第342話:水着

「ムラタさん、見てください! ほら、もうワロンの実が出てますよ!」


 マイセルが市場を走り回っては、こんな珍しいものがある、あれが安いだの言っている。実に楽しそうに。

 そして今、マイセルが指を差した先には、濃い緑のだんだら模様のラグビーボールのような形をした丸い野菜が山と積まれていた。


「ねえムラタさん。ワロン、買って行きませんか?」


 俺の腕にぶら下がるようにしてねだるマイセル。こうやってストレートに食べたい、と言われると、こちらも食べてみたくなるというものだ。彼女が食べたいと言うのであれば、きっと美味しいものなんだろう。


 リトリィの方を見ると、彼女も微笑んでうなずいてみせたので、まあ、間違いなくおいしいはずだ。早速買うことにする。


 ……が、ここでリトリィのこだわりが発動した。耳を寄せ、ぽんぽん、と軽く実を叩き、いまいちしっくりこない、という顔をしては、また別の実を手に取る、という具合。


 ああ、うん、始まったなあと俺は微笑ましいものを眺める目――あきらめの境地とか言うなその通りなんだが――で見守っていると、マイセルもリトリィの隣にしゃがんで、一体何がだめだったのか、リトリィは何を求めているのか、実に真剣な顔をして様子を見守り始めた。


 うん、熟練のおねーちゃんから必死に学ぼうとする妹、という感じで、実にまったく可愛らしいが、二人がこの調子で磨かれてゆくと、買い物に行く極意はすなわち心頭滅却、無我の境地アタマからっぽ臨む待つこと精神力が肝要になりそうだな。


 それはともかくとして、最近は、こうして夫婦三人で買い物に出かける機会もなかったような気がする。


 家で頭を抱えてうんうん唸りながら、紙に向かって一日座りきり。

 出される食事を平らげて、また机に向かう――


 考えてみれば、それは日本での俺と同じ姿だったのかもしれない。

 独身で、誰にも気兼ねすることもなかった俺は、当然、同居者について考えるようなこともなかったし、出会いを求めて何かを始めるというようなこともなかった。


 ――そりゃあモテるわけがない。当たり前だ。

 なにせ異性のために、何もしようとしなかったのだから。


 しかし、そういうことに気付けるようになったのは、やはりリトリィのおかげなんだろう。そしてマイセルとも出会い、三人で夫婦になった。


 にもかかわらず、あいもかわらず日本の職場で働いていたあの頃と、さして変わらぬことをやっている。


 日本で熟年離婚が問題になるのは、こんな暮らしを何十年も続けてきた夫婦の間の話なのだろう。

 以前は、そんなニュースを聞くたびに、そんな歳になってから離婚をしようだなんてなんてひどい妻だ、などと思ったりしたものだった。


 けれど、今こうして二人を見ていると、買い物にすら付き合わない、子育てにもほとんど関わらなかった――そんな男の相方を、よくもまあ数十年間も我慢できたものだと思ってしまうのだ。


 そう、まさに今の俺だ。

 どうして、俺のことをこんなにも大切にしてくれている女性をほったらかして、机になど向かってばかりいられたのだろう、俺という奴は。


 働き方改革なんて言葉を聞いたことがあったけれど、その意識改革は確かに大切だと思う。独身だから関係ないのではなく、独身時代の生き方も、おそらく夫婦での暮らし方に関わってくるからだ。


 何年も続けて染みついた生活のパターンが、結婚したからといってそうそう変わるはずがない。また、そうした働き方を評価してきた上司が、妻ができたからといって急に家庭に軸足を置くようになった人間を、以前のように評価できるかというと、それもできそうにないだろう。


 人生を楽しむ――

 それは遊んで暮らすという意味じゃない。

 大切な人と大切な時間を余裕を持って過ごすことができる、それが人生を楽しむということなんじゃないだろうか。


 もちろん、それがすべてだとは言わないけれど、しかし結婚し、子供を育てる暮らしを選択するならば、共に生きる人との時間を大切にできる、そんな余裕のある生き方を選ぶことができる――それが、「人生を楽しむ」うえでの、大切な要素のひとつなのではないかと。


「ムラタさん」


 呼ばれてそちらを向くと、何やら妙にひらひらとした服を、胸に当てているマイセルがいた。

 どうやら、例の緑のだんだら模様の実は、すでに購入したらしい。リトリィもマイセルも、わずかに離れた、服を扱う屋台の前で、すでにいくつもの服を並べて互いに品評会のようなことをしているらしかった。


「あなた、どうですか?」


 リトリィに聞かれて、可愛いねと脊髄反射で答えてしまう。


「それで……その服は?」

「やだムラタさんたら。水着ですよ」

「水着?」


 マイセルがはにかんでみせるが、言われても全くわからなかった。

 頭が「水着」なるものとマイセルの手にあるものと、うまくリンクできなかったと言った方がいいかもしれない。

 なぜなら、どこからどう見ても、ただのワンピースにしか見えなかったからだ。


「え? それを着て泳ぐのか」

「え? 泳ぐってどういうことですか?」

「え? 水着なんだから泳ぐんだろ?」

「え? 水着を着るとどうして泳ぐんですか?」


 しばらく奇妙な問答をしてみて、そして気づいた。

 この世界の水着は、水辺で濡れても良い服装という意味であって、泳ぐための服装ではなかったのだ。どうりであんなにひらひらとした服を水着と主張したわけだ。


 極端な話、泳がないのだからどんな服だっていいのだろう。

 先日、川に流された図面を拾い上げるために川に飛び込んだ俺を見て、二人がこの世の終わりかと思うような取り乱し方をしたのは、そもそも泳ぐという習慣からほとんどないからだったのだ。


「でも、水遊びはするんだな」

「もちろんです! この街の上流の方――本流から引き込んだところの水はとってもきれいですから、みんな、そこで水遊びをするんですよ。ムラタさんも、水遊び、いっしょにしませんか?」


 マイセルが、腕にぶら下がるようにして誘ってくる。

 川遊びか、悪くないな。

 そういえば、山の寒さは体験したけれど、この世界の本格的な夏の暑さはこれから体験することになるんだ。日本の夏は暑かったけれど、どれくらい暑いんだろう。


「そうだな、今の仕事がある程度片付いたら、みんなで行くか?」

「やったあ! お姉さま、またムラタさんのカッコいいところが見られますよ!」

「ふふ、そうね、水にうかんであんなに早く動けるなんて、お魚さんみたいでした」


 ふたりできゃいきゃい言いながら、また服を選んで俺に見せる。


「ムラタさん、どっちがいいですか?」


 そう言って、二人して迫ってくるのだ。自分で選んだらいいのに、と一瞬思ってしまうが、リトリィの真似をして俺の歓心を得ようとするマイセルだ。俺の好みに合わせたいんだろう。


 ――だったら、おもいっきり俺の好みに沿ったものをリクエストしてやろうじゃないか。いやまあ、水に濡れて動きにくくなるようなモノでは事故につながるだろうから、そこらへんは――


 ――まてよ?


 リトリィの縫製技術なら、水着、作れるよな?


 作っちゃえるよな?


 ていうかだ、リトリィの豊満な体を隠すなんて、神の恵みに対する冒涜だよな?

 うん、そうだよな!? 日のもとに彼女の美を晒すことが、彼女にあの肉体を与えた神のご意思に沿うに決まってるよな!!


 ――ヨシ!

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