第462話:あなたのもとで

 ミネッタを運び込んでから、三時間ほどだろうか。


「ホァアアァ……ホアアアアァ……!」


 なにか、よわよわしい声が聞こえてきたその瞬間の、そのカーテンの向こうの爆発ぶりを、俺は床にへたり込みながら聞いていた。リトリィの声、マイセルの声、そしてフェクトールの声。


 ……オギャーッ、じゃないんだな。


 なんというか、感動というよりも、やっと終わったという安堵感、もう走らなくてもいいという解放感のほうが、はるかに大きかった。

 ところがそんな俺に、カーテンの向こうから顔を出してきた女性がさらに追い打ちをかける。


「なにをぼさっとしてるんですか! お湯は産湯だけじゃないんですよ! ミネッタさんの体もふいてあげなければならないんですから! 早くお水を汲んできてください! それと薪!」


 少しくらい休ませてくれよっ!



  ▼ ▽ ▼ ▽ ▼



 ミネッタのお産のことを思い出すと、急にあの時の疲れがよみがえってくる。マイセルが俺の子を産んでくれる時も、あの時のようにこき使われるんだろうか。

 ……いや違う、待望の我が子の誕生だ! こき使われる前に自分から走り回ってやるさ!


「そういえば、ミネッタは自分で……その、おっぱいをあげるんだな。貴族は乳母うばを雇うんじゃなかったのか?」

「もちろん私もそのつもりだったんだけどね?」


 フェクトールはそう言って笑った。


「彼女が、自分で乳を与えて育てたいと言って聞かなかったんだよ。子供が生まれるまで、乳など全く出なかったものだから心配したのだが」

「乳が出なかった?」


 そして、たしなめられたのだという。乳が出るのは、子が生まれてからだと。


「乳というものは、子が生まれてから初めて出始めるものなんだということを知らなくてね。実は前夜にも、本当に乳がでないか、愛し合いながら確かめてみたのだが、何度吸ってもしぼっても、これが全然出なくてね。実に心配したものだ」


 ……ちょっとまて。生まれる前に乳は出ない――そのこと自体は、実は俺も知らなかったというか、考えたこともなかったんだけど。

 それよりもだ、生まれる前夜にも愛し合っていた!? 臨月の、いつ生まれるか分からない女性を相手に!?

 それはさすがに節操なさすぎだろう!


「何を言っているんだ。互いに愛し合う仲なのだから、それくらい当然のことだろう?」


 それくらい当然って、タフだな二人とも! 第一、お腹の大きな女性相手に……


 ……マイセルとも三日に一回は俺、いたしてるな。俺とリトリィの夜に当てられたマイセルが、どうか自分も、とまたがってくるケースがほとんどだけど。

 それを当てはめると、リトリィの場合、出産前夜まで搾り取られてそうに思えてきたぞ? よその畑に種をまきに行く気も起こらないようにいたします、とかなんとか言って。

 ……よその畑、という言葉から即座にフェルミの肌を、そのしっとりと潤うぬくもりを思い出してしまう自分が情けない。


「なんにせよ、すべて彼女が望んだことだ。私にできることは多くないが、だからこそ、彼女のささやかな願いはなるべく叶えてやりたい。それが、ひいては子供のためにもなるはずだ」


 そう言って、フェクトールは笑った。

 めんどくさそうな貴族同士のしがらみの中で、彼なりにできることをするという決意。


 あれほどいけ好かない奴だと思っていたフェクトールだが、しかし彼なりに、パートナーとして、そして父親としての自覚が出てきたということなんだろう。俺の方が、一歩も二歩も遅れているような気がしてくる。


