第395話:頑ななお坊ちゃん

「……ふふ、いいでしょう。お部屋にお連れしてちょうだい」


 すると、廊下のほうではない、別の扉が開かれた。どうやら廊下ではなく、隣の部屋に続いている扉のようだ――そう思った瞬間だった。


「……あ、お、お前はっ……!?」


 思わずお前呼ばわりしてしまったが、扉の向こうにいたのは――


「フェクター様!」


 ミネッタが立ち上がり、駆け寄ろうとして、メイドさんにやんわりと制止された。

 ――そこにいたのは、フェクトール公だったのだ。


「な、なんでこんなところに!」


 だが、彼は俺を一瞥しただけで、その視線はミネッタに向けられていた。


「さて、フェクトール様。お呼びだてして申し訳ございませんわね。おかけになってくださいますか?」


 慇懃な礼のナリクァンさんにフェクトールは手のひらを向けると、テーブルに向かって一つ独立しているソファに腰掛けた。


 最初、俺達三人とナリクァンさん、そして黒服とメイドさんという部屋の中が、だいぶにぎやかになる。

 ナリクァンさんの正面に俺、その右隣にマイセル、左隣にリトリィ。俺の正面のナリクァンさんの、向かって左隣にミネッタ。

 そして、リトリィとミネッタに挟まれるように座る形でフェクトール。


 トレードマークの赤い軍服はチリの一つもみられないパリッとした様子で、金の飾緒モールも歪みひとつなく整っている。

 金髪碧眼の、腹が立つくらいに申し分ない顔かたちはさすがに昨日の今日で憔悴した様子だが、けれどそれすらも魅力的に見えてしまうくらいに絵になる野郎だ、くそったれめ。


「さて、お隣でお話を聞いていてもらったとは思いますが」


 ナリクァンさんが、薄く笑いながらフェクトールを見た。

 ……ってちょっと待って!? 隣で聞いていたって、え、こいつが!?

 思わず二度見してしまったが、やや目を伏せているこの男、眉をぴくりとさせるようなことすらなく、氷の像のような硬い表情のままだ。


「昨日もお尋ねいたしましたが、この子――ミネッタさんをどうするか、あらためておうかがいしたく思いますの」

「……昨日も言った通りだ」


 小さなため息をついて、フェクトールはつぶやいた。


「その娘には、私の子を産むに相応しい待遇を与える。屋敷を与えて家を興し、しかるべき年金を手配する。その子供が成長した暁にはしかるべき教育を与えられるよう家庭教師をつけ、男であれば騎士に、女であれば宮廷使用人に取り立てる。何が不満だ」

「ええ、不満も不満、大いに不満ですわ?」


 ナリクァンさんは、すまし顔でカップを傾けた。


「この庶民の娘が子の父親に――夫に望むことなど、一つしかございませんわ」

「ひとつ?」

「ええ。たったひとつ。あれもこれも望む、貴族の女と違って、ね?」


 ナリクァンさんはカップを戻すと、俺達の方を見た。つられてか、フェクトールも俺たちの方を見る。


「お分かりになるかしら?」

「生活の保障だろう? 私の館に残った娘たちは、それが理由のはずだ」


 まったく表情を変えず、落ち着き払って答えたフェクトールに、ナリクァンさんが大げさにため息をついてみせた。


「まだお分かりにならないのかしら。この子が望んでいたのは、本当にそれだけなのかしら?」

「…………」


 ミネッタは、ずっとうつむいたままだ。そっとフェクトールの方に目を向けるようなそぶりを見せることもあるけれど、しかし顔を上げない。

 フェクトールはまっすぐナリクァンさんを見つめている。表情は、一瞬たりともぶれることがない。


「……やれやれ。ずいぶんとかたくなな坊ちゃんですこと」

「これは極めて私的な話だ。貴女に話すことでもなければ、無関係の庶民に聞かせるような内容でもない」


 無関係の庶民だと!?

 俺は瞬時に頭が沸騰する思いだった。

 思わず立ち上がった俺を、ナリクァンさんが諌める。


「無関係、ではなくてよ? 無関係の庶民を、貴方が巻き込んだのですからね?」

「それとこれとでは――」

「昨夜の約束、お忘れになって?」


 初めて、奴の顔に動揺が走った。悔しそうに、一瞬、口を歪ませる。

 ――たしか、フェクトールはかなりの大貴族のはずだろうに。そいつが言うことを聞かざるを得ないって、いったい、どんな約束なんだ?


