第630話:最高で最良の

「……アンタ、生きていたんだな」

「最高で最良の妻のおかげで」


 あれから数日。

 出歩けるようになった俺は、真っ先に鉄工ギルドの工房に向かった。

 鉄工ギルドの工房長が、リトリィに支えてもらいながらやってきた俺を、苦笑いで出迎えた。

 あの火災だ、きっと恐ろしいことになっているだろうと思っていたが、一部が焼けただけで、全体的には問題がなさそうだった。


「最高で最良の妻……ねえ。たしかに、な」


 工房長は、両腕に包帯を巻いている。リトリィの話だと、あの火災の際に重篤なやけどを負ったようだ。


「おかげで、この工房は喪失を免れた。アンタと、アンタの嫁さんのおかげでな」


 リトリィが、わずかに腰を落とすようにして礼をする。いつもならきっとスカートのすそをつまむようにして腰を落として礼をするから、俺のために略式で礼をしたのだろう。


「アンタとはすこし、話がしたい。事務所まで来てくれるか?」




 工房長に通された部屋は、やたらとすす臭くて、あの時の煙に巻かれたせいだろう、部屋中が、やたらと黒っぽかった。


「座ってくれ。まずは改めて礼を言わせてほしい」


 工房長は、深々と頭を下げた。


「そこの、リトリィさんだ。最後の最後まで、火災を食い止めようと頑張ってくれていた。アンタが怪我をするまで、な」


 ぐっ……俺のせいで何もかも中途半端になってしまったんだよな。リトリィにとっても、ギルドにとっても、俺は邪魔者だったというわけか。

 ところが、工房長は慌てたようにかぶりを振った。


「ああ、誤解しないでくれ。こっちはむしろ、アンタに感謝しているんだ。アンタが工房の奥まで戻ったから、ローやシュミードたちが、一、二番炉に駆けつけることができたんだからな」

「いや、でも俺は……」

「こう言っちゃなんだが、アンタが怪我して倒れてくれたから、こっちはリトリィさんを失わずに済んだとも言える。あのあと、大変だったんだぜ」


 工房長の話だと、重傷を負って気絶した俺にリトリィがパニックになっているところに、あの、リトリィがてつくずの山から助け出したゴッスを預けた男たちが駆け付けたのだという。


 彼らはもはや間に合わないと思っていたらしいが、炎に包まれる石炭の山の前で、俺を抱えて泣き叫ぶリトリィを発見し、脱出したのだそうだ。

 もし、俺が元気なままだったら、リトリィは火に巻かれるまで、炎と格闘していたかもしれないという話だった。


「一人でできることなんざ、限られてるからな。ローがアンタらを担いで脱出し、入れ替わるようにシュミードたちが駆けつけて、かろうじて石炭を取り除くことに成功したんだ」


 工房長は、表情をやわらげて俺たち二人を交互に見つめた。


「もし、アンタらが石炭の山を減らしてくれていなかったら、石炭庫は全部燃えていただろう。そうなったら、この工房の屋根まで燃え上がって、最終的には工房自体が焼け落ちていたに違いない」


 鉄が熱に弱いのは、アメリカ同時多発テロで崩れた世界貿易センタービルでも言われている。鉄は丈夫ではあるが、すぐに熱が伝わるので、大火災が発生すると意外にもろく、飴のようにねじ曲がって崩壊してしまうのだ。

 それに対して木材は、燃えやすいものの断熱性が高く、最後まで芯が残り続けるため、実は火災に対する耐久性能は木材のほうが高いこともあるのだ。


 確かに、事務所の窓から見上げると、さすがに鉄工ギルドと言うべきか、屋根には鉄材が多く使われているように見える。もし石炭庫に火が付き、屋根に燃え移ろうものなら、被害は甚大なものになっていただろう。


「アンタたちの献身的な行動が、この工房を救った。特にアンタは大怪我を負ってしまったことだし、大変な思いをさせてしまった。だが、アンタの言う通りだ。リトリィさんはこの工房にとって、確かに最高で、最良の選択をしてくれたと思っている」


 そう言って、工房長は再度、頭を下げてみせた。


「二番炉は損傷が激しくてしばらく使い物にならないが、一番炉は今、急いで修理しているところだ。一番炉が使えるようになったら、アンタらに真っ先に使ってもらうことにする。約束しよう」

