第343話:三カ月目の愛の誓い
様々な食材を購入して家に帰ると、いつのまに準備してあったのか、練られた生地が、既に発酵状態で置かれていた。
「だって、今日は結婚から三カ月目ですよ」
マイセルがにこにことして答える。
そのとき、言われて初めて気がついた。こんな大切な日が今日だということにすら気付けていなかったなんて――俺は自分を恥じる。
心が疲れた時には休息が必要だ、それはわかっていたはずなのに実践する意識がなかった。
「いいんですよ。ムラタさん、最近とっても辛そうでしたから。それでお姉様と相談して、ムラタさんを励ましてあげようって思って」
マイセルは笑ってみせたが、つまりそれだけ俺は彼女たちに気を使わせてしまっていたということだ。
二人の夫として情けない、穴があったら入りたいくらいだ。
「ふふ、じゃあムラタさん。お手伝いをお願いしちゃいますよ?」
「喜んで!」
普段はあまりキッチンに入れてもらえない俺だけど、今日はいろいろと仕事を回された。水汲みをしたり野菜の皮をむいたり、鍋の番をしたり。
楽しそうに料理を進めていくリトリィとマイセルの姿を眺めながら、俺は俺に与えられた仕事を進めていく。
ただ、なんでこんなにクノーブの皮を剥かなきゃならないんだろうかと、ごくシンプルな疑問がわいてきたのだが、うん、まあ、考えるだけ無駄だったな。
今日が結婚三カ月目というなら、つまり今夜は――。
メインディッシュとして、テーブルの真ん中に置かれているのは、コーラルピンクの丸い果実がふんだんに並べられたパイ。
「これがシェクラの実なのか」
「ふふ、本当はまだ旬には早いんですけどね」
「下処理が大変なんですけどね、熟してないと。でも、今日のために頑張っちゃいました!」
リトリィもマイセルも、にこにこしながら説明してくれた。
マイセルが六等分し、一人二切れずつ配られた。直径およそ一尺――およそ三十センチメートル。なかなかにでかい。生地自体はそれほど厚みはないのだが、なにせこんもりとしたシェクラの実が圧倒的だ。一粒一粒は一般的なサクランボを小さくしたようなサイズなのだが、なにせ量が多い。
「イタダキマス」
神への感謝の祈りをささげたあとの、俺たちだけで通じる合言葉。
ついうっかりと言ってしまう俺の口真似を始めたのがリトリィ、それを真似し始めたマイセル。今じゃ、単語レベルだけど、日本語の語彙が少しずつ、俺たちの間で浸透し始めている。
街中で『愛してるっ!』と絶叫しても、俺たち以外、誰も意味は分からない。その隠語めいたところが気に入って、少しずつ、俺たちだけの語彙を増やしているところだ。
さて、どうも今日のシェクラのパイは、食べる際の流儀というものがあるようで、俺は二人から説明を受け、その通りに食べ始めることになった。
三人で、互いに、自分がかじるはずのものの、その最初のひと口を相手に食べさせる。
俺たちは三人だから、まず俺のものを二人が一口ずつかじり、その二人がかじったところに重ねるように、今度は俺がかじる。
同じように、今度はリトリィのパイを、そしてマイセルのパイを、同じようにかじり合う。
「……ふふ、おいしいですね」
「よかった! 美味しくできてる!」
ふたりとも、とても嬉しそうだ。
ずっしりとしたシェクラの実のパイは、わずかな渋みとそれから強めの酸味、そして甘味が溶け合って、ひとつの芸術品のように感じられた。
実は日本にいた頃、俺はアップルパイのようなフルーツパイがあまり好きではなかった。ところがここに来て、二人から様々なパイやケーキなどを食べさせられた結果、今ではそちらの方にすっかりなじんでしまった。
人間、どんなことにも、慣れるものらしい。
そのあたりは、ケーキやパイの作り方が絶妙なマイセルの面目躍如といったところだろう。リトリィのもっちりパンも俺は大好きだが、やはりケーキやパイはマイセルの方が圧倒的だ。
やっぱり人それぞれに得意分野があるというのはいいと思う。
「ムラタさん、
「
もちろん聞いたことがない。
こういう時には、下手に取り繕わずにストレートに聞いたほうが早い。
彼女たちも、俺が異世界出身者ということはもう知っているのだから、そういった事はきちんと聞いたほうが誠意がある姿だと俺は思っている。
案の定、二人は顔を見合わせやっぱりといった様子で苦笑した。
「
リトリィが微笑みながら教えてくれた。
「新婚の夫婦が、末永い愛を改めて誓い合う日なんです」
「ケーキでもパイでもなんなら焼いたお肉でも何でもいいんですけど、ひとかたまりのものを夫婦で分け合って食べる習わしなんですよ!」
隣からマイセルが、元気よく続ける。
「ひとかたまりの物……?」
ああ、と合点がいった。
夕食にわざわざこのパイの塊を出したのは、互いに食べさせ合い、互いのかじったところをかじる――それはつまり、そういうことなんだな。
結婚のための三儀式の一つ、
一つのパイを切り分けて三人で食べ合う。
一つの大きな愛をシェアリングする、ということなのだろう。
「本当はシェクラの実が熟す時期はもう少し先なんですけど、お姉さまがどうしてもシェクラのパイでこの三月目の誓いを迎えたいっておっしゃって」
「ま、マイセルちゃん……!」
「未熟なシェクラの実のアクとか渋みを抜いたりするのって、結構大変なんですよ? でもお姉さま、どうしてもムラタさんとシェクラのパイでこの日を迎えたいって」
マイセルの言葉に、リトリィが手で顔を覆って恥じらう。
でも、そんな様子がまた可愛いらしくて魅力的に見えてしまうから、俺の業もなかなかのものだ。
「だって、だって……。わたしのわがままを聞いて、満開のシェクラの木の下で契りの誓いをしてくださったあなたのために、どうしてもシェクラのパイでこの日を迎えたかったんですもの……!」
これが俺とリトリィの二人きりの場だったら、俺は間違いなくこの瞬間この場所で、リトリィを押し倒していただろう。
いや、今夜は遅かれ早かれ彼女を押し倒すのは決定事項なんだが、それにしたってかわいすぎる。
ああ、この瞬間だけは俺に彼女をあてがってくれた神さんよ、あんたの存在を信じるぜ。
「そうか……。マイセルはそういうつもりだったのか」
「はい。マイセルちゃん、今夜を、わたしにゆずってくれるって」
俺の腕の中でむにゃむにゃと可愛らしい寝言を言っているマイセル。
家から持ってきました、と言って実に楽しげに開栓したのが、シードルだった。
アルコールが入るとすぐに寝入ってしまうマイセルが、どうして今日、このタイミングでと思ったのだが、彼女が大変楽しそうに栓を開けるものだから、アルコール度数も低めなのかあるいは控えめに楽しむだけにしておくのかと思ったのだ。
で、結局いつものシードルで、彼女もあっさりと寝入ってしまったのである。
「その代わり、明日はマイセルちゃんの番ですから。今日をわざわざゆずってくれたマイセルちゃんの気持ちをねぎらって、いっぱい可愛がってあげてくださいね」
マイセルを一度も抱かず、リトリィだけを可愛がるのはいささか不公平感を覚えてしまうのだが、妻たちの間でそういう取り決めがなされているのであれば遠慮は要らないだろう。
今夜はリトリィに専念して、たっぷり抱いてやることにする。
三度目の正直ならぬ、結婚後三回目の藍月の夜。
今度こそ……今度こそ彼女に子供を――。
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