第393話:幸せのために

「それにしても、面白い話をもってきたものですね」


 ナリクァンさんは、実に楽しげに笑った。


「礼をしに来たと思ったら、商談とは」

「夫人があの時駆けつけてくれたのは、妻との契約があってのことと知ったものですから」

「契約?」

「私が、夫人の役に立つという話ですよ」


 ナリクァンさんはしばらく首をひねってから、「……ああ!」と、納得したように胸の前で手を合わせた。


「マイセルちゃんの言葉ね?」


 そう言ってくすくすと笑い始める。


「そんな、契約だなんて大げさな。気にすることはなかったですのに」

「いえ、ナリクァン夫人を動かした――その重み、いたく存じ上げておりますので」


 俺の言葉に、ナリクァンさんはすうっと目を細めた。


「なるほど……だから、末永く売り上げが見込める商品を売り込みに来た、と?」


 俺が頭を下げると、くっくっと小さく笑って、ナリクァンさんは扇子を閉じた。


「……いいでしょう。あなたは名前を売って名誉を得て、わたくしどもは品物を独占的に売って利益を得る。そういう契約でよろしいのですね?」

「ええ、大筋はそれで結構です。細かい内容は、これから詰めていくということで」


 俺の言葉に、夫人は、実に胸の冷える笑みを浮かべた。まるで、抜身の刃物のような。




「それで、貴族ヤロ……ええと! フェイクトール・・・・・・・公は、あのあとどうなって……」

フェクトール・・・・・・公なら、ほんの少し、お灸をすえましたから。もうあなた方に関わろうとはしないはずですよ?」


 その笑顔に、背筋がぞわりとくる! ナリクァン夫人の「ほんの少し」って、どの程度なんだ!?


「あ、それもあるんですが、あの館に閉じ込められていた女性たちは結局、どうなったんですか?」


 あの猫属人カーツェリングの女性のことも気になっていた。彼女はあの貴族野郎の子供を妊娠してしまったせいか、すっかりあの貴族の味方――彼を守る母親か何かのような感じになっていた。解放しに来た俺たちの方が悪であるかのように。


「そうね……。妻を奪い返すために体を張ったあなたには、少し理解しづらいかもしれませんけれど――」


 あの館にいた女性たちは、結局、ほとんどがあのクソ野郎の元で生きることを選んだのだという。あの猫属人カーツェリングの女性が言った通り、あのクソ野郎は、確かに彼女たちにとっては救い主の面があったようだ。


「……こう言っては何ですけれど、彼女たちは明日の食べるものにも苦労していた、そんな暮らしをしていたようですから。衣食住が保証され、退屈すら感じられるほどの安らかな暮らしができるとあっては、館を出る気にはなれなかったのでしょうね」

「……そういうものですか?」

「たとえ望まぬ相手、その子供をいずれ産むことになるかもしれない暮らしであったとしても、一度知ってしまった安楽を手放すのは、難しいのではなくて?」

「元の暮らしに戻ることが、そんなに――」


 愚問だと知りつつ聞いてみた俺に、ナリクァンさんはゆっくりと首を横に振ってみせた。


「元に戻るだけ、ではないのですよ。手に入れたはずの安寧――幸せを失うのです。それがどんなに恐ろしいことか。ひとときとはいえ妻を失って、それを痛いほど思い知ったのではなかったのですか?」


 ――そうだ。

 リトリィのいない幸せな生活など、俺にはもはや考えられない。


 リトリィを置いて山を下りた、あの道中を思い出す。

 いずれ妻に迎える、それが確約されていたあの時点ですら、一人で山を下りる孤独に、俺は身の引き裂かれるような思いがした。

 さらには二度も、彼女を失う恐怖を味わった。


 それと同じだ。

 前の暮らしに戻るんじゃない。

 失う恐怖を味わうことになるんだ。

 それだけじゃない。

 失ったものの価値を思い返しながら、それを手放す選択をしてしまった絶望を味わい続けるんだ。


「……馬鹿な質問をしてしまいました。そうですね、彼女たちの選択を否定することなんて、できませんね……」

「ただし――」


 ナリクァンさんは、テーブルの呼び鈴を鳴らした。


「それとこれとは別の話。あなた方は、ともに固いきずなで結ばれた夫婦。その幸せを引き裂くことなど、貴族であっても許されません。ところがあの坊やは、それを踏み越えたのです」


 メイドの女性が入ってきて、ナリクァンさんのそばにひざまずいた。ナリクァンさんが、二言三言、何か言う。メイドは立ち上がるとドレスのすそをつまんで淑女の礼をしてみせると、そそくさと部屋から出て行った。


 ――まただ。

 また、ナリクァンさんの言葉が翻訳されなかった。

 おそらく、翻訳首輪の機能を阻害する何かの手段を使っているんだろう。本当に、底知れぬ女性だ。


「わたくしは、夫の遺志を守りたいのですよ」

「遺志……ですか?」

「ええ。そう。遺志」


 ナリクァンさんはカップを手に取ると、ゆっくりとそれを傾けた。

 小さなため息をつくと、カップの中を見つめるように、どこか穏やかな笑みを浮かべる。


「あのひとはね、つねづねおっしゃっていたわ。キラキラした目で、子供のような笑顔で、『商いを通して、この街の人々を豊かに、幸せにするんだ』とね……?」


 商売を通して、人々を豊かに、そして幸せにする。


「確かにあの坊やの言う通り、この街に嫁いできたのは男爵家の意向が強かったから――それは否めません。事実、男爵家はこのナリクァンの資産で随分と救われましたからね。でも、わたくしは人形でもなんでもありません」


