第465話:あなたの帰る場所は
「……それは、できない」
答えた俺に、フェルミは笑った。
悲しい笑いだった。
「やっぱり、私に魅力がないからですよね? あの時はほかに女がいなかったから――奥さんがもう、死んじゃってるかもしれなかったから、手近な
「フェルミ、それは違う!」
「違うなら……抱いて、くださいよ……」
そう言って、フェルミは服をはだけた。
先端のない――赤ん坊がしゃぶるはずだった場所には、ひきつれた跡しか残っていない両の乳房が揺れる。
肌のあちこちに、いくつも残る傷痕。
無惨に欠けた、かつては三角だったはずの耳。
ひきつれた痕跡とわずかにのこる毛深い肌から、かつてそこにしっぽがあったことが推察できるだけの尻。
凄惨な凌辱の印が刻まれた彼女の肌の上を、着ていた服が滑り落ちてゆく。
冷たい月の光のなかで、一糸まとわぬ裸身が、白く輝く。
「こんな私の体を綺麗だって、魅力的だって言って優しく抱いてくれたムラタさんの言葉を、もう一度信じさせてくださいよ……!」
悲痛な、絞り出すような、けれどか細い、悲鳴に似た叫びだった。
「そうでないなら……口先だけの綺麗ごとだったって……都合よく吐き出せる穴に、これ幸いと排泄しただけだったって、認めてくださいよ……」
痛々しい微笑みを浮かべたまま、涙をこぼす彼女に、俺はかける言葉がみつからない。フェルミは、そっと俺の手を取った。
「監督……オレ、やっぱり恋をしちゃ、いけなかったんスかね? ……汚れたオンナは、好きになった人と一つになることも、許されないんスかね……?」
「そんなことは――」
フェルミが、俺のひざの上にのしかかる。その腕を俺の肩にからめ、ひやりとした柔らかな肌の谷間を、顔に押し付けてくる。
「――だったらムラタさん、私にも愛をください。私のこと、綺麗だって、魅力的だって認めてくれたムラタさんが相手なら、オンナに戻れる……戻りたいんです」
フェルミが俺の頭を抱きしめる。
彼女の体に包まれるようにして、俺の体は再びベッドに倒れ込んだ。
「ふふ、ムラタさん、分かりますよ? こんなに大きくして」
「……お前な。こんな状態にされたら、男は誰だってこうなるに決まってるだろ」
「うれしいです。たとえただの排泄欲だったとしても、あなたにこうなってもらえるなら」
そう言って体を起こしたフェルミは、俺のものを導き入れようとする。
……が、慣れていないのだろうか、滑って、なかなか入らないようだ。
俺は苦笑いすると、彼女の手をつかみ、引き寄せた。
「あっ……」
そのまま彼女の背に腕を回して、抱きしめる。
「む、ムラタ、さん……?」
「……フェルミ、しばらく休め。別に家にこもってろっていうわけじゃない、実際に足も捻挫している。ただ、お前はきっと疲れてるんだよ。俺なんかに頼ろうとしてみせたり、いつものお前らしくない」
あえて感情を込めず、淡々と言ってみせる。
この部屋のあまりに質素な様子から、その暮らしぶりを垣間見た上でそんなことを言うのは胸が痛かった。
だが、仕方がない。フェルミを落ち着かせないと――そう思ってのことだったのに。
「……もう、お仕事に来ちゃだめって言うんですか? クビですか?」
「そうじゃない、しばらく休めと言っている」
「それ、クビってことでしょ?」
「だから違うって」
フェルミが、俺の首に腕をからめる。
彼女の吐息が、俺の口元をくすぐる。
「何が違うんですか? 来るなって、そういうことでしょ?」
「来るなと言ってるんじゃないって。いつもの陽気なお前らしくない。少しの間休んで、落ち着いてからまた――」
「頭を冷やせってことですか? ムラタさんへの想いを醒ましてから出直せと?」
その言い回しにはひっかかったが、つまりそういうことだと、うなずいておく。
「わかりました。じゃあ、今夜限り――ムラタさん、もう一度だけ、ぬくもりをください」
