第666話:ケダモノたちの醜態

 とりあえずゴーティアス婦人もシヴィーさんも無事だったということで、俺はすぐにこの家から避難するように訴えた。


「避難? なぜです、家は持ちこたえたのですよ?」

「違うんです、この家の近くで、火災が起きているんです。ここまで燃え広がることはないかもしれませんが、念のために避難をしてください」


 俺の言葉に、婦人は少し考えてみせて、そして、微笑んだ。


「いいえ、私は残ります。夫の遺した家を捨てて逃げるくらいなら、この家と共に、夫のもとに参りますとも」

「お、お義母かあさま! 何をおっしゃるんですか、逃げましょう!」


 シヴィーさんが訴えるが、ゴーティアス婦人は静かに首を振った。


「シヴィーさん。私はね、夫が亡くなったあと、ずっと考えていたの。いつ私にはお迎えが来るのだろうと。地揺れ、そして火事とくるなら、いよいよお別れのときがやってきたのよ。あの人のもとに逝けるなら、私は怖くなどありませんとも」

「だめだよ、おばあちゃん!」


 リノが、婦人に飛びつく。


「そんなこと言っちゃだめだよ!」


 そして、婦人の服の裾を引っ張って叫んだ。


「おばあちゃん、ボクの妹を取り上げるの、手伝ってくれたんでしょ! 今度はリトリィお姉ちゃんだよ! きっと、もうすぐ赤ちゃん、できるもん! おばあちゃんでなきゃ、リトリィお姉ちゃんが赤ちゃん、安心して産めないよ!」


 必死に訴えるリノの頭を、婦人が撫でる。


「……嬉しいことを、言ってくれるわね」


 だが婦人は、ゆっくりと首を横に振った。


「シヴィーさん。今までつらく当たったりして、ごめんなさいね」


 そう言って、シヴィーさんの三角の耳を撫でる。


「お、お義母かあさま……?」

「あなたを、息子を奪った卑しい犬属人ドーグリングと蔑み、筋違いな恨みを抱いていたこと……今さら許されることでもないですけれど、私が間違っていました」


 ……そういえば、ゴーティアス婦人は最初、妙にシヴィーさんに当たりが強かったっけ。単なるよめしゅうとめの確執だけじゃなかったんだな……。


「そして、それを気づかせてくれたムラタさん、リトリィさん。本当にありがとう。あなたたちの仲睦まじい様子から、息子夫婦の──シヴィーの献身的な愛に気づくことができました」


 そう言って婦人は、シヴィーさんに立つように促す。


「お、お義母かあもご一緒に……!」


 訴えるシヴィーさんに、婦人は寂しそうに微笑んだ。


「もう、いいのよ。あなたはこれを幸いとして、もう一度、仕える殿方を定めなさい。いつまでも、こんな老婆の召使いのようなことをさせて、ごめんなさいね……」


 そして、こちらに向き直ると、毅然とした口調で言った。


「あなたたちも、すぐにお逃げなさい。あなたたちの仔を取り上げることができなかったことだけが残念ですけれど、これが神の思し召しなら──きゃあっ⁉」


 最後まで言わせなかった。婦人にしては可愛らしい悲鳴だったと思う。


「さあ、ゴーティアスさま。参りましょう」

「ちょ、ちょっと、下ろしてリトリィさん! 私は、私は夫のもとに……!」

「わたしは、だんなさまの命にのみ、したがいます」

「む、ムラタさん!」

「婦人、悲劇の人物になるにはあと五年……いや、十年早いです。俺たちの子を取り上げてもらうまで、婦人には元気でいてもらわなければなりませんから」


 リトリィに抱え上げられたゴーティアス婦人が「下ろしてぇぇぇっ!」と叫ぶが、気にしない。


「シヴィーさん! 貴重品と、婦人にとっての一番の宝物、持ちましたか⁉」

「ええ、ありがとうございますムラタさん!」

「よしリトリィ、リノ、行くぞ!」

「あぁれぇぇえええぇぇぇぇええええぇっ!」




 婦人たちを、おそらく安全だろうと思われる広場まで運んだあと、広場で怪我人の手当てをしている巡回衛士に引き渡した。くれぐれもよろしく頼むと、心付けも渡して、二人の身の安全をお願いすると、俺たちは火災現場に向かった。何か手伝うことがあれば──そう思ったからだ。


「ボク、先に行ってくる! だんなさまのお役に立つから!」


 リノは、こちらの制止も聞かずに、家の壁のでっぱりや窓枠などをつかんで、あっという間に四階建ての家の屋根に上ってしまった。仕方なく「とおみみの耳飾り」を装着して、リノと感覚をリンクさせる。


