第394話:愛を育むお相手は

「……昨夜は、その……取り乱して、色々と失礼を……。あの、本当に、申し訳ありませんでした」


 ナリクァンさんに簡単に事情を説明してもらったあと、ミネッタはそのまんまるな瞳に大粒の涙を浮かべながら謝罪をした。


 ナリクァンさんの話によると、あの昨夜の騒動のあと、館を出ると決めた三人の女性たちは、ひとまずナリクァンさんが保護したのだそうだ。それ以外の女性――残ることを選んだ女性たちは、そのまま屋敷にとどまったのだという。


 ではなぜミネッタがここにいるかというと、彼女は妊娠しているからだ。獣人、それも、ナリクァンさんの言うところの長毛種の女性ファーリナは、人間とは色々と異なるため、人間の医者ではなく、より彼女たちに詳しい医者に診てもらうべきだと判断したからだという。


「わたくしにとっては、獣人族ベスティリングのかたがたも、同じ街の民ですからね。それに、ほら――あなたがわたしに大見得を切ってみせたことですよ?」

「……俺――私がですか?」

「あら、忘れたとは言わせませんわよ? 奴隷商人討伐隊を動かすためにわたくしに向けてあなたが語ったこと――『ひとを守り、ひとを豊かにする』の言葉を」


 ――ああ! そういえばそんなこと、言ったような……!


「……忘れていらっしゃいましたわね? 仕方のないかたですこと。でもあの言葉は、確かにわたくしの胸をざわつかせましたわ。なにせ――」


 ナリクァンさんは、薄く笑いを浮かべてみせた。


「『ひとの幸せを守り、ひとを豊かにする』――これは、夫の口癖の一つでしたから。てっきりあなたのことを、夫のこの言葉をどこかで聞きかじって使い回した、人の思い出を利用してかき回す、おぞましい輩だと思ってしまった瞬間でしたもの、あのときは」


 ……はぁっ!?

 なんだそれ! あの時のその一言が、ナリクァンさんの逆鱗に触れたってこと!?

 俺、知らずに地雷を踏み抜いていたってことなのか!?


「あの瞬間は本当に、どうやってこの憎たらしい男をひき肉にしようか、そればかりを考えましたからね」


 怖いですナリクァンさん! 隣に座るミネッタがびくりと体を震わせて身を縮めたの、見ましたか? マイセルなんか慌ててうつむいて、ガタガタ震えてるんですけど! 平然としてるの、リトリィだけですよ!?


「もちろん、そのような小細工ができるほどの小賢しさを持ち合わせたひとではない、と今は分かっておりますけれど、ね?」


 ニタリ、という形容が相応しい、まがまがしい笑み! だから怖いですって!


