第464話:二人きりで
それから、二人して、沈黙の作業が続いた。
点検が終わってから、片づけを進める間も。
ずいぶんと遅くなってしまったが、これでまた、明日の朝の作業もはかどるだろう。腰を伸ばしながら、改めてフェルミに礼を言う。
「……監督のお手伝い、したかっただけっスから」
戸惑うフェルミが、ランプの光の加減のせいか、妙に赤ら顔にみえて、面白い。
城内街の広場はもちろん、門外街の西門前広場の屋台はもうやっていないだろうが、飲食店街の屋台ならまだ営業しているはず。礼も兼ねて、遅い夕食を軽く奢ろうと考えて誘うと、ますます戸惑うフェルミが面白かった。
高さ三十メートルの塔の階段は、じつに長い。主に俺の安全のために、塔の階段は修理してもらい、手すりもつけてもらった。だが、長い道のりはどうしようもない。おかげで、随分と鍛えられたと思う。
リトリィも生理で体調がよくないのに、それをおして、今日も差し入れに来てくれた。感謝しかない。
そんなことを考えながら、もうあと残り二階分程度、という踊り場に着く直前だった。
「あっ――」
ふいに後ろで小さな悲鳴。あっと思う間もなく、足を滑らせる音。背中に伝わる衝撃。
俺はなすすべもなく押し倒され、そのまま踊り場に倒れ込む。
その時の恐怖は、口では言い表せない。
リトリィたちと初めて上ったとき、腐った階段を踏み抜いて落下しかけたあの瞬間を、まざまざと思い出す。
踊り場でなければ、間違いなく俺はそのまま転げ落ちていったはず。そうなれば死んでいたかもしれない。
しばらく動悸が治まらず、俺は思わず声を荒げていた。
「フェルミ、お前なあ!」
そして、何も言えなくなった。
「……ごめ、ん、なさい……かん、とく……!」
飛びついてきたフェルミが、しゃくりあげるように、泣いていた。
今味わったばかりの恐怖と戦っているように。
バツが悪くて、頭をかきながら、声を荒げたことをわびる。
そして、思い出した。
『ここ最近、ずっと火照る感じが続いてるくらいですかね』
フェルミも、体調不良を抱えていたみたいだということを。
「フェルミ、本当に体調がよくないなら、明日は休んでいいからな?」
「……え?」
俺の言葉に、フェルミが酷く取り乱す。
「そ、そんなこと、ないスよ? オレ、働けますから。ほ、ほら、元気も有り余ってて――」
立ち上がろうとして、顔が一瞬歪み、そしてまた、へたりこむ。
どうやら足首をひねったようだった。
「ほらみろ。――高所での作業だ、足首を痛めてるなんて、何があるか分からん。しばらく体を休めていろ」
「いや、そんな――」
「監督命令だ。俺を手伝っての残業の上の怪我だ、名誉の負傷扱いにしてやる。休んでいる間のお前の給金は、俺がどうにかしてひねり出してやるから。ゆっくり休め」
そう言って、フェルミの靴を脱がせる。
「か、監督……!?」
「こんな階段じゃ肩を貸すこともできないからな。本当はテーピング用テープがあるといいんだけど、
俺は腰に下げていた手ぬぐいを引き抜くと、フェルミの足に素早く巻きつけていく。テーピング用の、伸縮しないテープの代わりだ。手ぬぐいによって、足首を固定する。
「……ありが、とう、ございます……」
不思議そうな顔をして、立ち上がり、とんとん、と足を鳴らす。
「……さっきより、断然、痛くない、ですね……?」
「ただの応急処置だ。しばらくはなるべく歩き回ったりせずに、安静にしてろよ?」
もはや通い慣れた道。
ここ最近、ずっとフェルミが残業に付き合ってくれていたから、毎日二人で歩いていた。
その道を、今日は二人、いつもと違って、ものも言わずに歩く。
もうすぐ西門。ここを出て門前広場を抜ければ、すぐに俺の家。
だが今日は、飲食店の立ち並ぶ通りまで行って、何か食い物を奢ると決めていた。
足首を痛めたフェルミにはさっき、しばらく休むように言った。
ここ最近、ずっと体が火照る――微熱があるということだろう。