「……言ってみろ。その望みとやらを。」

「やれやれ、ほんとうに頑ななお坊ちゃんですこと。――ミネッタ。発言を許します。あなたの望みを言いなさい」


 発言を許されたミネッタは、ナリクァンさんの顔色をうかがうそぶりをみせ、次いでフェクトールの顔をうかがってみせ、そして口を開いた。膨らんだお腹を撫でながら、蚊の鳴くような声で。


「……私はフェクター様に、この子の父親として、産んだ仔を抱っこしていただきたいです。一度だけでいいですから。それだけで、いいですから……」


 思わず二度見した。

 リトリィもマイセルも、ミネッタを凝視した。

 ナリクァンさんまでも、目を見開いてミネッタを見た。


「あなた、昨夜は――」

「もう、いいんです。王都の見世物小屋で育った私を救ってくださったのは――初めて『ひと』として扱って、そして『ひと』として愛してくださったのは、フェクター様なんです。もう、捧げるものなんて、私にはひとつも残ってなかったのに」


 ミネッタは、途切れがちのかすれる声で、けれどまっすぐフェクトールを見つめながら、続けた。


「だから、フェクター様のお情けをお腹にいただけただけで、もう十分なんです。それにもう、この仔のお名前ももらってますから。あとは、この仔を父親としてだっこしていただけたら、私はそれで、……それだけで、頑張れますから」


 だれも、口を利けなかった。

 王都――また王都だ。リトリィも王都にいたそうだが、彼女は当時のことを詳しく話してはくれない。ただ、ストリートチルドレンとして、純潔だけは守りつつ、春を売って生きていたとだけ聞いている。


『私にはひとつも残ってなかったのに』


 その言葉で、ミネッタがリトリィ同様に過酷な生き方をしてきたかもしれない、ということが感じ取れる。

 そこからあの館――外に出られないこと以外は不自由のない生活ができるようになったとなれば、たしかに救われたと感じるだろう。


 それに王都に比べたら、城内街のレベルでもまだ暮らしやすいくらいだと、瀧井さんが以前、言っていた。そのことをミネッタが知っているのなら、たしかにこの街で、フェクトールの力に頼らず生きていくことは、可能なのかもしれない。


 けれど見世物小屋での暮らしから、急に館での不自由ない暮らしを始めたということになるのなら、やはり一人で生きていくのは厳しいのではないだろうか。

 ナリクァンさんも俺と同じことを考えたらしく、ミネッタに微笑みながら話しかけた。


「ミネッタさん。こちらのお坊ちゃんのことを心配しているなら無用ですよ? それよりも、子育てはそんな簡単なものでは――」

「いいんです。フェクター様は私を愛してくださった、この仔もご自身の仔として認めて抱っこしてくださった、その事実があるだけで」


 そう言って、ミネッタはかすれる声で、微笑んでみせた。


「この仔と二人で食べていくだけなら、なんとかなります。……なんとかします。これ以上、フェクター様にご迷惑をかけられないから……」

「ミネッタさん……」


 絶句したナリクァンさん同様、俺も何も言えなかった。

 その時だった。


「くっくっくっ……フフ、フハハハハハ!」


 突然笑い出したのは、――フェクトールだった。


「これはとんだお笑いだ! ナリクァン女史よ、これが彼女の答えなのだよ!」


 ……フェクトール、貴様!

 彼女がどんな思いで絞り出した言葉だと――!


「実質、ミネッタは私にこれ以上、なにも求めぬのと同じだ! 私を愛しているがゆえに! どうだ女史よ、これが愛だ! 私の注いだ愛の結果がこれなのだ!」


 立ち上がり、哄笑を響かせるフェクトール。その暴言に、俺も立ち上がりかけた、その時だった。


「見よ! 愛した女にすら力なき者として見捨てられる! これが私だ! 満足したか女史よ! ――だが認めぬ、認めぬぞこんな茶番劇!」


 フェクトールはミネッタの前に立つと、彼女を――抱き上げた!


「ミネッタ! 私が約束を破ると思うのか、私の子を宿したお前を! お前が愛してくれた私は、その程度の男だとでも言いたいのか!」

「ふぇ、フェクター様……」


 フェクトールの腕の中で目を白黒させるミネッタに笑いかけたフェクトールは、すぐにナリクァンさんに向き直った。


「ナリクァン女史よ! 認めぬぞこのような茶番劇! ミネッタに一人で生きる絶望を口にさせるなど! 貴族の務めは確かに果たそう、それが貴族に生まれた私の宿命なのだから。だがそれとこれとは別の話だ!」


 そう言い放ち、フェクトールはナリクァンさんを睨みつける。


「私は、あの館のすべての女たちを終生、保護するつもりで留め置いたのだ! ましてミネッタは私の子供を身ごもった女性! 私の子供ともども、この娘に不自由な思いなどさせるものか!」


 ……あきれた野郎だ。

 こいつ、本物の馬鹿だ。

 取るべき手段を間違えた理想なんだ。

 リトリィを奪おうとしたことは絶対に許さないが、その頑なな正義感というか愛というか、はた迷惑な首に何らかの手綱をつけてやれば、もしかしたら街を変える力になるのかもしれない。


「……分かりました、お坊ちゃんの決意は分かりましたから、まずはミネッタさんを降ろしなさいな。身重、それも臨月が近い娘に対する行動ではありませんよ?」

「……は?」


 不覚にも、俺の間抜けな声が口から洩れたタイミングは、フェクトールと同時だった。


「あら、ご存じなかったのですか? 長毛種ファーリィ、いわゆる原初プリムの娘さんは、妊娠期間が短いんですよ? だから獣人族ベスティリングのことをよく知っているお医者様に診せないといけないというのに」

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