第275話:いつかくる我が子のために

 マイセルが主となって作ったという夕食は、リトリィのシンプルな味付けとはまた違った、色々凝った料理が多かった。

 どうも、ゴーティアスさんたちが張り切って色々な手ほどきをしたらしい。


「これは、大奥様に教えていただいたもので、これは、奥様から!」


 意気揚々と教えてくれるのだ、一品一品。新しいことを覚えました、褒めてくださいと言わんばかりに。もしマイセルも犬属人ドーグリングだったら、きっと、ちぎれんばかりにしっぽを振り回しながらの説明だったことだろう。


 一緒に食べていても、自分で作ったものにいちいち驚きながら食べているのが可愛らしい。


「だって、こんなにおいしくなるなんて思ってませんでしたもん!」

「すりつぶす前に一度蒸すことで、より香り立つようになりますからね。旦那さまに美味しいお料理を食べていただくために、ひと手間を忘れないことですよ?」

「はい大奥様!」


 この、いちいち笑顔で元気に返事をする快活さが、おそらくゴーティアスさんたちの心をくすぐるんだろうな。生真面目で礼儀正しく、言われたことを正確にやってみせるリトリィとは、また違った教えがいがあるのだろう。




 二人で仲良く後片付けをしている後ろ姿を見ながら、食後のお茶をいただいていた俺に、ゴーティアスさんが聞いてきた。例の工事の件について。


「お怪我のほうも良くなったようですし、いつごろから始めますか?」

「そうですね……。マレットさんの話ですと、声をかければいつでも動けるようにしてくださっているそうですが」

「頼みましたよ。特に、例の壁の扱いは」


 そう言って、静かにカップを傾ける。


「……失礼ですが、あの壁の保存は、必要なのですか? おそらく、あの壁以上に美しく塗ることができると、マレットさんから聞いておりますが」

「あれがいいのです。あの壁でなければならないんですよ」


 知らん顔をして聞いてみたが、あの壁がいい、以外に理由は語ってくれなかった。

 いや、もう理由はおおよそ、分かってるけどな! 今は天国の旦那さんが書いた、情熱的な愛の詩が残っているからだろう? やっぱりゴーティアスさん、乙女だ。




 朝から、また大騒動だった。


 リトリィが、トイレにこもったまま、出てこない。

 漏れ聞こえてくる号泣に、ただならない事態だというのは分かるのだが。


 結局、見かねたシヴィーさんが中に入り、そして、なだめられながら出てきた。

 原因は、遅れていた月のものがきたことだった。


「きっと、昨日愛していただけたことで、お腹が思い出したのですよ」


 シヴィーさんはそう言ってリトリィをなだめていたが、リトリィはずっと泣いていた。

 ああ、そうだった。前回も。

 妊娠できていなかった、それを嘆いていたのだ。


 実は、それを聞いてショックを受けたのは、俺もだ。

 己の、黒い願望に気づいてしまって。


 ――これで、少なくとも、必要がなくなった――


 一瞬でもそう考えてしまった自分を、自覚してしまったのである。

 苦しむ彼女を見て、そのような発想が

 結局、俺は彼女の苦しみを理解するどころか、まず自分のことしか考えられなかった――自分の独占欲、身勝手さに気づき、自身が最低のクズ野郎だったことを理解して、衝撃を受けたのだ。


 あの、一緒に名前を考えようと、泣き明かしたあの夜を経て、なお。




 こういったときこそ側に寄り添ってやるべきだと思ったのだが、リトリィにはゴーティアスさんがついて、俺はシヴィーさんに、別室に呼ばれた。


「リトリィさん、月のものが遅れたことはない、そうおっしゃったそうですね」

「はあ……。たしか、そんなようなことを……」


 開口一番、生理のサイクルについての確認をされて驚く。そんなオープンに?

 ところが、シヴィーさんの話は、そんなレベルではなかった。


「私たち獣人族ベスティリングは、基本的には月の運びで月のものが来るものですから、よほど大きな怪我や病気などをして体調を崩したりしていなければ、月のものが遅れることはありません。

 けれど、子作りを始めると、それが遅れることがあるのです。特に、とつがった場合には。

 ……これが、どういうことを意味するか、分かりますか?」


 突然そんなことを言われても、思いつかない。たしかペリシャさんが、子作りを始めると生理痛が重くなるとか言っていたはずだから、そういうものなのだろうか。


 シヴィーさんは俺の答えに、どうしようもなく、果てしなく長いため息をついた。


「子作りを始める前までは規則正しく来ていた月のものが、子作りを始めたら遅れることがあるようになる――なぜそうなるのか、わたしはお医者さまではありませんから正しいかどうかは分かりませんけれど、でも、噂としてはこう言われています。