滋養のあるものを食べて休んでもらって、また元気に働いてもらいたかった。
「……怖かったんスよ」
人通りが少ない夜道を歩きながら、フェルミがぽつりと言った。
「……なにが?」
「あの瞬間、監督を殺しちゃうって」
「殺しちゃうは大げさだな」
笑ってみせると、フェルミは真剣な顔で俺を見上げた。
「だ、だって……たまたま踊り場だったからよかったっスけど、もしあれが普通の階段だったら、オレ、監督を突き落としてたはずで……」
「だから、
そんなやり取りも、すぐに沈黙に変わる。
またしばらく、静かな足音が続いた。
門にたどり着くと、俺は門衛騎士に、門を出ることを伝える。
本当なら手形を見せなければならないんだが、毎日合わせる顔だからか、実質フリーパス扱いだ。
「どうぞ。……最近、いつも遅いな。リトラエイティル様が心配されていたぞ」
門衛騎士のフロインド。以前、リトリィが奴隷商人にさらわれたときに、冒険者ギルドの
「もうしばらくはこんな感じだ。あきらめてる。それより、門衛騎士さまからこうして声をかけてもらえるってのは心強い。これからもよろしく頼むよ」
「……監督って、ホントに顔、広いっスね?」
「そうか? 別に俺でなくても、商人さんたちなんか、結構あいさつを交わしてると思うんだが」
「それは礼をかわしてるんであって、あんなに気安く、しかも騎士サマと対等に話なんかしてませんって」
妙に卑屈なフェルミに、俺は首を傾げた。
「なんでだ? フェルミだって第四四二戦闘隊の一員として、騎士連中と一緒に戦ってたじゃないか」
「オレ、最低限の敬意は払ってみせてたっスよね? オレ、庶民っスよ? 騎士サマと対等におしゃべりなんか、できるわけないじゃないスか」
……言われて、助け出したザステック大隊の誰かさんの「ケモノ部隊か」というセリフに腹を立てて、胸倉をつかみ上げたことを思い出す。
『俺たちはオシュトブルク市民兵、第四四二戦闘隊だ! 言い直せ!!』
……あー、あれ、まずかったのかな。
「マズいなんてもんじゃなかったっスよ。あれ、ヒーグマン隊長が頭下げてなかったら、どうなっていたか」
あきれるフェルミに、俺はきまり悪くて頭をかく。
だが、彼女は俺の手を握るようにして、そっと体を寄せてきた。
「……でも、カッコよかった。監督が――ムラタさんが、私たちのために真剣に怒ってくれたのが分かったから」
「すんませんっス、散らかってて……」
フェルミが恥ずかしそうにうつむきながら言う。
彼女の家に来たのはこれが初めてだ。というか、ただの買い物の荷運び人役とはいえ、一人暮らしをしている女性の家に上がり込むのも生まれて初めてだ。しかも、二人きり。
俺はすぐに帰るつもりとはいえ、どうにも落ち着かず、屋台で買い込んだ食い物をテーブルに置きながら、部屋を見回した。
中央にテーブル、奥にベッド。窓は一つ。こぢんまりした暖炉はそのまま鍋をかけることができるようになっていて、その近くにやや小さめの
フェルミ自身は散らかっていると言ったが、私物はほとんどなく、ゆえにそもそも散らかるだけのモノがない。
強いて言うなら、いま腰かけているベッドの毛布がわずかに乱れていること、そして部屋のすみにいくつか蜘蛛の巣がある、という程度だろうか。
――こんな部屋で暮らしていたのか。それも、一人で。
隣でうつむいているフェルミには悪いが、こんな殺風景な空間が女性の一人暮らしの部屋だなんて、にわかには信じられなかった。
女性の部屋というと、やはりぬいぐるみの類とかを思い浮かべるが、そんなものは一つもない。
いわゆる香水のような化粧品の類の香りも、一切ない。
なにせ、鏡一枚もないのだ。さすがに手鏡くらいはあるだろうと思ったのだが、引き出しのついた棚のようなものすらない。服が壁の釘に引っ掛けてあるだけで、物をしまっておくモノ自体がないのである。
