第322話:思い出は、また
「明日は、いよいよ引き渡し、ですね」
もうすぐ中天に差し掛かる青い月を見上げながら、マイセルが感慨深げに言った。
この家を作る時には、マイセルは釘打ち要員として参加しただけで、彼女が直接何かを作ったりしたわけではない。もちろん、家の組み立てに参加したのは間違いないのだが、大工の技能を直接使ったわけではないのだ。
けれど、今回のゴーティアスさんの屋敷のリフォームには、庭のテラスの補修、そして壁の一部が、彼女による
以前、彼女の兄のハマーが言っていた通り、たしかにマイセルのカンナがけの技術は相当なものだった。そのカンナくずのあまりの薄さと長さ、削った面のなめらかさに、その道何十年かの
そして、その技能を発揮したのは、今回の現場が初めてなのだ。それだけに、彼女も今の現場が終わることに、思いがいろいろとわきおこるのだろう。
「ムラタさん、寂しくないですか?」
微笑むマイセルに、俺は正直に答える。
「寂しさはあるが、長引かせてしまうと、それだけゴーティアスさんの負担になる。ただでさえあの方には、俺自身のケガのことも含めて負担をかけてるんだ。これ以上、工期を延ばすわけにはいかないだろ」
今回の件では、俺はもう、報酬を受け取らないと決めている。
ほかの職人の分は別だが、俺に関してはもう、むしろ俺が支払わなきゃならないくらいに、過分の恩を受けているのだから。
「それはだめですよ。ちゃんとはたらいた分は受け取らないと。職人のお仕事が、軽く見られてしまいます」
リトリィが、体を起こして抗議した。
「……それは確かにそうだけど、でも俺の方がよっぽど世話になったからな」
「だったら、それはそれでお礼としてお渡しすればいいでしょ? ムラタさん、ひとがいいのは私、うれしいですけど、お仕事はお仕事、個人的な恩は恩として、ちゃんとけじめをつけなきゃだめですよ」
マイセルにもぴしゃりと釘を刺されてしまった。
それはそれ、これはこれ。ちゃんと切り分けないといけない――木村設計事務所の所長からも、よく言われたことだ。
マイセルも、そのあたりの切り分けをきちんと判断できるというわけか。もしかすると、ハマーが大工としてなら、マイセルはその補佐として躾けられてきたのかもしれない。
単に俺が、私情を持ち込みすぎなだけなんだろうけどな。
「……そうか。受け取ったあとで、こちらからお礼を返せばいいんだな」
「そうですよ。それが『お互い様』ですから。ちゃんといち職人として報酬はもらったうえで、私たちからまた、お礼に行きましょう?」
「お互い様――そうか、そうだな」
「マイセルちゃんの言うとおりですよ? わたしたちは、大奥様、奥様のお幸せのためにお仕事をしたんです。胸を張って、いただきましょう。そのうえで、ムラタさんの命をたすけて、わたしたちを幸せにしてくださったお礼を、お返ししましょう」
リトリィに言われて、たしかにそうだ、と納得する。
なにか不備があって、そのお詫びとして施工費用を差っ引く、というならともかく、こちらの仕事にミスはないのだ。
お互いに、これまでの礼を交換し、そしてこれからの幸せを祈り合う――そんな返礼ができたらいいんだ。
「……ありがとう、マイセル、リトリィ」
そっと二人の体を抱きしめる。
嬉しそうに抱きついてくるマイセルと、ほっとしたように俺の肩を抱いてくれるリトリィ。
また、くだらないことに悩んでしまっていた。
リトリィの言うとおりだ、俺の仕事は、家を通して関わる人を、幸せにすること。
だが、その前に――他人を幸せにする前に、まず俺の身内を幸せにしなきゃ、な。仕事をやり切った達成感を、報酬を得る満足感をマイセルに味わわせ、今回の仕事を次につなぐのだ。
「おつかれさまでした、みなさん」
最後の日当を受け取った者たちが、門を出てゆく。みな、晴れやかな表情だ。
多い時には十人近くの人間が作業していたこの現場も、今日は三人。いずれも、最後の仕上げを担当した熟練工たちだ。また、肩を並べて仕事ができたらと思う。
「……さて、いままでおつかれさまでした。あなた方にお願いして、本当によかったわ」
マレットさんと俺に、順に礼を述べるゴーティアスさんに、俺たちも礼を述べる。
「いえ、こちらこそいい経験をさせていただきました。家を――思い出をどこまでも大切にする、その想いを学ばせていただきました。ありがとうございました」
家は、その家で暮らしたすべてのひとの、思い出が染みついている。
家と共にひとは生き、そして、死んでいく。
ひとは、家があってこそ生きていけるのだ。
そこで生きた記憶は、家と共に残り続ける。
たとえ住む人がいなくなっても、家がある限り、そこに暮らしたひとの記憶は、留められるのだ。