「本当ですか? それはありがたい」

「なに、リトリィさん──アンタの奥さんのおかげなんだ。恩義には報いる、それがギルドというもんだ。場所は三番炉か四番炉──前の通りでいいか?」


 リトリィがうなずいたのを確認して、俺は改めてやるべきことを頭の中で整理した。




「こういうのを、怪我の功名っていうんだろうな。一番炉の修理はもうすぐ終わるって話だったし、リトリィが頑張ったおかげで、優先的に使わせてもらえることになったみたいだし」


 帰り道、橋の上でおどけてみせた俺に、リトリィは暗い顔で首を振った。


「いいえ……。工房長がおっしゃっていたように、わたしはあのとき、あなたをたすけることができなかったんです」

「何言ってるんだ。リトリィが手術してくれたから、俺はいま、こうして生きて立ってるんだぞ?」

「いいえ……いいえ!」


 リトリィは顔を歪め、うつむき、立ち止まってしまった。


「前も言いましたが、あのときわたしは、じぶんのことばかりかんがえていました。あなたにほめられたい、みとめられたい……。そのせいで大けがを負ったあなたに、わたしは泣くばっかりで、うごくこともできませんでした……」


 わたしは、あなたの妻、失格です──。


 またしてもネガティブな思考に陥り始めた彼女の言葉を、最後まで言わせずに抱きしめる。


 この橋は、以前、彼女をガロウという狼の獣人によって奪われた場所だ。

 彼女を信じきれなかった俺が、彼女を失いかけた場所。


 二度と繰り返すものか、あの過ちを。


「リトリィは俺にとって、最高で最良の嫁さんだよ」

「でも……でもわたしは……わたしなんて……」


 しゃくりあげる彼女の頭をなでながら、彼女を抱く腕に力をこめる。


「リトリィ、俺にとって君はかけがえのない女の子なんだ。自分なんて、だなんて言わないでくれ」


 それでもかぶりを振り続ける彼女を、俺は、この手段は使いたくないと思いつつ、あえてとることにした。


「だ、だん──んむ……」


 彼女の頬に手を伸ばし、その唇をふさぐ。

 彼女の、ヒトとは違う薄い唇、その感触。


『……抱けば泣き止むって、そう思っていたんですか?』

『あなた、女の子は抱けば言うことを聞くようになる――そう考えるひとだったんですね……』


 あのとき──リトリィを奪われる直前、彼女と言い争ったときの、彼女から投げつけられた辛辣な言葉。

 あの夜のことを思い出すたびに、胸をかきむしりたくなる思いになる。でもあれは、決して忘れてはならない、俺が死ぬまで背負ってゆくべき罪だ。

 繰り返してはならない罪。


 そう、彼女を丸ごと受け止める。

 綺麗ごとじゃなく、心の底から。

 受け止めて、そして──


「……リトリィ。君が俺に認められたいと思ったのは、俺が君にそれを与えることができていなかったからだ。……ごめんな。君が悪いんじゃない」

「そ、そんなこと……あなたは……」

「リトリィ」


 もう一度唇をふさいでから、俺は努めて、笑顔をつくる。冗談めかして。


「君が選んだオトコが、以前、過ちを犯した場所で、精一杯カッコつけてるんだよ。いいオンナの心得ってやつ、ナリクァン夫人から聞いてないか?」

「だんな、さま……」

「それが、最高で最良の妻ってやつさ。少なくとも、俺の第一夫人はそういう女性だと信じているし、俺の信念は間違っていないと確信している」


 みるみる顔がゆがんでゆく。

 その透き通るような青紫の瞳が潤んでゆく。


 ──でも、その口元は、苦しげながらも小さく微笑みを浮かべて。


「もう……。ほんとうに、あなたというおかたは……」


 改めて、彼女の体を抱きしめた。

 もう一度だけと、そっと口づけを交わす。


 今度は、彼女から、舌をこちら側に差し込んできた。

 ……そうきたか。


 俺は内心、苦笑いをかみ殺す思いで、彼女の舌に応える。

 ……そういえば、川沿いの道には、何軒も『休憩』の出来る宿があったっけ。


 そっと耳打ちをすると、彼女はそんなつもりではなかったと言いたげに顔を赤くした。けれど、俺の胸に顔を埋めるようにして、そっと、小さくうなずいた。


「……おつかれ、ですもの、ね……?」

「ああ、少し歩き疲れた」


「……おうちまで、待てません、よね……?」

「ああ、とりあえず、早く休憩したい」


「おけがもありますし……、させていただきますね……?」

「ああ、期待している」


 恥ずかしそうに、だが同時に嬉しそうに、リトリィはうなずいた。


「ふふ……ひさしぶりの、『でぇと』、ですね……?」

「そうだな、久しぶりの、二人きりのデートだ」



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