「リノ! このやんちゃ娘め! ……無茶しやがって、大丈夫か?」

『うん、大丈夫! それよりだんなさま、見える?』

「ああ、見えるし、よく聞こえるよ」

『あの煙のところに行けばいい?』

「リノ、火事の家そのものには近づくな。近くに寄って、周りの様子を確かめるだけでいい」

『うん、分かってる』


 家と家の間を大きく飛び移りながら移動するリノは、ジェットコースターなんて目じゃないスリルを俺に提供する。いつも思うけど、よくあんな飛び移りをして、怖くないものだ。


『えへへ、平気だよ? だんなさま、怖いの?』

「そうか、平気なのか……。正直に言うと、俺は怖い。リノはすごいな」

『うん! ……だから、だんなさま……?』


 甘えるような声に、俺は苦笑してから答える。


「くれぐれも怪我をしたり煙を吸ったりするようなことが無いようにな。……可愛いリノ」


 耳元で、リノの大はしゃぎの声が炸裂した。




 俺たちがたどり着くころには、火の勢いはかなりのものになっていた。割れた窓からは火柱が立ち上り、さらに上の階の窓を焼く。もはや消火どころの話ではなく、いかに近隣住民を逃がし得るか、という状態だった。


 パン、と音がして、下の破れた窓から立ち上る火柱に熱されたガラスが爆ぜたようだった。ガラスの破片が路地に落ちてきて、澄んだ音──とはとても言いがたい、恐怖を掻き立てる破砕音を響かせる。燃え盛る集合住宅を囲む野次馬たちのうち、近くにいた者たちのすぐ足元で! 彼らは、悲鳴を上げて飛びのいた。


『だんなさま、この家、もうダメだよ』

「それは分かる。だがこのままじゃ、隣にも燃え移るかもしれない。なんとかできるなら……」


 俺はリノの目を通して野次馬の壁の薄いところを見繕い、間を潜り抜けるようにして前進した。

 そのときだった。


「こらぁっ! そこの男! それ以上近づくんじゃない! 見ればわかるだろう!」


 巡回衛士の制服男たちが、六尺ろくしゃくじょうを構えながら俺たちのもとに駆け寄ってきた。


 巡回衛士なら話が分かる! 俺はむしろ彼らのほうに駆け寄った。


「すまない、この家の様子が気になって! この家の消火はどうなっているんだ?」

「消火だと? それは警吏けいりの仕事だ、あの連中が戻ってくるまで、なんともならん……!」


 うわっ、それは絶望的だ……! 連中の組織が腐敗しているのは、この街に来てすぐの時から何度も味わわされている。


「ええと……! たしか巡回衛士は騎士団所属なのでしょう? 騎士団で、何かお手伝いはできませんか? 私は先日の門外街防衛戦にて、臨時とはいえオシュトブルク市民兵、第四四二ヨンヨンニ戦闘隊に所属させていただいたムラタと申します!」


 こんなときにこんな名乗りをするのは卑怯だと思ったが、使えるものは使った方がいい。建築士としても、この歴史ある街の建物がみすみす燃えていくのを、手をこまぬいて見ているままなんて嫌だった。


 その時だった。


『……だんなさま! 中に人がいるよ!』

「中に人がいる……⁉」


 リノの知らせに、俺は驚いた。一、二階の窓が割れ、火柱が立ち上るこの集合住宅の中に、人がいる、だって⁉ 最初は気づかなかったが、リノがその部屋に視線を移してくれたおかげで、確かにいることが分かった。男が何人か、部屋にいる! 


 俺の言葉に、巡回衛士たちも驚いた様子だった。


「馬鹿な、もう中には誰もいないはずだぞ⁉」


 自分たちが突入して見て回ったから間違いない、と衛士たちは言う。

 だが、リノから送られ続けている映像には、部屋に立ち込める煙を背景に、部屋をうろうろする男たちの姿がはっきりと捉えられている。

 いったい何をやっているのだろう。仲間たちで一緒に脱出しようとして、炎と煙に追われて閉じ込められたのだろうか。


「確かにいる、間違いないんだよ! 四階だ。南端に近い部屋にいる!」

「四階の南端に近い部屋だと? その辺りは確かに確認したはずだが……」

「逃げようとして、火と煙に巻かれてやむなく逃げ込んだのかもしれない!」

「ちょっと待て」


 衛士の一人が、「お前、どこかで会ったか?」と首をかしげつつ、いぶかしげに聞いてきた。


「四階の、南端と言ったな? 何故それが分かる。この狭い路地からほぼ真上を見上げるような状態で分かるようなことじゃないはずだ。なぜ分かる?」


 ああもう、時間のないときに!