「……バカ言うな。そういうつもりなら、ほんとにクビにするからな?」
「いいですよ?」
そう言って、フェルミは笑った。
「そのかわり、今夜は奥さんのもとに帰しません。今夜は私が、ムラタさんを独り占めにします」
「あのな……」
「だって、今夜限りでもう、ムラタさんへの想いを忘れろって言うんでしょ? だったらせめて、一晩くらい付き合ってくださいよ」
こんなに大きくしてるんだから――そう言って腰を擦り付ける。
だが、リトリィやマイセルのしなやかな動きと違って、どこかぎこちない。俺のものを上手く入れられなかったさっきの仕草と合わせて、こういうことに慣れていないのが分かる。
それが、妙にいじらしい。
「……俺は何も見なかったし聞かなかった。疲れてると、誰でもいいから人肌が恋しいって思っちまうことも、気の迷いが出ちまうことも、時にはあるんだろうさ」
「……ひとを押し倒しておいて、自分はさっさと帰るって言うんスか? さすが監督、いいご身分っスね?」
突然、いつもの軽口風に言われて、俺は苦笑いだ。
「あのな、押し倒してるのはお前だろ?」
「オレを引っ張って、それで今も抱きしめてるのは、監督っスよ?」
「それはお前が――」
言いかけた俺の唇を、フェルミの唇がふさぐ。
しばし唇を重ねるだけの、ぎこちない口づけ。
おそるおそる伸ばしてくる舌。
あれほど挑発的だったくせに、キスひとつにも慣れていないのがよく分かる。
「んぅ……!?」
そのギャップに、俺はなんとも言えない思いに駆り立てられて、その頭をかき抱くようにすると――
二人の舌の間で、名残惜しげに伸びた銀の糸が、月明かりに光る。
「ムラタさん……」
荒い吐息が、唇に触れる。
蕩けた目で、潤んだ瞳で、フェルミが舌を伸ばす。
あの時はお互いに余裕もなかったからだろうか。
いま初めて知ったかのように、フェルミは何度も、キスを求めてきた。
「これ、恋人同士の口づけ――ですよね?」
あえてそれには答えない。
けれどフェルミは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、何度もキスをせがむ。
「こんなに、胸が熱くなるんですね……知らなかった。口づけって、こんなに幸せな気持ちになれるものだったんだ……」
「……あの夜にだって、口づけはしただろう?」
「あのときは、全然余裕なくて! 好きになったひとと、初めてつながった夜だったんですよ?」
好きになったひとと、初めてつながった夜――
……ああ、その言葉に胸が痛い。
つまりフェルミは、思春期の国境紛争で凌辱されて以来、一度も男性に肌を許したことがなかったんだろう。なにせ、ずっと男装をしてきて、――そして今日も、男装をしていたくらいだ。俺だって、今回の動乱がなければ、線の細いチャラ男だと思っていた。
……フェルミの人生を狂わせた男が俺でいいのか。
「人生なんて、とっくに狂ってました。むしろムラタさんのおかげで、元の自分に戻れたんです」
「元に戻れたって――」
「だって、ムラタさんの前でなら、私、
そんなことはないだろう――言いかけた俺の唇を、また、フェルミの唇がふさぐ。
「……私は家に帰っても、一人なんですよ? やっと、やっと……ムラタさんに、本当のぬくもりを教えてもらったんです。お願いです、ほんのひととき――ひとしずくでいいですから、分けてもらえませんか。ムラタさんのぬくもりと、幸せを――」
フェルミが、震える唇を、もう一度重ねてきた。
「……じゃあ二、三日して落ち着いたら、また現場に来てくれよ」
「こちらの望みは叶えてくれないくせに、仕事には来いって言うんですか?」
それには答えない。手を上げて手のひらを向ける。
「じゃあ、また」
フェルミはそんな俺の手のひらに、そっと自分の手のひらを重ねた。
「……さようなら、ムラタさん」
