第323話:俺という人間の価値
ずっしりと重い鞄を腰に下げ、俺たちは家路を急いでいた。
三マルカ――三千ゼニン。金貨三枚分に相当する銀貨と銅貨。
それが、俺個人に支払われた額。
マイセルへの日当は、これまで別に支払われていたので、純粋な俺への取り分が、これ。
各職人に対しては日当で支払われていた。担当する作業内容にもよるが、日雇いなら食事の支給付きで一人、六ゼニンから十ゼニンほど。これは、食堂で一般的な「おまかせ」を頼むと、二食分から三食分程度の金額だ。
期間契約大工だと職能の高さからもう少し高くて、十ゼニンから十二、三ゼニンほどになる。
それを聞いたとき、最初は安い、と思ったが、誰も文句を言わないところを見ると、それが相場だったようだ。
以前、金貨の価値を十万円程度と見積もった俺だが、この街で暮らしていて、それが正確ではないと気づかされた。
なにせ、銀貨十数枚、つまり百数十ゼニン――以前の見立てで言えば、およそ一万数千円程度で、二人ひと月分の食費が賄えてしまったからだ。肉は確かに高いが、それ以外がそれほど高くないのである。
特に、主食のパンを、リトリィが手間を惜しまず毎日焼いていた、というのも大きいだろう。パン屋から買っていればもう少しかかっていたはずだ。
代わりに薪などの燃料代はかなり高くついたが、こればかりはどうしようもない。
リトリィは節約のために努力してくれている。一緒に色々なものを調理し、さらに余熱調理・保温も活用するなどして、可能な限り無駄の無いように頑張ってくれているのだ。
俺が温かいものを食べたい、と言ったせいだ。
以前、やっぱり火を起こす労力や馬鹿にならない燃料代に、冷めたもので構わないから、と言ったら、「本当に、そう思っていらっしゃいますか?」と真顔で問い返されたのだ。
「わたしは、ムラタさんに美味しいって喜んでもらえるものしか、お出ししたくありません。温かいものがお好きなら、そうおっしゃってください。わたし、がんばりますから」
結局、彼女の好意に甘えて、今に至る。そういう意味で、この世界の基準で言えば、実はかなり贅沢な食生活を送っている。
聞いた話だと、朝食というのは基本的に夕食の残り物で、さらに言うと燃料代を節約するために朝食は冷めたものを食べる、というのが、わりと多いようだ。
朝っぱらから煙突に煙、という家は、あまり多くないのである。
マレットさんの家の場合だと、昨夜のスープを温め直すために火は起こしても、朝からパンを焼くようなことはないそうで、朝はカチカチに乾燥したパンをスープに浸して食べるのが普通らしい。
俺が泊まった時は、客である俺をもてなすために、朝から温かいものを作って振舞ったのだそうだ。
『お客さんが来るとおかずが増えるから、それだけはあんたに感謝しとくよ』
だいぶ前にハマーが笑いながら言っていたのを思い出す。あの温かい朝食も、俺がいてこそだったんだろう。
うちで温かい食事を毎回食べられるのは、リトリィの努力と、そして何よりナリクァンさんが下さった莫大な報酬のおかげだ。今後もきちんと仕事を得たうえで金銭感覚を引き締めていかないと、いずれ破綻するだろう。
――それはともかくとして、三マルカもの報酬を銀貨で示された俺は、その過分な評価に困惑するしかなかった。予算を上回ってしまった上に、この報酬。多過ぎだ、受け取れないと訴えたが、笑顔で押し切られた。
「私の思い出には、それだけの価値があるのですよ。よくやってくださいました」
報酬を受け取るのは、俺だけじゃない。
これまで、職人一人一人に日当を支払ってきたのだし、マレットさんにはまた別に報酬があったはず。だから今回の工事に当たって、ゴーティアスさんの金銭的負担は、相当なものになったはずだ。
それでも、俺に、これだけの額を支払おうとする。
「これからも、なにかあれば、よろしくお願い致しますね?」
……俺への、満足と期待への額なんだ。
これが、俺という人間の、価値。
日本では月給だったため、数字としては意識してこなかった、顧客から俺への満足度、今後への期待値。それが、こうして、直接示される。
受け取りつつも、空恐ろしい思いすらあった。日本では、契約が取れても取れなくても、毎月、最低限の収入は保証されていた。
今後は、こういう形になるんだ。俺の営業力が、そのまま生活に直撃する世界。
同時に、改めて家を建てる重さを実感する。
日本にいたころは、「たった」二千万すらも家にカネをかけられない人々が、木村設計事務所の顧客だった。
日本最後の顧客だった仁天堂さん夫妻に至っては、一千四百万。
一生の買い物にすら、
なんという思い上がりだったのだろう!!