「さて、それは横に置いておいて……ムラタさん?」


 横に置かないでください。片付けてください。始末してください。頼みますから嫁をビビらせないでください。俺もビビりました。


「この子も、わたくしたちの街の住人なの。幸せにしてあげたいのですよ」

「幸せ……ですか?」

「ええそう。リトリィさん、そしてマイセルさんと愛をじっくりと育んでいるあなたと同じくらいには」


 そう言うと、ナリクァンさんはミネッタに自分で話すように促した。

 それを受けてミネッタは、昨夜の威勢の良さとはうって変わった様子で、俺に目を合わせることもなく、うつむき加減で、ぼそぼそと話し始めた。


「す、すみません……。私、その……あのお館での幸せを取り上げられてしまうとばかり思って、それで、その……」


 ミネッタは、話しながらどんどん身を縮めてゆく。


「あんなに幸せだった日々を……あのかたから愛される喜びを初めて知ったあの館を、あのかたが下さる悦びを、失いたくなくて……」


 肩を震わせ、ぼろぼろと雫をこぼす彼女が痛々しくて、とりあえず話を遮る。


「……ええと、昨夜聞いた話が嘘じゃないなら、君はあのクs――もとい! フェクトール公のことを――」

「はい、お慕いしています」


 これには間髪入れずに答えてきた。やはり彼女自身の想いは本物なのだろう。

 ところが、ナリクァンさんは俺ではとても言えそうにないこと――考えうる、現実的な未来をズバッと切り出した。


「ミネッタさん。あのかたが貴女を妻に迎えるようなことは決してありません。それどころかあのかたが結婚したあとは、貴女は二度と顧みられないおそれすらありますよ?」

「それは……! ……でも、愛を下さったことには感謝を――」


 その言葉に、ミネッタが険しい目でナリクァンさんを見つめる。

 しかしナリクァンさんは全く動じることなく続けた。


「あのかたが結婚するころ――お腹の子供が生まれ、そして物心つく頃には、あのかたも会いに来なくなるでしょう。ケモノ臭い奴ベスティアールと噂されるのは、宮廷では致命的ですからね。するとあなたの子供は、父親の顔を見ることもできぬままに育つ――そんなことも考えられます。それでもよいのですか?」


 とどめを刺すようなナリクァンさんの辛辣な言葉に、ミネッタは膝の上で握りしめた拳を震わせた。


「でも――でも! あのかたは愛してるって! それに約束してくださいました、この仔のために新しい家を興すって!」 


 あの貴族野郎フェクトール公は昨夜、確かに言った。彼女と結婚することはできないが、いずれ新しい家を興してやると。


 ――でもそれは、ただのていのいい厄介払いに過ぎないのではないだろうか。


「新しい家を興していただける……それを信じるのは構いませんとも。信じることは尊いことです。……でもね?」


 ナリクァンさんは、気の毒そうな顔をした。


「家を興すということは、貴女はそれ以降、お屋敷では暮らせないということではなくて?」

「――――!!」


 声にならない悲鳴を上げて、ミネッタが立ち上がった。


「そんな、そんな……でも、でもあのかたは……!」

「気の毒だとは思いますが、現実を見据えた話をしましょう。あなたはもう、あのかたのもとで生きるのは諦めた方がよいのではなくて?」

「いや……いやです! フェクター様はそんなひとじゃありません!」

「ですが……」


 諌めるようなナリクァン夫人の言葉に、だがミネッタは大きく首を横に振った。


「フェクター様は、卑しい私を拾ってくださって、愛してくださって、仔まで授けてくださいました! あのかたがいらしたからこそ、私は今、こうして生きているんです! あのかたがどうあろうと、どのようなお考えだろうと、私はあのかたを愛しています!」


 目に涙を浮かべて、けれどミネッタは言い切った。愛していると。

 その想いは尊いと思う。


 ……だからこそ余計に、憐れだとも思った。

 理由はたった一つ――彼女の未来に寄り添う存在として、例の貴族野郎は存在しないだろうという点。

 彼女が愛を捧げる相手と、この先、共に愛を育んでいくことができないだろうという点が、いかにも憐れに思えたのだ。


 どうして奴は彼女を抱いたのだろう。よりにもよって、子供のできる藍月の夜に。


 性欲なんて、好きな女の子との間で解消すればいいだけの話だ。その子が子供を産んでくれたら万々歳だろうに。


 どうして、将来を添い遂げようと思う相手とだけで満足しようと思わないのだろう。俺なんてリトリィ相手に半年が過ぎたけど、彼女との夜に飽きたなんて、一瞬たりとも思ったことがない。一晩に何度も愛し合って、それを毎日続けていても、だ。


 ……いや、今、自分でもヤリすぎだとは思ったけどさ! 新婚、しかもまだ半年なんだ、それくらい普通だろ! 子供も早く欲しいしさ!

 いや、俺のことはどうでもいいんだ。なぜ好きな人とセックスする、それだけで満足できないんだろうか。

 ――そう思った瞬間だった。


『家や領地の共同経営者の選定だ。それ以上でもそれ以下でもない』


 唐突に、昨夜のクソ貴族野郎の言葉がよみがえってきたのだ。


『貴族の結婚生活のはじまりに、愛だの何だのが認められるとでも思っているのか?』


 貴族に、愛のある結婚はない――

 愛は、愛人との間で育むもの――


 ――もし、それが、あのクソ野郎にとっての「常識」だったのだとしたら。


 ひょっとして、俺は、大きな思い違いをしているのではないだろうか。

 ナリクァンさんは、あえて彼女を揺さぶっているのではないだろうか。

 ミネッタの存在は、実は――


 ナリクァンさんが、再び呼び鈴を鳴らした。


「……ふふ、いいでしょう。お部屋にお連れしてちょうだい」

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