いわゆる「ミニマルな暮らし」というか、一人暮らしならみんなこんなものなのだろうかとも思ったが、そんなはずはないだろう。
四四二隊で戦っていた時、昼食の量を増やすと言ったことに喜んでみせたのは、軽口でもなんでもなく、本当に暮らしが大変なのかもしれない。
「……とにかく、二、三日ばかりは休んで、体調を整えるといい。何なら、食い物を誰かに差し入れさせようか?」
「い、いいっスよ、そんな……!」
いつもと違い、ひどく恐縮してみせるフェルミの様子がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「足首は、痛むなら水で濡らした手ぬぐいで冷やすだけでもいいから。じゃあ、お大事に――」
「ま、待ってくださいよ監督、せめてお茶かなにか――」
「今から沸かしてたら遅くなるからさ。気持ちだけいただくよ、ありがとう」
湯を沸かしたら薪代がフェルミの負担となりそうだ。そう考えて、すぐに切り上げることにする。
「――まって、監督……ムラタさん」
立ち上がろうとした俺に、フェルミがすがりついてきた。
「もう少しだけ……もう少しだけ、お話、していきませんか?」
「いま、奥さんは二人とも、妊娠中と
……答えようがない。俺は黙って起き上がろうとした。
「……だから、離せ」
「いやです、と言ったら?」
フェルミが、欠けた耳をわずかに動かしながら、俺の胸の上に載せた頭をこすりつけるようにして、微笑んだ。
「せっかく来ていただいたのに、なんにもせずに追い返すような、そんな薄情な女にしないでくださいよ」
「そんなこと思ってないから」
「だったら、……もう少しだけ」
「……俺は、妻を愛している」
「知ってますよ?」
「……知ってて、これか?」
「はい。知ってて、これです」
俺の手を、両手で握りながら微笑むフェルミ。
「いけません?」
「俺が首を縦に振ると思うか?」
「だってもう、二度、
「だからこそだ。俺はこれ以上、妻を裏切りたくない」
「奥さんを三人も持っていて?」
首を傾げてみせるフェルミの正論に、俺は答えに詰まる。
「私は、ムラタさんの家庭を壊すつもりなんてありません。ただ、ムラタさんの優しさとぬくもりを、ほんの少しだけ分けてもらえたら、それでいいんです」
「……その手段が問題なんだって。だいたいフェルミ、お前この間の
「だって――」
フェルミは一度視線を落とすと、頬を染めて、また俺の目をまっすぐ見た。
「あのとき、あの夜――好きになったから」
面と向かって言われると、どうにもやりにくい。無下にするのも可哀想に思えてきてしまう。
「もともと、お人好しな人だなあって思ってたんですよ」
フェルミは、小さく笑って、続けた。
「でも、あの夜……ムラタさんは優しく、包み込んでくれたんです。獣人としての魅力もない、ひととしての魅力もない、女としての機能も欠けてる、こんな私を」
「フェルミ、それは違う」
思わず、フェルミの肩を抱きしめる。
自身を言葉のナイフで切りつけ続ける彼女を、見ていられなくて。
「君は十分魅力的だよ。少しおっちょこちょいなところはあるけど、手先が器用で、仕事も丁寧で。よく気がついてくれるし、気がついたことをちゃんと教えてくれる。頼れるひとだ。十分に魅力的で……」
「だったら――」
フェルミは、俺の言葉を遮るようにして口を開いた。
「だったら、抱いてくださいよ。魅力的なんでしょう? 決して、ムラタさんの家庭を壊すようなこと、しませんから。絶対に迷惑はかけませんから」
そう言って、フェルミは俺の手を握る手に、力を込める。
「ムラタさん、今は私とムラタさんの、二人きりです。誰も、私たちが逢ってるなんて、知りません。だから――」
まっすぐに、俺の目を見つめるフェルミ。
思わず目をそらしかけ、けれど、俺もまっすぐに返した。
「……それは、できない」
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