俺は振り返らなかった。だが、フェルミが戸口に立ったまま、ずっと俺を見送っていたのは、気配で分かった。
路地を曲がったとき、叫び声にも似た悲痛な泣き声が、俺の背中を追いかけてきた。
帰ってきてほしい、どうかもう一度だけ――慟哭が、胸を貫く。
俺は歯を食いしばった。
食いしばって、家に向かって駆けだした。
帰宅した俺を見た瞬間――リトリィが一瞬、息をのんだのが分かった。
俺自身、ひどい顔をしていたという自覚があった。
また、リトリィの表情で、彼女が全てを察したことを理解した。
俺なんかよりずっと勘が鋭く、人間よりずっと鼻が鋭い彼女だ、当然だろう。
けれど彼女は何も言わず、俺を笑顔で迎え入れた。
夜、リトリィはそのことには一切触れず、ずっと奉仕し続けた。
二度、三度―― 一滴残らず吸い出しては、うれしそうに飲み下した。
そして寝る前に言った。
「あのかたですね?」
隠そうと思っていたわけじゃない。だが、俺が言おうとするたびに彼女が触れさせまいしたため、今まで黙っていたことだった。いらない心配をかけてすまない、としか言えなかった。
「いいんです。あなたがきめたことですから。あなたが
「リトリィ、俺は……」
「あなた」
リトリィは、改めて俺に向き直る。
「わたしは、あなたの、一番ですか?」
俺にとっての、一番。
その言葉に、彼女がどんな想いを込めているのか。
俺は彼女を抱きしめた。
彼女が身をよじっても。
彼女は少しだけ泣いて、そして俺の懐の中で「わたし、しあわせです」とつぶやいた。
しあわせなら、どうしてそんなにも、一番を気にする。
どうしてそんなにも、俺の背中に爪を立てる。
不安で仕方がないんだろう?
そしてそうさせているのは、俺なんだ。
シーツが多少汚れても仕方ない。
どうせ野戦病院化したときに、すっかり血で汚れてしまったシミだらけのシーツだ、さらに一つ二つ増えたところで、いまさらだ。
シーツを洗う手間よりも、感じさせてやりたかった。
彼女が欲するものを。
すすり泣くようにしながらすがり付く彼女のぬくもりを感じながら、俺自身のぬくもりを、分け与えてやりたかった。
お前が一番なのだと、刻み込んでやりたかった。
「あなた、起きてくださいな! シーツを洗いますから!」
そう言いながらシーツを剥ぎ取り、俺をベッドの下に叩き落すリトリィ。
「昨夜はお楽しみでしたね? そのぶん、こちらはお仕事が増えるんですから。さあ、
めちゃくちゃタフだな俺の奥さんは!
昨日あんなに泣いてたのに!
「なにをおっしゃるんですか。きのうはきのう、きょうはきょう。わたしはあなたの第一夫人なんですから、いつまでもめそめそしていられないんです」
そう言って、巨大なシーツを二枚、くるくると丸めだす。
「あなた、もう小さい子たちもとっくに起きてるんですよ? あとはあなただけなんです。はやくお席に着いてあげてください。あなたがお席につかないと……あっ」
無理矢理に、彼女を抱きしめる。
……やっぱりだ。目のふちが赤い。
口では威勢がいいけれど、それは彼女なりの割り切りというだけで、やっぱり寂しい思いをさせていることを自覚する。
「……すまない、今日は早く帰るから――」
「だめですよ? あなたはいま、だいじなお仕事をかかえているんですから。ちゃんとお仕事をしてきてください、わたしはだいじょうぶで――」
本当に言いたかったことを遮られてしまったが、負けるものか。もう一度、口を挟む。
「それでもだ。君にこれ以上、寂しい思いをさせたくない」
なおも反論しようとした彼女の唇をふさぎ、そのまま一緒に、ベッドに倒れ込む。
「……ベッドが、汚れちゃいます……」
リトリィの声はか細くて、けれど言葉とは裏腹に、小さくしなやかな指は、俺の背中で爪を立てた。
俺を放すまいとするように。
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