……」
勢いよく身を起こした俺に、リトリィが驚く。
「ど、どうかなさったんですか?」
「そうだ……。俺は身を投げたっていうか……たしかに落ちたんだ、崖から」
自分の両肩を抱くように、俺は震えていた。
もう何年も前の記憶だ、はっきりとは覚えていない。
けれど、断片を思い出して、俺はどうしようもない寒気を覚えたんだ。
思い出してはいけない何かに触れてしまったような。
……ああ、震えが止まらない!
「あの、あなた……ごめんなさい、わたしがよけいなことを……!」
ひどくうろたえるリトリィに、俺こそ謝罪する。
彼女は言いかけて、やめたんだ。きっと、どうしても聞いておきたかったんだろう。でも、俺が気を悪くすると思って、止めたんだ。
それを俺が、無理に聞き出してしまった。「夫婦の間で隠し事を作らない」──リトリィが立てた誓いを、俺が利用して。
俺が悪いんだ。なにもかも。
「いえ……わたしがよけいなことをきいたから……!」
リトリィが俺を抱きしめて、ぽろぽろと涙をこぼす。
「あなた、おねがい……もういいです。いやなことなんて、みんな、わすれてしまいましょう? わたしが、あなたのいやなこと、みんなわすれさせてあげます……。あなたのなさりたいことがあれば、わたし、なんだってしてみせます。なんだって受け入れます。だから、どうか……!」
リトリィが、俺を説き伏せようとするように、言い聞かせるように、なんならその豊満な胸で俺を引き留めようとするかのように、涙をこぼしながら、訴える。
「……大丈夫だよ。俺は別に、何かを思い出したから変わるとか、そんなことはないから。君との生活こそが、俺にとって一番大事なことだから」
ひどく取り乱す彼女が哀れで、俺は彼女から一度身を離したあと、改めて彼女を抱きしめる。そして、その頭をなでながら、静かに、何度も言い聞かせた。
彼女は、どうも俺がどこかに行ってしまうのではないかという不安に取りつかれたらしい。
彼女は、日本に帰りたがっていた頃の俺を知っている。もちろん、「日本に帰るのは絶望的」だと知ったときのうろたえぶりも。
もしかしたら、リトリィと出会う前の俺の記憶を取り戻してしまったら、俺が出て行ってしまうのではないかと思っているのかもしれない。
なにせ俺は、一度リトリィを置いて飛び出して行ってしまったことがあるのだから。
情けない話だけど、二十七年間童貞だったことで女性相手に変なコンプレックスを抱えていたものだから、リトリィのことを「男性経験が豊富」だと勘違いをして、それでおかしな勘違いを起こして彼女の元を飛び出してしまったんだ。
あのとき、ちらとでも疑った自分をぶっ飛ばしたい。なんなら、タイムマシンであの時の俺のもとに行って一発ぶん殴って、こんなに素晴らしい女性は他にいない、泣かせるなんてもってのほかだと、小一時間説教したいくらいだ。
そんな前科がある俺だ。彼女が不安がるのも当然だろう。ましてリトリィは、俺が異世界からやってきたことを知る数少ないひとの一人なのだ。俺が、いつかリトリィを置いて異世界に帰ってしまうのではないかと、ずっと恐れていたのではないだろうか。
「……やっぱり、俺は今でも信用できないかな?」
「そんな!」
彼女は目を大きく見開いて、みるみるうちに涙を溢れさせて、そして飛びつくようにすがり付いてくる。
「あなたのことを信じていないなんて、そんなこと、あるはずがありません! わたしはあなたの妻です、あなただけのリトリィなんです! あなたのことが信じられないだなんて、そんなおそろしいこと……!」
「だったら、信じてほしい。君の夫は、たしかに押しに弱くて断れない性格なのかもしれないけれど──」
俺は、彼女からそっと体を離し、不安そうにする彼女の、ケモノらしい薄い唇に、自分の唇を重ね合わせる。
「──君のことが一番大好きで、君の全てが一番だと思っている男なんだ」
そう言って、俺は再び彼女を強く抱きしめ、その頭をなで続けた。
なんだかんだ言っても俺のことを支えてくれているマイセルやフェルミには申し訳ないけど、これだけは譲れない。みんなの前で言えることじゃないけどさ。
リトリィが俺をどこか信じ切れないってのは──分かるんだよ。
本当に俺のことを信じ切っていれば、こんなに取り乱すことなんて無いはずなんだ。彼女のことだから、本当にそうであれば、きっときょとんとするんだろう。
そうではなく、こんなにも必死に訴えてくるということは、彼女の中のどこかで、俺への不信があるからなんだ。言うまでもなく俺がまいた不信の種が根を張ってしまっているだけだ、彼女が悪いんじゃない。
それでも、不信があるからこそ、俺に悟られまいとして必死なんだろう。
でなきゃフェルミが出産を終えた夜、あんなに爆発しなかったはずだ。
『わたしが一番なら、どうしてわたし以外のかたを抱くなんてまねができるんですか!』
あらためて、自己嫌悪に陥る。
考えるまでもなく、俺が悪いんだ。
俺を信じていないのかと問えば彼女が必死になって訴えてくるなんて、分かり切ったことだった。俺はなんて意地の悪い質問をしてしまったんだろう。
俺の胸に顔をうずめたリトリィは、ずっとしゃくりあげながら俺の背中に手を回し続け、俺の背中を、存在を確かめるようにさするようにして、ずっとずっと、泣き続ける。
「大丈夫。君に『おかえりなさい』って迎えてもらえる自分に、俺は満足しているんだ。君のそばを離れるなんて、あり得ないよ」
そう言ってキスをした俺に、彼女はすがりつき、そして、月の煌々と照る庭で、俺を求めた。
泣きながら微笑んで、「おかえりなさい、あなた」と、彼女は俺を迎え入れた。
必死に声を押さえながら、熱くうねる胎内で、俺を受け入れた。
俺の帰る場所は、リトリィだ。
それは絶対だ。
それ以外はありえない。
ただ、思い出してしまったことを、俺はもう、無かったことにできなかった。
──俺は、一人でやって来たんじゃない。
あのとき、この世界に来た人間は、少なくとも、俺一人なんかじゃなかった。
じゃあ、俺はどうして、川に飛び込むようなことになったんだろう。
どうしても思い出せない。
思い出せないなら思い出さなければいい──そうも思うが、けれど、一度断片を思い出してしまった以上、もはや忘れることは不可能のように思われた。
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