リトリィたちは、市場で、ゴーティアスさんに返すお礼の品について、ああでもない、こうでもないと、実に楽しそうに見て回っている。
そんな二人の後について歩きながら、俺は、自分自身の思い違いについて考えを巡らせ続けていた。
大商会の元会長たるナリクァンさんや、騎士階級の夫の妻だったゴーティアスさんたちを基準にしてはだめだ。
この門前市場ですれ違う人々、その服装は、城内街の人たちとは明らかに違う。
すすけた服、よれた布地、擦り切れた膝小僧。
日雇いの仕事で半日働いて数食分の報酬、それで満足する世界に生きる人々、そんな人たちこそが普通なのだ。
それで、数千万を貯める? あるいは、三十年間仕事を続けて、数千万円稼ぐ前提で借金する?
――ありえない!
同時に、以前、ハマーが俺に言ったことの意味がまざまざとよみがえってくる。
『都会じゃ、設計だけで食っていけるんですか? うらやましいなあ。一軒二軒建てるだけで一年食っていけるなんて』
『だって家を建てるなんて仕事、一年間でそんなにあるわけ、ないじゃないですか』
『家の図面を引くだけのお仕事だけで食べていけるんでしょ? どこかのお貴族様のお抱えだったりするんですか?』
あれは、揶揄でも何でもなかったのだ。
自分自身でも分かっていたじゃないか。
家を建てるのは一生の買い物だと。
それだって、そうそうできるわけではないのだ。
ゆえに、新築の家を建てる仕事なんてものが、そう簡単に目の前に転がってくるわけがない。
あの、正直言って腹の立つ男――リファルが今回、俺の現場で日雇い大工をやっていたのは、小遣い稼ぎのためなんかじゃなかったのだ。
彼の生活のために必要だったからだ。
……俺という人間は、なんて、傲慢な存在だったんだ。
「……さん、ムラタさん」
自分を呼ぶ声に気づいて、顔を上げる。
「ムラタさん、大丈夫ですか? おかげんが悪いんですか?」
――リトリィだった。
俺を見つめる瞳が、揺れている。
「……ああ、なんでもない。ちょっと、考え事をしていて」
「お悩みでしたら、お聞かせください。お役に立てなかったとしても、ムラタさんのお悩みは、受け止めたいんです」
リトリィの言葉に、俺は慌てて首を振る。
「い、いや、本当に何でもないことで――」
「うそです。ムラタさんがそうおっしゃるときは、たいてい、なにかお悩みですから」
実に全くストレートに打ち返してくる。俺、彼女の前に立つと何もかも見透かされるようになってしまってるじゃないか。
いつの間に俺は、こんなにも彼女に、何もかも握られてしまったのだろう!
結局、市場の外れのベンチに座って、洗いざらい吐かされた。
情けないと言いたくば言え。
リトリィの淡々とした質問と、マイセルの共感的な頷きと、そしてリトリィのふかふかな――窒息しそうなほどの抱擁に抗える男が、何人いるっていうんだ!
「それで、ムラタさんはどうするつもりですか?」
「……どうって――どうって言われても、な……」
「だったら、悩んだって仕方ないじゃないですか。とりあえず、どうにかする当てが、今のところ思いつかないんでしょ?」
ぐう……。ま、マイセル、もう少し、柔らかく包んだ物言いができませんか?
「解決のためにならいくら悩んでもいいが、そうでないなら酒でも飲むかおいしいものを食べて寝るのが一番――お父さんの信条の一つです」
あー、うん。マレットさんのお言葉ね? ものすっごく納得したよ今。いかにも言いそうだ。
「でも、マイセルちゃんの言う通りですよ? ムラタさんがお悩みになっていることは、もし変えたいと思われるのでしたら、これから考えていけばいいことではありませんか?」
「……それで、本当にいいんだろうか?」
「だって、ムラタさんのおかげで幸せになれているのですから、わたしは、ムラタさんのすべてが間違っているとはとても思えません」
そう言って、小首をかしげるリトリィ。マイセルも同意してみせる。
「そうですよ! 私たち、いま、とっても幸せです! ゴーティアスさんだって、ムラタさんのお仕事ぶりがとっても嬉しかったから、あんなにも報酬をくださったんですよ!」
改めてそう言われると、なんだかむずかゆい。
俺が幸せにした、だなんて。至らぬところばかりの、この俺が。
「どうしても足らないとおっしゃるなら、そのぶんはわたしたちが補って差し上げますから」
リトリィの言葉に、苦笑するしかない。
俺が今まで、一度だって完璧だったことがあるだろうか。
俺はいつも、誰かに補われてばっかりだ。
――でも、それでいいと言ってくれるひとたちが、それでいいと支えてくれるひとたちが、俺の側にいてくれている。
じゃあ、迷っている暇なんかない。
できることに目を向けて邁進する。
俺という人間の、その価値は、そのあとで誰かがつけてくれるはずだ。
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