 ――私自身、身に覚えがありますので、おそらくそれが正しいと思ってはいるのですけれど」


 シヴィーさんが教えてくれたこと、それは、つまり。


「……流産、ですか」

「遅れるときは、普段の月のものよりもさらに出血量が多いですし、今回のリトリィさんは早かったですからたぶん、お気づきにはならないでしょうけれど、それなりに大きな血の塊がおりてきたりしますからね」


 ……そういえば、例の筋金入りオタクの島津が言っていたな。今さら思い出したよ。妊娠のごく初期で、うまく育たずに流れてしまうのを、化学流産とかいうんだっけ。初めて聞いた言葉だったから、自分でも調べてみたんだ。


『ファンタジーではエルフと人間とか、獣人と人間とかが子供作るよな! 実際には、人間とチンパンジーだってできないんだぜ! 遺伝子が九九パーセントおなじだっていうのにだ!』

『でもな、受精だけはできるんだ! 人間と馬でケンタウロス、になったりはしねえけど、でも、受精だけはするんだぜ!』

『受精はできるけど、そこから細胞分裂はしねえんだ。惜しいよな、もう少しなのに!』

『ま、人間同士でも、受精までは上手くいっても着床してから育たない――これを化学流産っていうんだが、よくあるらしいから、仕方ねえ話ではあるんだけどな』

『でも、受精はできるんだ! だったら発生させることも、もしかしたらできる方法があるかもしれん! というわけで俺はケモ耳美少女を生み出すために、もう一度大学に入り直す! 可能性? iPS細胞なら、ありまぁす!』


 ……一年で事務所をやめた理由がソレだったな、あいつ。今、どこで何をしているんだろうか。


 それはともかく、そうすると、リトリィは……。


「リトリィさんは、ただでさえ赤ちゃんを真剣に望んでらっしゃったようですから、月のものが遅れた理由は、知らないのなら言わない方がいいでしょうね。次を期待して、また、お励みになるとよろしいかと」




 ゴーティアスさんから許可を得て、寝室に入る。

 リトリィは、泣き腫らした目ではあったけれど、落ち着いているようだった。


「……ムラタさん。ごめんなさい、わたし、また取り乱して……」

「いや、しかたないよ。あんなに赤ちゃんを欲しがっていたんだ。……辛かったね」


 リトリィは力なく首を振った。


「マイセルちゃんもおどろかせてしまいましたし、わたし、また自分のことしか、考えていませんでした……。せっかくあなたと、いっしょうけんめい名前を考えたのにって……」


 ――名前。


 二人で、いろいろ、考えたんだ。

 で、二人で、こんな要素を贈ってあげたい、こんな恵みがあってほしいって出し合って、その中で厳選したものを、集めた名前。


 コリィスエイナ。


 個人的には颯太そうたとか、愛美めぐみとか、そんな名前を考えたりもしたんだが、やっぱりこの世界で生きるなら、この世界の流儀の名前がいい。


 俺は、何の因果か、この世界に落ちてきた。

 そして、出会う人々からたくさんの助けを得て、いま、こうして存在できている。


 特にリトリィとの出会いが、彼女のくれた愛が、俺のすべてに変化をもたらした。

 だから、生まれてくる子供にも幸せにつながる名を与えてやりたいと思った。


 世界リィス多くのエイ慈悲受ける――世界からたくさんの優しさを得る者。

 略称はコリィ。名前は「慈悲エイ」が入るため女性的なのだそうだが、男性であっても特に問題ないという。


 心理学的には、優しさに包まれて育った子供は、優しさを返せる人になるのだそうだ。ならば、世界からたくさんの優しさを受け取った子は、きっと、たくさんのひとに優しさを分け与えることができるひとになるだろう。


 そんな願いを込めた、名前。


「……いいんだ。いい名前を考えることができたんだから。いずれやってくる俺たちの子に、その名を贈ればいいんだよ」


 彼女は、泣いた。

 俺にすがり付いて、ずっと。


「がんばります……あなたといっしょに考えた名前をつけてあげられる仔を、かならず……!」

「気負わなくていいんだよ。いずれ必ず来てくれる」


 彼女の背に回した腕に、力をこめる。

 彼女は、俺との幸せを望んでくれている。

 その彼女が苦しんでいるんだ。今、俺が彼女を何とかしてやらなくて、誰がなんとかしてやるっていうんだ。


「焦る必要なんかないんだ」


 嗚咽の止まない彼女の唇をそっとふさぎ、そしてまた、抱きしめる。


「それまでいっぱい愛し合って、それで来てくれたことを、めいっぱい喜んで迎えてあげよう」

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