第347話:共に手を携えて

 朝から、リトリィがお腹を抱えてうんうん唸っている隣で、沸かしてきた湯を湯たんぽに入れている俺。


 今回はだいぶ遅めに月経が来たこともあって、「もしかしたら今度こそ?」と思ってしまっていただけに、その悲嘆っぷりも、聞いていてとてもつらい。


「マイセル、お茶をお願いできないか?」


 うなずいて寝室を出て行くマイセルをねぎらうと、リトリィの腰をさすりながら、湯たんぽを抱かせる。

 涙目の彼女の頬にキスをして、ゆっくり養生するようにと微笑むと、リトリィはまた言うのだ、「ごめんなさい」と。


 月経がくる数日前からだんだん体調の不調というのが来る、ということを知ったのは、結婚してからだ。月経というのは、出血するときから痛みが始まると思い込んでいた。なにせリトリィは、月経が来るまで全く変わらぬ態度を示していたのだから。


 しかしマイセルが月経数日前から体調を崩すことを知り、実はリトリィもそうだったと知って驚いたのだ。もうすぐ二十八歳になるというのに、俺はそんなことも知らなかった。世の女性って、本当に大変だ。


 今回、月経がかなり遅れていただけあって、リトリィも口には出していなかったものの、妊娠できたものと期待していたらしい。だからこそ、余計に嘆き悲しむ様子が、見ていて本当に胸に刺さる。なんとかその腕に子供を抱かせてやりたいのに。


「……あなた、ごめんなさい」


 その言葉。その言葉が本当につらい。彼女はまたしても妊娠しなかったことを、自分の落ち度だと考えている。それがつらいのだ。


「……だって……だって、わたし、あなたの仔、また――」


 その、自身への呪詛をまき散らそうとする唇をふさぐ。最悪、子供ができなくたって、愛する人と一緒に暮らせる喜びはなにものにも代えがたいものとして、確かに存在するというのに。


「リトリィ、俺の故郷の言葉で、『言霊ことだま』ってのがあってな? いい言葉は自分を奮い立たせて、悪い言葉は自分に悪い影響を与えるって教えなんだけど……ええと、自分で自分を否定しないでくれ。余計つらくなるだろう? それに俺は君を愛してるんだ。俺が愛してる君を君自身に否定されると、俺も悲しくなる」

「でも……でも……」


 その時、マイセルがティーセットを持ってきてくれた。


「はいはい、お姉さま! 気がふさぐときにはこれですよ! ちゃんと養生してお腹をあっためて、次の機会を待ちましょう?」


 そう言って、お茶を入れる。

 甘い香りのお茶だ。マイセルによると、気分を落ち着かせる効能のある香草ハーブなのだそうだ。


 ハーブティーというと、俺はミントティーとかジャスミンティーとか、癖のあるものしか知らなかった。だからこのふんわりと甘い香りがするお茶は、なかなかのお気に入りだった。味も、渋みがほとんどなく、むしろほんのり甘みを感じる気がする。


 一息ついたリトリィが、思い出したように身を起こした。


「……あっ、朝餉あさげの支度をしないと……」

「お姉さま、いつも言ってますけど、二日目までは私がしますから。無理しないでくださいってば」

「でも、でも……」

「でもじゃないですよ。私たちは三人で一つの夫婦、辛いときはお互いさまです。お姉さまはムラタさんとイチャイチャしててください。そういう約束でしょ?」


 生理が重い二日目までは、家事のメインをもう片方が行う、というのは、三人で決めた約束事だ。もちろん、マイセルにも適用される。


「お姉さまにイチャイチャしてもらわないと、私の時に、私がムラタさんとイチャイチャできなくなっちゃうじゃないですか。朝食ができるまで、ちゃんとイチャイチャしててくださいね」


 冗談ぽく笑うと、マイセルは寝室を出てゆく。


「……リトリィ。ああやって言ってくれてるし、ゆっくりさせてもらおう?」


 そう言って、彼女の肩を抱く。しばらく「でも……」が続いていたが、やがてためらいながら身を寄せてきた彼女の体を抱くようにして、一緒に体を横たえた。

 お腹に抱える湯たんぽに、一緒に手を添える。


「大丈夫。ペリシャさんだって、二十歳を過ぎてからもお子さんを産んでるんだ。大丈夫」


 大丈夫、を、何度も繰り返す。リトリィは、涙をこぼしながらも、何度も頷いた。

 リトリィはただ体の不調というだけでなく、妊娠できなかったことに対する罪悪感――感じる必要のないとがを、自身に科して苦しんでいる。

 力なくしっぽを俺に絡めてくるあたりに、彼女の心細さを感じる。


 今日明日はもう、仕事にならない――いや、しない。そう割り切った。

 これが日本なら「奥さんの生理痛くらいで仕事を休むなんて」とフルボッコだっただろう。だが、愛する妻が心の痛みを訴えているときに、それをほったらかして仕事をするなんて、それこそ馬鹿げている。


 ――そう思えるのは、獣人族ベスティリングという、自分とはすこしだけ違う種族を妻に迎えたからこそだろうか。


 そんな、不幸をタネにした優越感もどきを覚えた自分に、ぞっとする。

 日本だって同じじゃないか。不妊治療中の女性は、皆こんな感じだったんじゃなかろうか――リトリィの苦しむさまを見ていると、現代日本でも同じような悩みを抱えて生きている女性は、少なからずいたんだろうと想像できる。


 結婚ってのは、結局、自分とは少し違った特性を持っている相手と寄り添い合って生きることなんだ。――リトリィが苦しんでいる今は、彼女にいつも世話になっている俺が寄り添う。それだけなのだ。