 すると、何やら女性陣のほうからざわめきが聞こえてきた。


「フェクトール様、申し訳ございません。その……を替えてまいりますので……」


 見ると、ミネッタが立ち上がるところだった。


「ああ、行きたまえ。大丈夫だ、こちらを気にすることはない」


 ミネッタは改めて俺たちに礼を失する詫びをすると、赤ん坊を抱えて部屋を出て行った。


「……本当に、自分で世話をするんだな」

「言ったろう? あの娘がそれを望んでいるんだ。だったら私にできることは、彼女が望む環境を整えてやることだ。もちろん、いまのわたしにはまだ何もできないが、我が子にも、最大限のことをしてみせる」

「……ミネッタは、それで幸せだと思うか?」

「何を言っているんだ、君が――君たちが教えてくれたことだぞ?」


 俺の言葉に、フェクトールは小さく笑ってみせた。


「――幸せとは、本人の望むことが叶うことだと。あの夜の衝撃を、己の驕りと無知を、私は戒めとして決して忘れない」


 そう言って、照れくさそうにする。


「私は、我が子のために、我が子を産んでくれた彼女のために、彼女からよく話を聞いて、共に過ごしながら、私にできる最善を尽くしていくつもりだ。それが君たちから学んだ、彼女たちへの愛の示し方だと考えている」




「ふふ、赤ちゃん、可愛かったですね」


 帰り道、リトリィの言葉に、ニューとリノが大きくうなずいた。


「可愛かった! でもちっちゃかった! ボク、びっくりした!」

「なあおっさん、赤ちゃんってみんなあんなにちっちゃいのか!? おれたちもあんなにちっちゃかったのか!?」


 ニューが、抱っこさせてもらった時のサイズ感を腕で表現してみせる。彼女にとって、赤ん坊を抱かせてもらえたのは大きな衝撃と、そして感動があったようだ。


「……そうだな。俺もあんなに小さいなんて、思わなかった。子供の頃、親戚の赤ん坊を抱っこさせてもらったことがあったけど、あの時は腕一杯にあった気がしたんだけどな」


 成人した今、その感覚とは大きく隔たるサイズ感に、俺も正直、戸惑った。その小ささと、しかし確かな重みに、改めて「いのち」を感じたものだった。


「ミネッタさんは、獣人族ベスティリングですから。私より妊娠の期間も短いですし、赤ちゃんもその分、小さいですよ?」


 マイセルの言葉に、俺はうなずき――かけて、思わずマイセルを二度見する。


「あれ? じゃあマイセルが産む赤ちゃんは、さっきとは違ったりするのか?」

「もちろんです」


 マイセルはお腹をさすってみせる。


「わたしたちヒト・・はおよそ九カ月ですから。ミネッタさんよりも長いですし、生まれてくる赤ちゃんも、もっと大きいですよ?」


 そのぶん、お産も大変ですけど――そう言ってマイセルはすこしだけ苦笑し、けれどすぐに、きらきらとした笑顔を見せた。


「でも、大好きな人の子を産めるんです。がんばりますよ!」


 そう言ってマイセルは、そっと耳打ちしてくる。


「――だから、はやくお姉さまにも、赤ちゃんを抱かせてあげてくださいね?」




 マイセルは俺の右隣で、静かな寝息を立てている。

 リトリィは俺の左隣で、俺に背を向けるようにして眠っている。


 窓から見えるさえざえとした月が美しい。

 だがその美しさも、胸のつかえを取るには至らない。


 リトリィは、腹の痛みを訴えて、今夜はお休みだった。

 なんのことはない。月のもの・・・・が少し早めにきてしまった、それだけだ。

 まただ、またしてもリトリィの体調不良に気づくことができていなかった。


 それにしても、なんという皮肉なんだろう。

 出産の幸せをかみしめているところに、子供を切望しながらまたしても果たせないまま月経を迎えたリトリィが呼ばれたという事実。

 彼女はその重みを密かに抱えながら出向き、それでも微笑みを絶やさなかったのだ。幸せをかみしめる二人のために。


 彼女の痛々しいまでの微笑みが、胸に突き刺さったまま、取れない。


『わたしはだいじょうぶです。いつかきてくれる……あなたがさずけてくださるって、しんじていますから』


 俺は頬を伝う涙を抑えることができなかった。

 俺は君のために生きると誓ったのに、一番幸せにしたい君に、君が望む一番の幸せを、まだ渡すことができていない。


「……あなた、なげかないで」

「――――!?」


 リトリィの声だった。

 寝ているとばかり思っていた!