 そう言って、俺の隣に座るリトリィを見る。彼女が少し緊張ぎみに背筋を伸ばしたのを感じる。


「あなたの金色のお嫁さんと一緒――嫁いだ相手と一生を共にする覚悟で、この商会を盛り立ててきたつもりです。それこそ、近隣の街と合わせても一番だと、自負できる規模までに。でもそれは、力なき理想は実現できないからです」

「力なき、理想……?」

「言ったでしょう? 『商いを通して、この街の人々を豊かに、幸せにする』――ですよ」


 ナリクァンさんは、小さく笑った。


「ええ、ときにはいろいろと無茶もしましたわ。あの人も随分、危険な橋を渡りました。でも、そうでもしなければ、この魔素マナの枯れた土地――どこぞの正教会いわくの『神の恩寵から見捨てられた土地』で、魔素マナの潤沢なほかの街同様の発展を望むことはできませんでした」

「神の恩寵から見捨てられた土地?」

「神が与えたもう恩寵である法術がほとんど使えませんからね、この土地は。ですから、常々この街をこき下ろしている、神殿ばかりはご立派ですけどほとんど信者がいないクリスタス正教会。ご存じでしょう?」


 ひどく辛辣に評価してるな、その、クリスタス正教会ってやつのこと。


「いや全然知りません」

「……あらまあ」


 ナリクァンさん、ぽかんとしている。うん、ちょっと間抜けだ。

 というか、俺、本当にこのひとをあっけに取らせてばかりだな。


「ほかの街では信者の数が圧倒的に多いのですけれども――あなた、本当に瀧井さんと同じで、違う世界からいらしたのですね。この街以外には、ひょっとして行ったこともないとか?」

「ありません。私の世界は、リトリィ……と、それからマイセルと共に生きてきた場所――山と、ここにしかありませんから」


 胸を張ってみせると、リトリィもマイセルも、俺の方を見上げてきた。きらきらと目を輝かせるリトリィと、恥ずかし気な、だが嬉しそうな上目遣いのマイセル。どちらも可愛い。


 ナリクァンさんはそんな俺たちにちょっとだけ苦笑してみせてから、続けた。


「そうですか。そのうえ門外街で暮らしていれば、確かにあまり接点はないかもしれませんわね。いと高き城におわす至高の神にお仕えするために、彼らもあまり神殿から出てきませんからね」

「よく分かりませんが、神様は芸術と職人の女神キーファウンタ様で間に合ってますんで。あ、あと結婚のときに誓った……ええと、二柱ふたはしらの神様。それでお腹いっぱいですんで。聖書も御札も壷も水もついでに自己啓発も、なんにもいりませんので」


 俺の言葉に、さらに目を点にするナリクァンさん。いや、ホントに宗教は間に合ってますんで、ていうか俺は天下てんか一嬪いっぴんリトリィ教に帰依してますので!


「……あなたの嫁愛は、わたくしをして呆れさせるほどのものというのはよくわかりましたけれど、あなたのお嫁さんは二人いるのですよ? ちゃんと平等に愛しておあげなさいな」


 呆れるようにそう言ったナリクァンさんだが、けれど声は優しい。


「……昨夜、わたくしがあんなところまで出向いて、らしくもない見栄を切ってみせたのは、無駄ではなかったということですわね。なんにせよ、あなたが今、お幸せなのはよく分かりましたわ」


 ……幸せ。

 そうだ、俺は幸せだ。

 美しく気高く賢い妻を二人も手に入れて、そしてその二人に支えらえて生きることができる。

 それを多くの人から祝福されて、そして多くの人に助けてもらえている。


 確かに幸せ者だ。

 俺はいただいた幸せ、いただけた厚意に応える、そんな生き方をしなければならないんだ。


「そう、ですね。皆さんのおかげ――夫人のご助力のおかげです」

「そう言っていただけると嬉しいですわ。街の人の幸せがあの人の幸せで、そして生きがいでしたから」


 俺の結婚式に、大量の皿を持ち込んで人々に配り、割らせまくったナリクァンさんを思い出す。

 たしかあのとき、瀧井さんがおっしゃっていたか。ああいう祝い事に参加して大盤振る舞いをするのが、ナリクァンさんの趣味だと。


 俺はあのとき、そうやって祝い事に顔を突っ込むことは、つまり商会の宣伝活動なのだろうと思っていた。だが、もしかしたらナリクァンさんは、本当に俺たちの幸せを祝いに駆けつけてくれただけだったのかもしれない。


 きっと苦労も多かっただろう。けれど、きっとナリクァンさん自身も幸せだったんだ。だから、その幸せを、こうして分け与えようとしてくれている――今は亡き旦那さんの、遺志を継ぐようにして。


「そういえば、あなた――確かあのお屋敷の近くの……」


 ナリクァンさんが言いかけたときだった。

 ドアがノックされ、先程呼ばれてから出て行ったメイドに案内されて、一人の女性が部屋に入ってきた。


「ああ、待っていたのよ。さ、こちらにお座りになって」


 ナリクァンさんに促され、しばらくもじもじしていたその女性は、ナリクァンさんの隣のソファに座った。


「……あんたは」


 うつむいたまま、大きなおなかを抱える猫属人カーツェリングの女性――ミネッタだった。

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