「俺は『遠耳とおみみの耳飾り』を付けている! 隣の建物から、この建物の様子を監視している相棒がいるんだよ! その相棒からの情報だ!」

「『遠耳とおみみの耳飾り』……?」

「ああもう、早く行かないと間に合わなくなるかもしれないだろう!」


 いちいち説明しているのも時間が惜しくなってきた俺は、自分が飛び込むことを決意した。ところが、飛び込もうとした俺の腕を、つかむ者がいた。


「お待ちください、だんなさま」


 リトリィだった。なぜか頭からびしょ濡れの、ひどいありさまだ。さらに、いつの間にか、彼女の手には桶が握られている。


「ごめんなさい! でも、こうしたほうが……!」


 そう言って、中身を俺にぶっかける! うわっぷ、水だ!


「煙で分かりづらいかもしれませんが、人探しなら犬属人ドーグリングの鼻がお役に立ってみせますとも!」


 そう言ってリトリィは俺の手を引き、衛士たちが止めるのも聞かずに建物に飛び込んだ。




 門外街の家々は、その時代ごとの流行がよく表れている。しかし城内街の家、特に集合住宅は、大抵同じつくりだ。重厚な石造り、小さな窓。戦争で迎撃用の砦、あるいは障害物として活用できるよう、どの建物もほぼ同じような構造。だから迷うことなく、突撃することができた。


 薄暗い階段には煙が立ち込めている。俺は、腰のナイフで肌着の裾を切り取ると、即席のマスクを作って顔に巻き付けた。リトリィが俺のために丹精込めて打ってくれたナイフは、本当に重要なとき、常に俺を守ってくれるみたいだ!


 その時、リノから声が届いた。


『だんなさま、分かる?』

「……ああ、見えてるよ。もうすっかり外の煙で、例の部屋の中の様子が見えないな」

『ご、ごめんなさい。ボク、がんばって見てるんだけど……』


 なかばべそをかいているリノを安心させるように、俺は努めて優しく声をかけた。


「大丈夫だ。リノ、お前が見ていてくれているってだけで、俺は千人力だ」

『だ、だんなさま……。煙がどんどんひどくなってるの、気をつけて』

「リトリィもそばにいてくれている。俺は絶対に大丈夫だ」


 そうやってリノには強がってみせたが、実は突入してから後悔している。なにも俺が飛び込む必要はなかったんじゃないかって。

 でも、警吏けいりが消防を担っていて、それでいて消火活動が遅れているって状況で、生存者を見つけてしまった以上、見殺しになんてできるものか!


「リトリィ! ここが四階だ! においはわかるか?」

「だんなさまのおっしゃったとおりです! 確かにヒトのにおいがします……が……」


 リトリィが困惑したように、近くの部屋のドアに手をかけた。


「待て、リトリィ! 奥の南の部屋だ、そこは関係ない」

「で、でも……においがするんです」


 煙が充満する廊下で無茶ぶりをしてしまったが、リトリィは何かをとらえているようだった。リトリィが、すがるように俺を見る。


「……分かった。だが、ドアのすき間から煙が出てきている。もうこの部屋は諦めた方がいい」


 まっすぐに伸びる廊下は、ドアのすき間からもれてくる煙が充満していた。部屋の気密性が低いから、不用意にドアを開けてもバックドラフトの恐れはあまりないかもしれない。


 だが、あくまでも「かもしれない」だ。仮に気密性が低くてバックドラフトが起こりにくかったとしても、裏を返せば簡単に燃え広がるということでもある。ということは、容易に煙があたりを覆い尽くすということだ。つまり、煙に巻かれやすいということだ。


 そして、たとえバックドラフトの危険はなくとも、過剰に加熱された可燃性ガスを含む煙の充満した部屋が一気に発火する、フラッシュオーバーの危険だってある。

 火そのものは、外から見たら三階まで迫っていたが、四階までには至っていなかったようだった。だが、それは外からの見た目だ。じわじわと燃え始めている部屋もあるだろう。


 残念だが、この部屋は諦めるしかない。開けてしまって何かあったら、俺たちが死ぬのだ。


 リトリィは後ろ髪を引かれるような表情だったが、俺の決断に従ってくれた。

 だが、次の部屋、煙がまだ隣の部屋ほど漏れていない部屋に、リトリィは止める間もなく飛び込んだ。


「……いない、ですね……」

「当然だろう、南端付近の部屋だ」

「で、でも……確かに、においが……」


 俺はリトリィに続いて部屋に入った。

 煙の充満している薄暗い部屋は、まるで泥棒が入ったみたいに荒れている。地震で倒れたとかそういう状態ではない。急いで脱出するにあたって、貴重品だけでは飽き足らず、色々なものを持ち出そうとしたのかもしれない。