 そう、結婚はゴールなんかなじゃない。やはりスタートラインに過ぎないのだ。

 なにせ死が夫婦を分かつそのときまでの長い道のりの、その最初の地点でしかないのだから。それまで、契約を結んだ二人が、共に力を合わせて、人生を歩んでいく。


 悩むこともあるだろうし苦しむこともあるだろう。つまずき、自信を失うことだってあるはずだ。そんな時、相方が動けなくなったから共に立ち行かなくなった、では、結婚した意味がない。


 これまでの道のりを振り返り、互いに認め合い、励まし合い、手を携えて、共に乗り越えていくことが大切なんだ。

 いずれ相方を失ったとしても、それまでに共有してきた志や思い出を糧にして、歩みを進めてゆくのだ。

 ――いずれ、自身が歩みを止める、その日まで。




「五日間、顔を合わせてないだけで随分と久しく感じるな」

「いやあ、愛しい妻たちがベッドから放してくれなくて」

「ほざけ」


 バシンと背中をどつかれたうえで、マレットさんが苦笑いを浮かべる。


「まあ、あんたからそんな柄にもない冗談が聞かれるってことは、娘が迷惑をかけたってことだな?」


 見抜かれていた。

 マレットさんも、俺と同じく奥さんを二人もつ御仁だ。特にマイセルの母親であるクラムさんは、体が弱い。きっと、月経も重めなんだろう。


 マイセルにも月経が来た。

 今回のは彼女にとって、妙に重かったようだ。リトリィの二日目が明けたその朝に、腹を抱えてうなっていた。


「女ってのは、コレがあるからな。人を使う仕事で上が倒れてちゃ、話にならねえ。だから大工にはしたくなかったんだ」

「逆ですよ」


 俺は、やんわりとマレットさんに口をはさむ。


「逆?」

「一人が抜けたくらいで仕事が立ち行かなくなる、そんな体制が問題なんです」

「なに言ってんだ、カシラがいなきゃ現場仕事はどうにもならんだろう」

「思い出してくださいよ。俺が今住んでいる小屋は、俺がずっと張り付いていないとできませんでしたか? ゴーティアス婦人の屋敷の改修は、俺がいなければすすみませんでしたか?」


 もちろん、仕事を進めるうえで欠かすことのできないキーパーソンというのはいるだろう。けれど、その一人が動けなくなったら空中分解してしまうようなプロジェクトでは、チームを組む意味がない。


「俺は計画の全てをマレットさんと共有して、作業に当たる大工さんとも連携を密にして、俺がいない間も作業を進めてくださっていましたよね?」

「そりゃ、俺たちは大工だ。現場に立てば何をやればいいかくらい、分かってるさ」

「でも、俺はどちらの現場でも、マレットさんたちにとって初めての工法や作業を取り入れていたはずですが?」

「む……」


 マレットさんは、ばりばりと頭をかく。


「そりゃ……あんたが、何をやるべきかを全部、俺たちに指示していたからな」

「ええ、その通りです。――お分かりいただけますか?」


 微笑んでみせた俺に、マレットさんは居心地悪そうに、また、ばりばりと頭をかいた。


「……要は、アレだな? 女がカシラで、月のもので動けなくなっても、ちゃんと現場で何をすりゃいいか共有しておけば、問題なく現場をすすめられる――というか、カシラがいねえから進められねえという言い訳はさせない、と言いたいんだな?」

「ちゃんと後半、俺の言いたかった意図まで見抜いていただけるのは、さすが棟梁ですね」


 あえて、少年のようにニッと笑ってみせる。

 マレットさんは舌打ちをしてみせたが、不愉快そうには見えなかった。むしろ俺に向かって、不敵に笑ってみせた。


「変なところで花を持たせようとするな。それより、あんたとこういう話をするたびに自分の見識が狭かったことを指摘されるみたいで、面白くねえぜ」

「いえ、半分以上、自分自身に言い聞かせてるようなものですから」


 そうだ。

 マイセルが――女性が現場に立つとなれば、体調の不良で出られない日も当然出てくる。なにせこの世界には、日本にあったような高機能吸収素材を使った生理用品なんてない。当て布を頻繁に取り換える必要がある。

 そんな時でも、最低限の指示で動ける体制づくりが必要だ。

 そしてそれは、女性だけにかぎったことじゃない。


 サグラダ・ファミリア。

 日本の彫刻家である外尾そとお悦郎えつろう氏が現在、主任彫刻家として壁面などの彫刻に関する全体指揮の栄誉にあずかっている、世界的に有名な教会だ。


 曲線を多用したその全貌は、設計者であるアントニー・ガウディの頭の中にあったと言われていて、彼の亡きあと、その設計図も、模型も、彼の弟子たちが残した資料も、スペイン内戦によって大半が失われてしまった。


 けれど、わずかな資料、当時の大工達の口伝などといった手がかりから、ガウディの意図を読み取るなどして、現在、急ピッチで建築が進んでいる。

 ガウディを失っても、その設計図が失われても、百年を超えてなおガウディの意志を、意図を受け継ぎ、建築は進んでいるのだ。

 ――いつか多くの人々の想いが結実し、完成する、その日まで。


 それと同じだ。

 誰かが倒れたらそれで進まないプロジェクトでは意味がない。


 ひとりひとりがかけがえのない存在であると同時に、誰かが動けなくなっても、互いにカバーし合って、皆が共に手を携えて一つの仕事を成し遂げる、そんな現場を作っていかなきゃならない。

 そのとき、マイセルは縦横無尽に働くことができるようになるはずだ。

 家庭を守る女性としても、一級の大工としても。

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