第515話:だんなさまは、ボクの王子さま
「ムラタ」
玄関を出た先で、リファルが振り返った。
「……その、お前、すげえヤツだな」
「なんだ急に」
首をかしげると、リファルは言いにくそうにしていたが、庭に残っていた資材に腰掛けた。
「……お前さ、メシのあと、一緒に片付け、してただろ?」
「ああ、それがどうした?」
「……いつも、ああなのか?」
「そうだな。基本的には」
「洗い物は、どうしてるんだ?」
「あれ以上はキッチンに入れてもらえないから、そこまではできてないな。水汲みくらいかな」
リファルが、長いため息をつく。
「お前、ホントに変なヤツだな」
「この世界に来て……っと! この街に来てから、よく言われるよ」
慌てて言い直す。俺が
「……オレは、男も女も同じだ、なんてお前の言うことなんか到底受け入れられねえけどよ」
リファルが、空を見上げる。今夜はいい天気だ。冴え冴えとした夜空に、煌々と月が輝いている。
「……でも、男が手伝ったら、女もそのぶん楽になって、……それで、仲が深まるってのは、よく分かったよ」
手伝ったら、じゃなくて、共に働いたら――なんだけどな。ただ、それを言うとややこしくなりそうなので、あえて言わずにおく。一切家事に関わらないという思考から比べれば、相当な進歩だしな。
「今日もメシ、ごちそうになっちまって悪かったな。嫁さんたちには、オレが美味かったって言ってたと伝えてくれ」
リファルがそう言って立ち上がるのを、俺は見送ろうとして、慌てて声を掛けた。
「ああ、そうだ。お前を家に呼んだ一番の理由を、忘れてた。ちょっと待っててくれ」
急いで家に戻ると、リトリィを拝み倒して、蓋付きの、空きの小瓶を拝借する。
中身を詰めてすぐに戻って渡すと、リファルは怪訝そうに小瓶を眺めた。
「……なんだ、これ」
「ああ、オライブの油」
固まったリファルに、俺は構わず続けた。
「ほら、コイシュナさんの手が荒れてるのが気になるって言ってただろ? それ、贈り物に渡してやれよ。パンにでもつけて食べちまうかもしれないけどさ、そこは意図を話してさ」
「……これだけでも、結構するだろう? もらえねえよ、こんなもの」
「いいからとっとけって。……じゃあな。また明日、頑張ろう」
無理に渡して送り出す。
リファルは、きまり悪そうな顔で何度も振り返りながら、それでも最後には手のひらをこちらに向けて挨拶をこちらに送り、そして路地の向こうに消えていった。
さて、これでリファルの懸念は一つ消えて、より仕事に専念できるようになるし、コイシュナさんも多少は手荒れを改善できて水仕事も多少はマシになる、と。
「いいことをするって気持ちがいいな――って、うわっ⁉」
振り返ると、そこにいたのはリノだった。
結局、昼からずっと着ていた、ドレスのままで。
ナリクァンさんのところのメイドさんたちが着せてくれた、白を基調としたドレス。リボンとフリル、レース生地を多用した、リノの愛らしさを強調する逸品。
一日着ていて少々くたびれてしまってはいたが、月明かりのもとで、昼間の愛らしさとはまた違った、神秘的な美しさを醸し出している。
今さら気づいたが、胸元のギャザー部の下――胴部分の、靴ひもを想起させるクロスされた紐が、なんとなくリトリィの花嫁衣裳を思い起こさせる。
――ああ、
「だんなさま。お客さま、帰った?」
「……あ、ああ。今、帰ったよ」
見送りに出たまま戻らないから、様子を見に来たのだろうか。
安心させるために笑顔を作ると、急に飛びついてきた。そのまま、俺のみぞおちあたりに顔を埋めるようにして、動かない。
「……リノ?」
「ボク、だんなさまのこと、大好き」
突然言われて戸惑うが、しゃがんで目の高さを合わせると、背中に腕を回して抱きしめた。
「――俺も、リノのことが大好きだよ?」
背中をさするように撫でてやる。その頭も、何度も。
今日は本当に怖い思いをさせてしまった。あまりにもいろいろなことが起こりすぎた一日だった。
せめて、これくらいは甘えさせてやらないと――そう思ったときだった。
「……ボクね? だんなさまが好き。大好き。今日、すっごく分かったの」
「今までも、いっぱい言ってくれていたじゃないか。それとは違うのか?」
「孤児院のお兄ちゃんたちに体、触られたとき、ボク、すっごく嫌だった」
――ああ! 嫌なことを思い出す。あの手、指――体を這い回ったあの感触!
