第378話:誇る
「遅い!」
小脇に抱えられた状態で、俺は空中を飛び回っているように感じられた。
というか、ぶん回されていた。
実際にガロウは、壁という壁を跳ねてまわり、なかなか地面に着地しなかったように思う。少なくとも、自由落下の滞空時間の長さよりずっと長かったはずだ。
ガロウが壁を蹴る度に、俺を脇に抱える彼の腕が腹に食い込んだ。俺は何回、吐きそうになっただろう。地面に放り投げられた時の、あの動かない地面のありがたさを這いつくばって実感したものだ。
手ぬぐいを手に取って顔を拭くと、暑いわけでもないのに汗をかいていたことに気づいて、よっぽど怖かったのだと今さらになって気づく。
「もうおしまいか?」
「は……、早く射よ! 奴は今、動きが止まっているぞ!」
クソ貴族がビュンビュンと剣をしならせて叫ぶが、後ろの騎士達は立てたクロスボウの後部にある、自転車のペダルのようなものを必死にまわしていた。どう見ても、まだ次の矢を装填する準備ができていない。
なるほど、クロスボウは次の矢を撃つまでに時間がかかる、という話は本当だったのか。
「なら――俺から行くぜ」
ガロウは背を丸めると、姿勢を低く身構えた。
――ああ、あれだ。
あのさっきも見た突進!
「アオォォォォォォォオオオオン!!」
枯草色の毛並みが、まるで
地面を蹴り、壁を蹴り、なんなら敵を蹴り倒して足場にして!
「狼嵐……!」
いまさらだが、冒険者がガロウを恐れていた理由がよくわかる。
でたらめだ、でたらめな強さだ。
しかも彼は今、殺傷力のある武器を持っていないのだ!
ただひたすら、ショルダータックルをぶちかましているだけなのである。
これでもし剣や槍のようなものを持っていたりしたら、一体どれほどの殺傷力を持つのだろうか――考えるだに恐ろしい。
「何をしているお前たち! 相手はたかが一人だぞ!」
ひとり、またひとりと倒れてゆく中、貴族野郎が、剣を振り回しながら叫ぶ。
「薙ぎ払え! どうした、それでもこの国で最も誇り高き
その言葉が終わらないうちに、彼の足元に、胸甲をへしゃげさせた騎士が吹き飛ばされてきた。
「
真正面に降り立ったガロウの言葉に、貴族野郎が狼狽して周りを見回す。
滑稽だった、そうとしか言いようがなかった。
もはや、貴族野郎を囲むように守っている三人の騎士以外に、立っている者はいなかったのだ
貴族野郎の正面、ガロウと真正面から対峙していた騎士が、クロスボウを捨てた。
「……オルガ、シューマイン。これまでだ、仕掛けるぞ」
名を呼ばれたらしい二人の騎士も、クロスボウをその場に捨てる。一人は、クソ貴族とは違った厚手の直刀を背中から抜き放ち、もう一人はトゲ付きの鉄球がぶら下がる棍棒――
「ま、待てガイアン! お前たちは私の――」
「誇り高き
ガイアンと呼ばれた騎士が、兜のバイザーを跳ね上げる。髭面をさらしたその男は、剣をまっすぐガロウに向けた。
「
「ぐだぐだしゃべっている間に、来な?」
ガロウが再び脚を開き、腰を落とす。
「……ヤツは想像以上に素早い。一太刀が全てだ」
そう言って
「――行くぞ! 『激流陣』を組め!」
「おう!」
「やっと、来るのか」
ガロウの挑発めいた言葉を聞き流すように、髭面の男を先頭にして三人の騎士が襲い掛かる!
ガロウは一歩も動かない。
先頭の髭面が剣を振り下ろしてきたところを、ガロウは上半身だけ身をよじらせると、斬りかかってきた腕をつかんだ。その勢いを殺さぬように受け流し、ふわりと飛び上がる!
バランスを崩して倒れかかる髭面の肩に飛び乗ると、ガロウはそれを足掛かりにするようにして空中に躍り出た!
「俺を踏み台に……!?」
髭面の悲鳴も聞かばこそ。後ろの男が振り回した
そのまま男の懐に飛び込むと、右手を突き出し後ろの男の腹を殴りつける!