 慌てて目をこする。


「起きてたのか?」

「少しだけまえに」

「い、いつから?」

「『俺は君のために生きると誓ったのに』のあたりから、ですね」


 彼女は俺に背を向けたまま答えた。


 独り言を聞かれていたなんて。きまりが悪くて何も言えずにいると、彼女は体ごと、こちらに向き直った。


 彼女は、すこしだけ呆れたようにため息をついたあと微笑んだ。


「お気になさらないでって言ったのに、マイセルちゃんとも、なにもされずに寝てしまわれるんですから」

「……君を抱けないでいるのに、ましてマイセルを抱くなんてできないよ」

「だめですよ? そんなことされたら、マイセルちゃんが月のものだったとき、わたしがあなたに抱いてもらえなくなっちゃうじゃないですか」


 いたずらっぽく笑って、そっと俺のものを握ってくる。


「お、おい……!」

「ふふ、あなた? おやんちゃさん・・・・・・・はとっても素直な、いい子ですよ?」


 すぐさまリトリィは、布団の中にもぐってしまった。

 しばらくして、「ごちそうさまでした」と顔を出す。


「ひさしぶりに、濃いものをいただきました」


 そう言って、ぺろりと舌を出してみせる。

 そりゃそうだろう。結婚してからずっと、子作り以外の無駄打ちなんてしてこなかったんだから。


 するとリトリィは「そういえばそうでした」と笑ってみせると、俺の左半身にからみつくようにして身を寄せた。


「……あなた?」


 彼女はキスを求めながら、ささやく。


「あまり、気負いすぎないでください。言ったでしょう? 仔については、もうあきらめていますから」

「あきらめる!? そんな馬鹿な、俺は絶対にあきらめないぞ! 必ず君に子供を抱かせてみせる! 一人どころじゃない、二人だって三人だって!」


 思わずリトリィの肩をつかんで揺すぶるようにしてしまった。

 リトリィはしばらく目を丸くしていたが、やがてくすくすと笑った。


「もちろんですよ? 何人だって産みますとも」


 そう言って、彼女は俺を抱きしめ返した。彼女の豊かな胸に顔をうずめられ、息が詰まる。


「そうではなくて――このさき、あなたがどこで、だれに子を産ませても、もう気にしないってことです」


 ちょっとまって! それ、俺が完膚なきまでに最低な無節操クズ人間ってことじゃないか! それってむしろ、俺がリトリィに見捨てられてるようなものだろ!?


「そんな風に聞こえましたか?」

「そう言われてるようにしか聞こえなかった!」


 俺の訴えに、リトリィはいたずらっぽく微笑むと、指折り数え始める。


「だって、わたしでしょう? それからマイセルちゃん、そしてフェルミさん。だんだん、お手をつけるまでが早くなっています」

「ちょっと待ってくれ、俺はだな……!」

「『良い種は分け与え広めるべし』と言いますし」

「リトリィ、笑顔だけどひょっとしてひょっとしなくても怒ってたりする!?」

「いーえ、おこってませんとも」


 そう言うリトリィの指が、爪が、背中に食い込んでるんだけど!


「あなたが変に遠慮をなさると、わたしもお種をいただきにくくなるんです。わたしのことを気にしてくださるのはうれしいですが、あなたをもとめるひとを、ちゃんと抱いてあげてくださいね?」

「そ、それは――」

「わたしは、……わたしたちは、あなたのもとでしあわせになりたいんです。そのみんなに関わったのですから、みんなにください。あなたの愛を、祝福を」

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