第463話:秘密の報酬
「よーし、休憩!」
俺の言葉に、皆が力のない返事をする。
無理もない、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
目が慣れているから気にならなかったが、鐘塔の上からぐるりと街を見回すと、西の空はまだ赤く輝いているものの、星が夜空を覆い始めていた。
俺の声を聞いたのだろう、塔のなかに控えていたリトリィたちが、お茶とお茶菓子をもって塔の頂上に上がってきた。
途端に、職人たちの歓声が上がる。
「おかみさん、いつもありがとうございます!」
「いいえ、いつも夫がお世話になってますから」
そう言いながらリトリィが開けたバスケットの中には、たくさんのビスケットが詰まっていた。
野郎どもの手が、我先にと伸びる。
「だめですよ? こちらのふきんで、ちゃんとお手をふいてから。約束が守れない方にはあげませんから」
「おかみさん、オレオレ! オレはふきました!」
「はい、どうぞ召し上がれ」
もはや見慣れた光景、餌付けともとれるありさまだが、おかげで俺の奥さんたちの評判は、職人たちの間では極めて良いと言っていい。やはり労働への対価――胃袋への報酬は人心をつかむ上で重要な要素だった!
「監督、ここのズレ、気になりません?」
「どれどれ? ――ああ、これはちょっと……このまま作業を進めると、ちょっと干渉するおそれがあるな……」
松明とランプの明かりを頼りに、今日の仕事の仕上がりを点検する。
もう、残っている職人はフェルミだけだ。あとはみんな帰らせた。
本当はフェルミにも帰れと言っているのだ。けれど、「ヒョロガリの監督を一人残らせたら、どうなってしまうか分からない」などという理由で、彼女は最終点検に、いつも付き合ってくれている。
「フェルミ、どう思う? これは石材を削れば済むと思うか?」
「そっスね……いまさら積み上げた石材をカチ割るってのも、カチ割る手間ともう一度積み上げる手間が二重でかかりますからね。それと石ノコギリで切る手間を比べたら――」
昨日、フェクトールに呼ばれた(俺は兵士二人に連行されたけどな!)際に、最後に言われた言葉。
『急がせて悪いが、大鐘が鳴らせるならそれでいい。必ず間に合わせてほしい』
まあ、事前に期限はひと月ほどと聞いていたから、その点に関しては抜かりはない。日が沈んでも松明を使って、できるだけ作業を続けている。
最初は不満も出たが、その辺りはリトリィたちが中心になって、職人たちの胃袋をつかむ作戦でしのいできた。
あと二十日ほどと聞いている。厳しい日程だが、大丈夫だ。職人の皆には大変な思いをさせているが、このままいけば、多少天候が荒れても間に合わせることができるだろう。
「……それにしても、監督はホント、背負い込むのが好きっスね」
「べつに好きってわけじゃない。誰かがやらなきゃならないことだし、本当は日が暮れる前に終わるはずの仕事を、日が暮れてもがんばってくれてる職人さんたちに、これ以上残業なんてさせられないだろ?」
そう言うと、フェルミは笑顔で「じゃあ、オレももう、帰っていいっスね?」と返してくる。
いいどころの話ではない。フェルミだって帰るべきなのだ。俺に付き合って残業する理由なんて、どこにもない。
俺はフェルミに頭を下げた。
「……すまなかったな、残らせてしまって。工事が再開してから毎日、ありがとう。いいよ、もう上がってくれ」
そう言って、俺は
「監督は?」
「俺はもう少し見ていくよ」
そう言って
「……オレ、本当に帰っちゃうっスよ?」
「ああ。俺のことなんて気にしなくていい。ごくろうさん、先に帰ってくれ」
なにせ高さ三十メートルもある塔を、階段ひとつで歩いて降りなければならないのだ。だからこそ、安全を考えれば明るいうちに下りてもらわなければならないのに、フェルミときたらいつも残業に付き合ってくれている。
いまさらだが、フェルミのことをチャラ男などと誤解していた自分が情けない。
「帰り道、気をつけてな」
俺はフェルミに背を向けると、石積みの様子の点検を再開した。