ゴーティアスさんの旦那さんが、妻への愛を、その熱情を、壁に残していたように。
今日、新しい寝室となった部屋の、保護のための覆いを取り除き、ゴーティアスさんに引き渡したとき。
彼女は、ひどく、驚いていた。
そりゃそうだ。俺の持ち出しによる、内装屋の渾身の出来。
可能な限り再現した、二階の旧寝室の部屋模様。
シヴィーさんと一緒になって、部屋のあちこちを見て回ったゴーティアスさんは、そっと、ベッドに体を横たえ――そして、飛び起きた。
何かを見つけたように、両手を差し伸べるように、壁に歩み寄る。
ベッドで横になった、そのちょうど視線の先に当たる場所。
ひざまずき、その壁に指を這わせる。
マイセルが気を利かせて虫眼鏡を渡すと、震える指でそれを受け取り、そして、壁をなぞるように――食い入るように見つめていたゴーティアスさん。
その目から、はらはらと、雫がこぼれ始める。
ゴーティアスさんの視線の先には、短い言葉が刻まれている。
その言葉を、完全な状態で保持したまま、一階に寝室を移動する――そのために、今回の工事はあったのだ。
『
これから先、何度でも、レテュンレイベのベッドに客を招こう』
あの詩だ。
旦那さんが、ゴーティアスさんに贈った詩。
漆喰の壁に彫り込まれた、熱烈なラブレター。
漆喰職人が、細心の注意を払って汚れを落とした壁。
難しかったとは思うが、あの文字には
機会があれば、またぜひ一緒に仕事をしたい、素晴らしい職人だった。
――ものすごく気難しい人ではあったけれど。
「……ああ、あのひとの字だわ……。なかば、あきらめていたというのに……」
ゴーティアスさんとシヴィーさんは、互いに抱き合い、涙にくれる。
仕事を完遂することができた。
喜んでもらえた。
――ああ、これこそ、この仕事を続ける、一番の理由だ。
「……正直に申し上げますと、天井まで二階の寝室を再現されるとは思っていませんでしたわ」
カップを傾けながら、ゴーティアスさんが笑う。
実は予定になかった工事だ。内装屋に俺が頼んだ。サプライズの一つとして。
「ご満足いただけたら、何よりですが」
俺の言葉に、ゴーティアスさんは大きくうなずいた。
「もちろんですとも。それに、あの壁――」
言いかけて、ゴーティアスさんは口をつぐんだ。
だが、言いたいことは分かる。俺も、小さくうなずくとカップに口をつけた。
このお茶は、マイセルが淹れてくれた。正確には、リトリィが分量をアドバイスし、その通りにマイセルが淹れたものだ。うん、美味しい。
「本当に、これで、おしまいなのですね」
「ええ、ようやくお引き渡しできて、私も嬉しいです」
俺の言葉に、ゴーティアスさんもシヴィーさんも、すこし、寂しそうな笑みを浮かべる。
「今日までにぎやかだったお家も、また、静かになりますね……」
ゴーティアスさんが、庭の方を見る。
あの、修復されたテラス。
「息子がこしらえてくれたあの露台ですけれど……もう、使う人は……」
「お友達をお呼びすればいいんですよ!」
マイセルが、にこにこと口をはさんだ。
「せっかく直ったんですし、お友達を読んで、楽しいお茶会を開けばいいんです! 私たちの披露宴のときみたいに、楽しいお茶会を!」
「お友達……?」
「そうですよ!」
立ち上がったマイセルが、ゴーティアスさんの手を引く。
「お、おい、マイセル……!」
慌てて無礼の無いように声をかけようとするが、マイセルは止まらない。
「大奥様にも奥様にも、お友達はおいででしょう? 娘さん夫妻だって、お孫さん連れで呼べばいいんですよ! この思い出の家に!」
「思い出の、家に……?」
マイセルはゴーティアスさんを引っ張って外に出ていく。俺も、リトリィも、シヴィーさんも、そしてマレットさんも、しばらくお互いに見合っこしてしまい――慌てて外に出る。
修繕したてのテラスは、太陽に照らされてきらきらと輝いている。その板の何枚かは、確実にマイセルの手でカンナがけをされたものだ。
そのテラスを踏みしめながら、マイセルがくるくると舞うように。
「ここは、息子さんが作ってくれた思い出の場所なんでしょう? でも、昔の思い出を偲ぶだけにしておくなんて、もったいないです! こんなに素敵なお庭なのに! だから――」
マイセルは、ゴーティアスさんの手を取った。
「大奥様! いっぱいいっぱい、お友達を呼びましょう? 思い出を振り返るのも楽しいですけど、それだけじゃ寂しいです。思い出は――」
ふわりと、ふたりで、身をひるがえす。
「――また、作ればいいですから!」
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