第665話:神の加護とひとの技
瀧井さんは、腕を痛めているほかは脚を骨折している様子だった。その代わり、彼がしっかり抱きしめて守っていたおかげなのか、ペリシャさんは擦り傷がある以外は無事らしかった。
「この程度の怪我くらい、自分でなんとかできる。戦地帰りを舐めるなよ?」
瀧井さんが気丈に笑う。
「いえ、足は第二の心臓と言いますし、しっかり治療してください。ペリシャさん、よろしくお願いいたします」
「夫のことは誰よりも私が知っているわ。もう大丈夫よ。あなたは、あなたを必要としている方のところに行きなさい」
まだ目の縁は赤いけれど、そう言ってペリシャさんは俺たちを送り出してくれた。
「でも、来てくれて本当にありがとう。あなたたちのおかげで、私は大切なひとと、もうしばらく一緒に暮らしていけるわ。これも神の思し召しね」
広場に戻ると、家々の向こうに、不気味な煙が立ち上っているのが見えた。この世界では、朝食といえば夕食の残りを食べるのが普通で、庶民が朝からわざわざ火を使って温かいものを食べる習慣は、ほぼないそうだ。
しかしここは城内街で、富裕層が多い。朝から火を使う家もあるかもしれない。だとするとあの煙は、朝食のかまどからの出火だろうか。
そういえば、関東大震災でも、昼食の時間帯だったためにかまどや七輪などが原因となり、大火災につながったという。
この街は戦争に備えて石造りの家が多いから、燃え広がりにくいかもしれないが、家の外壁は石造りでも、床や屋根は木造だ。だから家の中は当然、可燃物だらけだ。
そして屋根が燃え落ちれば、当然火の粉を撒き散らす。屋根が崩壊する時の衝撃で外壁が崩れようものなら、隣接する家に構造材が雪崩を打つことになりかねない。そうなってしまうと、それがさらに被害を広げることにもなりうる。
「……あっちは、ゴーティアス婦人の家がある方向だよな?」
「だんなさま、行きましょう!」
「私は大丈夫。あなたが寝室を一階に移してくれましたからね」
震えながらも、婦人は微笑んでみせた。かつてこの街が戦場になった時には、騎士の妻として、次々に運ばれてくる負傷者たちに外科治療を施したというゴーティアス婦人。その胆力を持ちながらも、震度四の地震は恐ろしかったということか。
しかし、震えて声も出ないシヴィーさんに比べれば、随分と心に余裕がありそうだ。かつての騎士の妻としての誇りだろうか、それともシヴィーさんに対する姑としての意地なのだろうか。気丈に振る舞っている。
「それにしても、本当に災難でしたね」
俺は、崩れた壁を見ながらため息をつく。
この家自体は、地震にある程度耐えた。ただ、やはり屋根の瓦はほとんど滑り落ちてしまっていた。何より大問題だったのが、隣の集合住宅の屋根から滑り落ちてきた大量の瓦だ。瓦が滑り落ちて野地板がむき出しになった屋根の上に、その瓦の雪崩が直撃。シヴィーさんの寝室近辺の屋根をぶち抜いたのだ。
もし、シヴィーさんのベッドが部屋の反対側にもう少し寄っていたら、崩れ落ちてきた天井と瓦礫で押しつぶされていたかもしれない。
たかが震度四、されど震度四。揺れている時間も比較的長かった気がするし、火災に耐える構造ではあっても地震に備えられた構造ではない家屋ばかりだというのなら、仕方がないだろう。
そもそも日本の耐震基準だって、阪神淡路大震災を契機に大きく変わったという事情もある。痛い目に遭わなければ学ばない──これはどんな世界でも変わらないのだろう。
「それにしても、あんなに壁に穴を開けたりしたのに、この家は何事もなく耐えましたわね」
「神のご加護でしょう」
俺はしれっと神の加護を口にしたけれど、この家のリフォームのために壁に穴を開けた時、あまりにもすかすかな構造だったから、素知らぬ顔で
それが今回、役に立ったかどうか、それは分からない。でも、隣家の大量の瓦が屋根をぶち破ってきたとき、脆くも崩れた外壁と違って、確かに壁は崩れることなくそこに在り続け、その向こうの瓦礫が部屋に侵入することを防いだのだ。
「ふふ、神のご加護、ね……?」
ゴーティアス婦人は、薄く笑ってみせた。
「あなたは、神の加護なんて口走るような人でしたかしら?」
「うぬぼれるよりも、ましだと思いまして」
「その言葉が、全てを台無しにしますわね」
婦人はくすくすと笑う。
「それってつまり、ご自身の成果と誇っていると、白状しているようなものですよ?」
「……そうですか?」
「ええ、そうですとも」
そう言ってまた笑った婦人は、しかしため息をついて、天井を見上げた。
「でも、神のご加護は当然として、まさかこんなことになるとはね」
「『天災は忘れたころにやってくる』──自分の故郷の言葉です。この地方では、地震はめったにやってくるものではないそうですが、少し考えを改めねばならないかもしれませんね」
「忘れたころに……そうね、そういえば、前にも一度、地揺れがありましたものね」
婦人の言葉に、シヴィーさんが「ひっ……!」と体を縮める。
「あ、あんな恐ろしいことが、また来るとでも……⁉」
「分かりません。こればっかりは、予測も何もありませんから」
現代日本ですら、地震予知の警報は数十秒程度しかできないのだ。直下型地震の場合は、その警報すら間に合わない。
もしかしたら、魔法なら何かいい方法があるのかもしれないが、この土地は残念ながら魔法という力から見放されている。
「ならば、そうね……。シヴィーの命を掬い取ることにひと役買った、あの壁の力を信じて、あなたに、この家を、地揺れにも耐えられるものにしてもらえるかしら?」
「……それは、壁の耐震補強ということでよろしいですか?」
「よく分かりませんが、あなたが良いと思うようにして下さればいいのです」
ゴーティアス婦人は、にっこりと微笑んだ。
「最終的には神のご加護もありましょう。でも、神のご加護を引き出せるように、ひと自身の努力は払われるべきだわ。」
「神のご加護を引き出せるように、ですか」
「こんなことを言ってしまうと、神官様から不信心とお叱りを受けるかもしれませんけれども、ね?」
婦人は、そう言って俺を優しい目で見つめる。
「老い先短い私はともかく、シヴィーにはまだまだ、この家を守ってもらわねばなりません。こんな偏屈な姑を、いい年をしながらこうして頼ってくれる可愛いシヴィーのためにもね」
「……お義母さま……!」
顔を赤らめたシヴィーさんの頭をなでながら、婦人はまた、微笑んだ。
「それに、孫が遊びに来る場が失われては、可哀想ですからね」
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