――ああ、ここの作業はちょっと雑だ。許容範囲を超えている。この区画の担当は誰だったか。明日は注意を入れなきゃならないだろう。
……だが待てよ? ここまでは普通に作業してきたんだ、新人でもない。もしかしたら疲れが溜まっていて、作業に集中しきれていなかったのかもしれない。だったら俺がするべきなのは――
「――! 監督っ!」
「……まったく、脅かさないでほしいっスよ。あのまま落ちて怪我でもしたら、どうしてたんスか」
「ごめん」
考え事をした一瞬だった。
「監督って、ホント見ててやらないと危なっかしいっスね」
そう言ってフェルミは白い歯を見せた。
「面目ない」
「しょうがないなあ、もう少し付き合ってやるっスよ」
「それはだめだ。もう帰りたいんだろう?」
「いいっスよ、どうせ家に帰っても一人なんスから」
「いや、そういうわけにもいかないって」
妙な押し問答が続いた後で、フェルミが呆れたように鼻を鳴らした。
「……いいかげん、重いんスけど」
そこでやっと我に返る。
俺は、フェルミを押し倒すようにして、彼女と折り重なって倒れていたのだ。
「あ、ああ! ごめん、すぐ――」
彼女のおかげで、脚立から落下しかけた俺は無事だった。だが俺を受け止めたフェルミは、転んだときに腰などを打っていないだろうか。慌てて立ち上がろうとする。
「……おい」
バランスを崩し、ふたたびフェルミの胸に倒れ込んでしまった自分が情けない。
……が、その倒れた原因――フェルミによってつかまれた手首。
「おまえな、俺をからかってるのか?」
「からかってなんて、いませんよ?」
フェルミはそう言って、俺の背中に手を伸ばす。
「奥さん、いま、
「とっ……突然何を言い出すんだお前は!」
「オレだって
――ああ! ということはフェルミも……!
「す、すまない。そうか、フェルミも体調が悪かったんだな? なのにこんな時間まで残らせて……気づけなくて悪かった!」
だが、フェルミは俺の慌てるさまを見て、くっくっと喉を鳴らすように笑った。
「体調っスか? べつに悪くないですよ? ここ最近、ずっと火照る感じが続いてるくらいですかね」
「体が火照る? フェルミ、風邪でもひいているのか?」
「さあ?」
いたずらっぽく微笑むフェルミに、俺はため息をつく。
いずれにしても、言葉も振る舞いも男っぽいとはいえ、フェルミも女性なんだ。それを下にして転んだままというのは何とも格好がつかない。
起き上がろうとすると、フェルミがぎゅっと、腕に力を込めた。
「……おい、フェルミ。いいかげん、からかうのはよしてくれ」
「なんでですかね? オレ――私、かん――ムラタさん相手だと、こうやっていたくなるんですよ」
「お前、さっき重いって言っただろ」
「それですぐに動こうとするムラタさんの、そういうところが好きですよ?」
「どういう意味だ、いい加減に――」
さっきからずっとからかわれっぱなしで、さすがにムッとした俺に、フェルミは両手をさっと離して笑ってみせた。
「さ、お仕事お仕事。さっさと点検済ませて帰らないスか? オレもハラ、減っちゃいましたし」
「……お前なあ」
調子のいいフェルミに、俺は脱力しつつ苦笑いを返す。
なんだかんだ言っても、この調子の良さには救われる。
俺は体を起こすと、フェルミに手を差し出した。
「さっきは助かった、ありがとう」
「ほんとにそう思ってるんスか?」
「もちろんだ」
「ほんとに感謝してくれてるなら、感謝は何らかの形をした報酬で欲しいっスね。あ、みんなには秘密で」
「俺だってこの仕事が終わるまでは、大した給料はもらってないんだ。少しは加減してくれよ?」
「お金じゃないっスよ」
フェルミは俺の手を握ると、勢いよく体を起こした。
……その、勢い余ってのこと――だと、思いたい。思うことにする。思わなくちゃならない、と考えた。
「……ふふ、監督? 秘密の報酬、いただきました」
唇をふさがれた、その瞬間は。
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