「行こう、リトリィ!」

「は、はい……」


 だが、リトリィは結局、部屋という部屋を開け続けた。

 そのたびにもぬけの殻──そしてどの部屋も同じように荒れていることに、俺もリトリィも、困惑するしかなかった。


「あなた、まさか、これは……」


 想像もしたくない。

 だが、俺も最悪の想像を、すでに固めていた。


「いや、もしかしたらってこともある。行こう」


 たどり着いた南端ひとつ前の部屋。俺たちは、ある種の覚悟を決めて飛び込んだ。


「……いない!」


 相変わらず部屋が荒らされている。

 引き出しという引き出しは開けられ、中の物が引っ張り出されている。


「……リトリィが、全ての部屋で同じにおいを感じたのは、つまりそういうことだな」


 俺は戦慄を覚えた。

 この部屋にいたはずの連中は今、いない。つまり俺たちが部屋に入っている間に、連中はここから脱出したか、あるいは南端の部屋に移動したか……。


「あなた、やっぱり……」

「ああ、もう脱出しよう」


 結論は出た。

 もう構っていられない。

 そう考えて部屋を出たときだった。


「あ、あんたたちは……!」


 さっき下で会った、巡回衛士たちだった。


「おお、ムラタさん! いや、いくらあなたが臨時民兵さんだったとしても、あなたばかりに任せては巡回衛士の名折れですからな!」

「いや、そうじゃないんだ。ここにいた連中は……」


 俺が口ごもっている間に、もう一人の衛士が南端の部屋の扉を開け放つ!


「おい、助けに──!」


 言いかけた衛士は、絶句した。


「な……なにをやっている、お前ら……!」


 そのとき、鈍い音がして、くぐもった声がしたかと思ったら、どさりと重い何かが倒れる音がした。


「チッ……衛士どもか! 正義漢ぶって、余計なことを……」


 舌打ちしながらゆらりと立ち上がった男の服装──俺はそれを、知っていた。


「お、お前ら……警吏けいりの……⁉」


 ……ああ、知っている!

 この街の、議会直属の警察機構!

 それが、なんで、あんな、膨らんだ布袋を担いで、こんなところにいるんだ……!


「おい、殺したのか?」

「そんなことしてませんよ、コクリヤーデさん」


 奥のほうから、さらに太った男が姿を現した。こちらも大きな布袋を担いでいる。


「き、貴様ら! 警吏けいりがなにを……!」

「傷をつけると、後で万が一焼け残った死体が出てきたときに面倒だからな、縛って適当に……」


 叫んだ衛士に対して、面倒くさそうにとんでもないことを言い放った太った男は、俺たちの方を見て、

 ──絶句して、そして、叫んだ。


「き、キサマ! その顔、忘れもせんぞ! 本官に逆らった、獣姦趣味者……!」

「獣姦趣味者……?」


 リトリィと一緒にいて城内街を歩くと、時々聞こえてくる誹謗中傷の一つがそれだ。リトリィは「原初のプリム・犬属人ドーグリング」と目される、獣人族ベスティリングの中でも特に動物寄りの外見をした女性だ。

 とにかく、主に外見的な特徴を以って差別されることが多い。そしてその伴侶たる俺も同様にだ。その一つが、「獣姦趣味者」。


 巡回衛士たちはリトリィにほぼ反応しなかったのに、この太ったクソ警吏けいりは真っ先にそれか。やはりこいつらはどこまでも腐っているらしい。


「ふん、腐敗官吏はどこまでも腐ってるってわけか。市民を守る警吏けいりが火事場泥棒なんて……!」

「このケダモノ狂いめ、またしても本官を侮辱する気か!」

「また? 真っ当な評価だろ、クソ豚警吏けいり!」

「こ、この……! またしても本官を侮辱したな、ケダモノめ!」


 顔を歪めたクソ豚警吏けいりに向けて、俺は腰のナイフを突きつけた。


「ケダモノだと? それは貴様だろう、人の心を失ったケダモノめ!」



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