第664話:運命の分水嶺に
門を出てすぐに、俺は日本の耐震基準がいかに高水準であるかということを理解することになった。
城内街の門前広場は門外街と同様の有様で、多くの屋台がダメージを受けているようだった。
「……だんなさま! あの屋台──!」
リトリィが指差した先には、荷車から崩れた木箱に脚をはさまれて呻いている年老いた男性がいた。
俺の返事も待たずに、リトリィはその男性のもとに走る。リノもそのあとを付いて走ると、二人して木箱に手をかける。なかなか重くて、俺も含めて三人がかりで、ようやく木箱を押しのけることができた。
「おじいさん、脚はどうですか?」
這い出してきた老人に、リトリィが心配そうに声をかける。だが、老人は顔をゆがめて怒鳴りつけた。
「
その心無い罵倒に、リトリィが息を呑むのがはっきりと感じられた。
「おまけに尻尾を晒しておるだと? 男に媚びを売りおって。だから
ぶつくさ続ける老人に、俺はその場でぶん殴ってやりたい衝動に駆られたよ。
確かに、この世界の獣人女性は、外出時にしっぽを「尾飾り」で包むのがマナーだ。ただ、結婚式を挙げてから子供を産むまでの間は、尾飾りを着けないという風習もあるのだ。
結局こういう輩は、自分の不満を立場の弱い存在にぶつけているだけなんだろう。地震でひっくり返った自分の商売道具のことで、いらいらしていたのかもしれない。
だからといって、同情などする気になれない。俺がリトリィを促し、無視して行こうとすると、リトリィは老人の脚の擦りむいて血が滲んでいるところに、ハンカチを当てて縛ろうとしていた。
「おけがしたところは、早めに洗って、きれいに保つようにしてくださいね」
そう言って微笑むのだ。
「リトリィお姉ちゃん……」
リノは、そんなリトリィに戸惑っているようだった。俺も、妙な苛立たしさを覚えていた。この糞爺に、なぜそこまでするのだろうと。
「……うるさい! 余計なことをするな、
ほらみろ、言わんこっちゃない。拳を振り回す老人に、俺はため息をつく。だが、リトリィは微笑みながら頭を下げ、気にしたそぶりも見せなかった。
「……リトリィ、城内街の連中なんて、リトリィに対してろくでもないことしか考えつかない連中だ。何かあったとしても、放っておいた方がいい」
「いいえ」
リトリィは、俺をまっすぐに見返した。
「そんなこと、おっしゃらないでください。わたしの愛するだんなさまは、どんな方にもお優しいおひとだと、わたしは信じていますから」
「いや、それにしたって……」
「シヴィーさま、ゴーティアスさま、タキイご夫妻、フェクトールさま……わたしは、城内街の多くのかたにも助けていただいています。城内街のひとだから信じられない──そんなことはありません」
言い返すことができず、しどろもどろになる俺に、リトリィは微笑んでみせた。
「だんなさま、わたしはだいじょうぶです。だんなさまに愛していただけている……それだけで、わたしはなんだってできますし、耐えられます」
……その、あくまでも美しく透き通る青紫の瞳が、ひどく眩しく感じられた。
彼女自身、幼少期はストリートチルドレンとして過酷な生き方をしてきたはずなのに、どうして、そうまでしてひとを信じられるのだろう。
「……瀧井さん! ペリシャさん!」
俺は声を限りに呼び立ててみたが、返事がない。
瀧井さんが暮らしていた。アパートは、ものの見事に倒壊していた。周りの家も、瓦がすっかり落ちていたり、建物が半壊していたりと、見るも無残な様子だ。
この辺りの家は石材を切り出して積み上げたというより、川の石を積み上げたような素材が多い。街の拡張に、石材の供給が追いつかなかったのだろう。その結果が、この脆い家々という形になったに違いない。
確かに石材だから燃えにくくはあるだろうが、震度四の地震でこうまで脆く崩れ去るとは思わなかった。
リトリィが「広場のありさまをみて、なんとなく、ですけど……。わたし、タキイさまのおうちが心配で……」と言って提案したから来たのだけれど、まさかこんなことになっているなんて!
「瀧井さん! 返事をしてくれ、瀧井さん!」
俺は必死に声を張り上げる。リトリィが、泣きながら瓦礫の山に登って石材を取り崩しにかかっている。俺も瀧井さんの部屋があったあたりによじ登り、瓦礫を取り除くことにした。
けれど、ほとんど家の形らしい形が残らぬありさまの瓦礫の山に、絶望的な気持ちしかない。ひしゃげた木製の
「だんなさま、おじいちゃんとおばあちゃん、この下にいるの……?」
リノが、おそるおそる聞いてくる。それを聞いてか、リトリィの声が、一層悲痛な号泣に変わった。
「大丈夫、大丈夫だ! ちょっと出るのに手間取っているだけだから! タキイのじいちゃんが強いの、知ってるだろう?」
「う、うん……」
「だから大丈夫だ!」
自分自身に言い聞かせるようにリノを抱きしめると、再び瓦礫に向き合う。
その時だった。
「あなた!」
リトリィの叫び声。
彼女が掘り当ててみせたのは……人の手!
「瀧井さん……⁉」
俺はリトリィの方に駆け寄ると、周りの瓦礫に手をかけた。リノも駆け寄ってきて、「おばあちゃん、おじいちゃん……!」と、一緒に瓦礫を取り除き始める。
どれだけの時間だったのか──それほど長くなかったような気もするし、長かったような気もする、そんな時間。
ベッドから落ちたかのようなわずかな隙間の中で、ペリシャ婦人を抱きしめるように横たわっている瀧井さんの姿が、そこにあった。
「瀧井さん! ペリシャさん!」
「はは……わしはまだ、死ねんらしい……」
ちょうどというか何というか。ベッドに倒れかかっている衣裳棚の隙間に、二人の体の肩から上が入り込んでいる感じだった。そして肩から下が、崩れた壁に埋まっていたのだ。
「馬鹿なことおっしゃらないで!」
ペリシャさんは、瀧井さんのふところで、肩を震わせていた。
「こんなことで死んでたまるものですか! 私にはまだまだ、あなたに返し足りない恩が山ほどありますのに!」
そう言って、瀧井さんにすがりついて泣きじゃくる。
「参ったな……。これでも家内には、生き埋めになりながらずっと罵倒されていたんだぞ?」
「そうでも言わなきゃ、あなた、十分に生きたからもういつ死んでもいいみたいなことを言って
「……いや、わしはお前に巡り逢えて本当によかった、こんな時に言うのもなんだがお前には感謝しとる、とかいうようなことを言っていただけで……」
ようよう体を起こした瀧井さんを、ペリシャさんが押し倒すようにして、再びすがりついてわんわん泣きじゃくる。
「私には、あなたしかいないのですよ! 私を置いて先に逝こうなどと、死んでも許しませんから!」
「……それじゃ、わしはずっと死ねんじゃないか」
「死なせるものですか! 死神だってこの私が追い返してみせますとも!」
まるで乙女のようなその姿に、俺は苦笑いを浮かべるしかない。
かと思ったら、リトリィなんて頬を赤らめて両のてのひらを胸の前で組んで、こちらも夢見る乙女のような顔で、熟年カップルのアツアツな復活ぶりに見入っている。
──でもよかった。
もしここに立ち寄っていなければ、俺はかけがえのないひとたちを永遠に失うところだった。リトリィの勘が、瀧井夫妻の命運を分けた
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