シュラウト、ミュールマン! あいつら、絶対に許さないからな!
「ボク、そのとき気が付いたの。ボク、だんなさまだから平気だったんだって」
「……なにがだ?」
「裸を見られるのも、裸を触られるのも」
そうか、俺だからか。
可愛いことを言ってくれる……ってちょっと待て。前者はともかく後者はなんだ!
「だって、毎朝水浴びしたあと、体ふいて、抱っこしてくれるもん」
――まあ、たしかに、裸を触る……そういう意味では間違っちゃいない。間違っちゃいないが、自身の名誉のためにあえて言おう、間違っていると。
「んう? ボクね、だんなさまになら、何されてもうれしいの。だんなさま、ボクのこと大切にしてくれてるって、分かってるから。怒られて、怖いって思っても、だんなさまだからって」
「……そう、か」
「ボク、初めて、男のひとが怖いって思ったの。すごく、すごく怖かった」
……そうだろうな。
俺だって、リノの目を通して見たあの光景――少年たちが下衆な欲望を丸出しにして手を伸ばしてきたあの姿。あれは全員ぶん殴りたいと思う光景だったが、同時に恐怖を覚えたのも確かだ。
まして、囮であり、いざとなったら俺が助けに入ると分かっていても、手出しができない状況にあったリノだ。その恐怖は相当なものだったに違いない。
「……悪かったな、本当に」
よく見たら、彼女の服の胸のギャザーに、ほつれがあった。ナリクァン夫人の手掛けた服に、そんなものが最初からあったなんて思えない。おそらく、少年たちに襲われたときに傷んだのだろう。
――ああ、俺のせいで。もっと早く突入しておけば。
「んう? だんなさま、悪くないよ? ボク、ちゃんとだんなさまに助けてもらえたもん。……えへへ、ボクね? 物語のお姫様になったみたいで、うれしかった」
こんなドレス着てるし、ホントにお姫様になった気がしたんだよ――そう笑うリノを改めて抱きしめる。リノも抱きついてきて頬にキスをすると、盛んに頬ずりをしてきた。
「えへへ……だんなさま、ボクの、王子さま」
リノは嬉しそうにしているが、俺は胸がずきりと痛む。
『――それって、リノさんが酷い目に遭うことが分かっていたというのに、放っておいた……つまり、彼女が酷い目に遭うように仕向けて、実際にそうなるまで待っていたってことですよね?』
『酷い目に遭わされるまで待ってから、いかにも助けに来ましたってことですからね。もしそんな状況だったのなら、リノさんも、監督さんのことを神様が遣わした騎士様みたいに思うでしょうね?』
『それって本当に、リノさんのことを思った行動だって言えるんですか?』
『僕たちを利用してリノさんを自分のものにするための狂言だったという方が、自然じゃないですか?』
シュラウトの言葉が、今になって突き刺さる。
確かに、動かざる証拠をつかむためにリノには囮になってもらった。
そのこと自体は後悔していない。あの証拠映像を突きつけるまで、シュラウトは己のやったことを認めようとしなかったのだから。
だが、シュラウトたちを利用して、リノの心を手に入れようとした――結果を見れば、確かに、そうとも言えてしまうのだ。
『えへへ……だんなさま、ボクの、王子さま』
――リノに、そう言わせてしまっているのだから。
「だんなさま、ちがうよ?」
リノが、少しだけ体を離してぶんぶんと首を振ると、またしがみついてくる。
「ボク、ずっとずっと、だんなさまのこと、大好きだもん。早くだんなさまのお嫁さんになりたいって、ずっと、ずっと、ずーっと、思ってきたから」
「……そう、だったかな」
「そうだよ? だからあのとき、ボク、だんなさまが王子さまに見えたの」
そう言って、顔をこすりつけてくる。
「だんなさまはね? 花嫁のボクを、
俺の耳の後ろあたりのにおいをかいでは、嬉しそうに、天に向けて立てたしっぽをくねらせてみせる。
「――ボク、だんなさまと一緒になれて、すっごく、すっごく、しあわせだよ?」
その愛らしさに、思わず抱きしめる腕に力を込める。
あの時――路地での出会いを思い出す。
ボロに身を包み、すさんだ言葉を使い、人のものを盗むことに何の罪悪感も持っていなかったころの彼女との、出会い。
それがどうだ。
引き取って、一緒に暮らすようになって。
朝起きて、水浴びをして、食事をして、働いて、認められる喜びを共に味わって。
こんなにも、生きることに幸せを感じてくれるようになった。
――ああ、こんなにも無垢な少女と出会えて、彼女を守ることができて、本当によかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます