第514話:コイシュナさんが気になって
「……でも、お前の言うそれで、コイシュナさんに時間ができるなら……やってみても、悪くはねえかも、しれねえな……?」
「リファル、そんなにコイシュナさんのことが気になるのかよ」
そういえば、そもそもこの話は赤ん坊の環境を改善しようとするとコイシュナさんの仕事の負担量が増えて破綻する、というところから始まっていたか。
「気になるに決まってるじゃねえか。さっきも言ったろ? あのカサカサの、あかぎれだらけの手! 美人ってわけじゃねえし胸も小さいし頼りねえ感じもするけど、頑張ってるのは分かるからさ……」
さらっと胸の大きさを挙げるリファル。そういえばコイツ、獣人を嫌ってはいてもリトリィの胸の大きさだけは最初から認めていたおっぱい星人だったか。
しかし手荒れか。水仕事をする女性にとって、なかなか切実な問題なんだよな。
「……その割には、
「そりゃ、荒れないようにしてるからな」
「荒れないように……
そう。実はうちの女性たちはこの冬、手荒れとは無縁なんだ。水仕事のあとには、オライブの実の油を塗るようにしてるから。
「……オライブの、油?」
リファルが首を傾げた。
オライブの油は、その実を搾って取る。基本的には食用で、そのまま食べ物にかけてもいいし、何かを混ぜてドレッシングにしてもいい。少しもったいないが、油揚げにだって使える。
もともと、リトリィの手も結構荒れていた。彼女は山暮らしの中で、炊事洗濯はもちろん、ハンマーを握って焼けた鉄と向き合う鍛冶仕事をしていたんだから。
彼女自身はそれについて何か言ったことは一度もなかったし、そんなリトリィの手――その厚い手の皮、堅いマメだらけの手のひらを、頑張って働いてきたリトリィの、職人としての生き様を表す尊いものだと思っていた。
ところが、リトリィをフェクトール公に拉致されたとき、奴に言われたんだ。痛ましい手だと。
俺は当然反発したし、俺が彼女の手を愛おしんでいることを知ってるからか、リトリィも堂々と反論してみせた。
だけど、やっぱり彼女の手を何とかしてやりたいって思って。
それで、日本でもおなじみのハンドクリームみたいなものはないかと考えて、それで思いついたのが、オライブの実の油を擦り込むことだったんだ。
獣脂と違ってさらさらとして香りにもクセがなく、ほんのわずかでもよくのびてべたつかず、なんなら舐めても問題ないオライブの油は、我が家の女性たちの肌によくなじんで、この冬はひびもあかぎれも防いでくれたんだ。
「……獣脂を使うってのはよく聞くけどよ、オライブの油なんて高いもの、庶民にはそんな気軽に使えねえよ」
「……え? あれ、高かったのか?」
「てめえ、それは嫌味かっ!」
そうか、俺が強硬に買い置きするように主張したアレ、そういう代物だったのか。日本にいたころのサラダ油の感覚でいたから、そんなに高くないものだと思い込んでいた。
「……お前な。豚を潰せば簡単に手に入る獣脂と違って、オライブの油は西のほうから輸入するしかねえんだから、高いに決まってるじゃねえか」
「リトリィのしなやかな指と金の毛並みを美しく保つためなら、何も惜しくない。必要経費だ」
「……お前、ホントに嫁のためなら何でも投げ出す男だな。信じられねえ」
リファルはあきれてみせると、視線を落とし、石畳の上の石を軽く蹴っ飛ばした。
「……でも、獣脂だってそう安いもんじゃねえ。指に塗るためだけには買えねえよ。そんなことに使うくらいなら、パンに塗って腹の足しにするさ」
「そうか……うん、まあ、カネがなければそうなるのかもしれないな」
「当たり前だろ、庶民のカネのなさをナメんなよ? 運だけで監督業が転がり込んできたてめぇとは違うんだよ……」
リファルが蹴った小石に向かって、馬車が走ってゆく。鉄で補強された車輪は、小石を難なく踏みつぶしていった。
「腹が立つことによ、大工としていつでも独立できる程度には技に自信のあるオレはただの職人。なのに
砕けた小石を見ながら、リファルは吐き捨てた。
「……なあ、このあとどうするんだ?」
「あ? なんだ、オレに一杯、奢るとでも言ってくれるのか?」
「それはない」
「即答かよ! ここは話の流れ的に奢れよ、どうせカネは余ってんだろ!」
「どうした、早く食えよ」
「……いや、だから……」
ひどく落ち着きなくキョロキョロするリファルに、俺は
「前に来たときも、お前、美味いって食ってただろ? 遠慮するな」
「い、いや、その……確かにそうなんだけどよ……」
「ああ、もう空か。
俺の言葉を受けて、マイセルが微笑んでリファルのマグに果実酒を注ぐ。
「悪いな、料理にも使える果実酒と違って、麦酒は常備してないんだよ」
「……いや、奢ってもらって、文句は言わねえよ……言わねえけどよ!」
料理を手づかみで食べようとして、リトリィにやんわり注意されるリノを見ながら、リファルが居心地悪そうに小声で言った。
「だから、なんでお前の家でメシって話になるんだよ!」
「いや、一杯奢れって言っただろ?」
「言ったぞ、言ったけどな?」
「居酒屋に寄ると、嫁さんたちの機嫌が悪くなるんだよ。だったらウチで奢ればいいって考えただけだ」
「そりゃお前……!」
リファルが肩をすくめてキョロキョロする。
「……ほらみろ、金色さん! 顔は笑ってるけど、あのしっぽ見ろよ! あんなにパンパンに……!」
……おお! それは気づかなかった! ナイスだリファル!
「リトリィのふかふかしっぽ、可愛いなあ! 撫でていいか?」
リトリィは驚き、少しだけためらったようだった。だが、そのパンパンに膨れたしっぽを触らせてくれた。これ幸いとばかりに、しばらくもふもふさせてもらう。
このふっかふかの感触。いつものように顔までうずめると、ひどく恥ずかしそうな顔で咎められてしまった。けれど、別に抵抗するような様子もない。
お日様のような香りも、胸の奥までしっかりと堪能する。これもいつもの通りだ。――ああ、至福。
だが、しばらく愛でていると、いつもの、ただのふわふわ状態に戻ってしまった。少しだけ残念に思うが、まあいい。
「……お前、すげぇな」
「なにがだ?」
「……客の前で、嫁さんのしっぽを普通、あそこまで弄り回すか?」
「いいだろう、おれだけの特権だぞ?」
あの美しい毛並みのしっぽは、俺にとっても自慢のしっぽだ。得意になって答えると、リファルがげんなりした様子でパンをかじる。
「……お前が今やってたアレ、人前で女の生尻を撫でまわす色情狂と同じくらいのことをやってたって、分かってるか?」
「リトリィは俺の妻だし、ここは俺の家だからいいんだよ」
「……客の目の前でか?」
「知らない仲じゃないんだし、別に構わないさ。リトリィも、今はちゃんと服、着てるしな」
何か問題か? と聞くと、リファルは盛大にため息をつきながらマグを一気にあおった。
「お前にはついていけねえよ、オレまでおかしくなりそうだ」
「うらやましいか?」
「ちげぇよ」
「結婚はいいぞ? お前もさっさといい子を見繕って結婚するんだな」
「だからコイ――いや、なんでもねえよ」
リファルは憮然とした様子で、
リトリィに促されて、俺はスープのおかわりをもらった。
――ああ、美味い。リトリィの素朴な味付けは、今じゃ俺にとっての「家庭の味」そのものだ。米や味噌汁への未練が無いと言ったら嘘になるが、リトリィの作る飯があれば、今はもう十分だ。
「なあ、ムラタ」
「なんだ? 遠慮なく飲んで食ってくれよ」
「……十分食ってるよ。それよりもだ、お前、帰り道での話、本気か?」
「ああ、本気だぞ? 使える手は使わないとな」
俺の言葉に、リファルは「オレは上手くいくとは思えねえんだが……」とつぶやく。だが、俺はそうするしかないと考えていた。
「赤ん坊の環境を整えるのは必須だと思う。でも、そのためには孤児院の連中を動かすしかないだろう? お前が言った通り、それ無しに実践しようとすればコイシュナさんの手が回らなくなって破綻し、結局は元に戻ってしまうだろうからな」
「当たり前だろ、というよりなんで気づかなかったんだ」
「なんでだろうな。やっぱりお前の言う通り、赤ん坊の世話についての知識はあっても、本当に世話をしたことがなかったからだろうな」
そう言って、クノーブの蜜絡めをナイフで切って半分にすると、そのままナイフに刺して口に放り込んだ。ピリリとした味に甘辛いソース、ほくほくとほぐれる食感が絶妙に絡み合って、美味い。
今では、リトリィの得意料理の一つになってしまった。本来、クノーブってのはすりつぶしたり刻んだりして混ぜ込むように使うもので、丸ごと一個を使った料理なんていうのは、結婚してひと月ほどまでの若夫婦くらいしか食べないものらしい。
そんな爆弾級の精力料理が得意になるほど、毎日食わされている俺。いや、分かるよ? 子供、欲しいんだよな。切実な思いで。
「……お前が言う通り、コイシュナさんに全部被さってくる今の状況、なんとかしないとな。そのためにも、孤児院の連中の動員だ。そうしないと、お前がコイシュナさんと話す時間も作れない」
「ばっ――てめぇ、急に何を言って……!」
絶句したリファルに向けて、俺は頭を下げた。
「そういう意味では、理想ばかりで足元のおぼつかない俺にしっかり警告してくれたリファルから、今日は大事なことを教わった。ありがとう」
なぜかうろたえたリファルは、ひたすら食い物を口に押し込み、黙ってしまった。
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