「ぐへっ――!?」
一言を発することすらできぬまま、最後尾の男は地に崩れ落ちた。
一瞬――そう、見ていた俺も信じられないくらいの、一瞬の戦いだった。
俺自身、よく目がついて行ったものだと感心するくらいに、実に鮮やかな、一方的な勝利。完封するとは、こういうことを言うのだろう。
「……ば、馬鹿な、こんな――」
「もう、しまいか?」
「だまれ――黙れ黙れ!」
貴族野郎が、ガロウではなく、俺に剣を向けて絶叫した。
「貴様――貴様だ! 何なのだ貴様は! 今もなお地面に這いつくばって何もできないくせに! なぜ貴様のような男に、私がこのような目に遭わされるのだ! 貴様のような男に率いられた連中に、私がこのような目に遭わされなければならないのだ! 何の取り柄も無ければ微塵の誇りも持たぬような貴様に!」
貴族野郎は、館の二階のほうに向けて叫んだ。
「なぜだ! なぜだリトラエイティル嬢! 私のなにが不満だ! このような無様な姿をさらすことしかできない男を、なぜ選ぶのだ! 私には地位も財も、武名もある! この男が一生かかっても創り出しえないほどのものだ! この男に平伏している限り永遠に得られないものを、私は今すぐにでも与えてやれるのだぞ!」
俺たちがいた館の二階の窓から、ひらり、と、金の光が舞うようだった。
リトリィだった。彼女がふわりと身を躍らせると、そのまま、ほとんど音もなく着地をしたのだ。
「……ムラタさんは――わたしのだんなさまは、わたしのことを、はじめてひとりの女の子として見出してくださった方です。わたしがなにものか、そんなこと、まったく関係なしに」
そう言って俺の傍らにしずしずと歩いてきた彼女は、そっと俺を立たせる。
「――フェクターさま。あなたはたしかに、すばらしいお力をもった方なのでしょう。でも、それはわたしが欲しいと思っているものではありません」
「馬鹿な! 地位も名誉も金も武名も、私にはあるのだぞ! 貴女が欲しいと思ったものは、なんだって与えてやれるのだ! その手――豆だらけの憐れな醜い手が示す、苦しんできた不幸な人生の、何倍もの幸福を約束してやれるのだぞ!」
「それが間違いなんです」
リトリィは、凛として言い放った。俺の腕に、自身の腕をからめたまま。
「わたしは、決して不幸ではありません。苦しみはありましたけれど、わたしのことをたいせつにしてくだった父や兄たちのもとで、わたし自身の望みをかなえるために、いっしょうけんめいに生きてくることができました」
リトリィは、その手を俺の手のひらに重ねる。
「このかたも同じです。この方は語ってくださいました。庶民の願いをかなえるために、自分は家を建てるのだと。ふたりの幸せを応援するために家を建てるのだと。
――ムラタさんはやさしく、そして誇り高いかたです。それをささえる生き方をわたし自身がのぞんで、このかたに嫁いだのです」
リトリィの言葉に、貴族野郎は口の端を歪め、嘆息し、吐き捨てるように小さく笑った。
「なにを――なんという世迷言を! 日々の労働で疲れ切ったひび割れた手、そのような生き方を自ら望んだ? 馬鹿なことを、そうやって不幸を不幸でないと、自分自身に言い聞かせなければならないほどに貴女は不幸なのだ! なぜそれに気づかないふりをするのだね? 私のもとに来れば、その手もたちまち白くすべやかな、貴女本来の美しさを取り戻すだろうに!」
奴の言葉に、きゅっと握られた、豆だらけのざらざらとした、彼女の小さな手のひら。
――ああ、鍛冶師の娘として鉄を打ち続けてきた手。
いち技術者として、己の技を磨き続けてきた歴史が刻み込まれた手。
そうだ。
彼女の豆だらけの手は、
憐れでも、
まして醜くもない。
彼女の誇り高い生き方を示す、美しい手だ!
「……彼女を穢すな。貶めるな! リトリィの手は美しい、誰よりも、どんな貴族のものよりもだ!」
「美しい――美しいだと!?」
クソ貴族野郎は、狂ったように哄笑した。
「……なるほど、いち職人としてその手を美しいと言いたいのだね? 笑わせてくれるよ、女の手を借りなければ立ち上がることすらできなかった腰抜けが」
リトリィの体の体毛がぶわっと逆立つのを感じて、俺は彼女の手を握り返す。
――大丈夫。
リトリィ、俺は冷静だ。あんなにも安い挑発をしてくるというのは、あの男に余裕がない証拠なのだから。
その思いが通じたのか、リトリィの毛並みがまた、ふわりとおさまる。見上げる目に、揺れるその瞳に、俺は笑顔を返してみせた。
「ああ、彼女は美しい!」
俺は力を込めて、言い切った。
「彼女は自分のその手で、自分の生き方を勝ち取ってきた。鉄を打つ生き方も、俺のもとで生きる生き方も。彼女は強く、賢く、そして美しい。彼女の高潔な魂を、俺は誇りに思う! ――美しい生き方をしてきた彼女に選ばれたことを、俺は誇る!」
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