第341話:折れかけた心に効く薬

 思った以上に大変な作業だった、描き直しというのは。

 なによりもメンタルに来る。


 これが日本だったら、パソコンからデータを取り出して印刷し直すだけだっただろうが、こちらの世界ではそうはいかない。ダメ出しを食らっての修正ならまだしも、ただ単になくしただの破れただのにじんで読めなくなっただの、だ。

 本来ならとっくに提出できていた――それが、俺のメンタルをへし折るには十分だった。


 八つ当たりのようにリトリィを抱いてしまったこともあるくらいに、俺の心は荒んできていた。一度自分の手で仕上げたとはいえ、繊細な作業を、誰の手も借りずに、もう一度思い出しながらやらねばならないというこの現状。


「……ああもう、ちくしょう!」


 よりにもよって、インクが垂れて紙に大きなシミができる。半分くらい出来上がっていたのに、描き直しだ!

 頭をバリバリとかきながら、おもわず紙をつかんでしまったときだった。


「……あなた?」


 リトリィが、ティーセットを持って部屋に入ってきた。

 マイセルはもう寝ているはずだし、リトリィにも寝るように言っておいたのに。


 醜態をさらしたことを自覚して、さらに行き場のないストレスが溜まる。


「……なんでもない。お茶、ありがとう。そこに置いておいてくれ」


 リトリィは何か言いたげだったが、しばらく俺の顔を見つめたあと、黙ってサイドテーブルの上にティーセットを並べていく。


「……おつかれ、なんですね?」


 背中を向けたまま、リトリィが言った。


「お茶に、香り草を入れておきました。きっと、すこしは落ち着けると思います。こんを詰めすぎるとお体に毒ですから、すこしずつお休みをとったほうが……」

「わかってる。ありがとう、リトリィ。もういいから寝なさい」

「……あの、あなた――」

「いいから寝るんだ。こっちは、飲んだら自分で片付けておくから」


 振り返って何かを訴えようとしたリトリィを制し、俺は部屋を追い出すようなことを言ってしまった。


 分かっているとは言ってみたが、一番わかっていないのは俺だったのだろう。献身的な妻の言葉に、俺はかえっていら立ちを覚えてすらいたのだから。


 自分が悪いのだ、リファルを、聖人ぶって無罪放免にしてしまった、あのときの浅はかかな自分が。

 それでいま、こんな風に苦労をしている。それが分かっているのに、俺は、よりにもよってリトリィに八つ当たりをしてしまっていた。

 これ以上、情けない姿を見られたくなくて。

 自身の尻拭いすら満足にできていない自分を、知られたくなくて。


 俺がどんな人間かなんて、リトリィは俺以上によく分かってくれている。

 だからこそ苛立っている――それを知られたくなくて、虚勢を張ってしまったのだが、それがいかにカッコ悪いことだったか。そのときに気づけない俺は、本当にどうしようもない奴だったと思う。


 次に入ってきたリトリィは、結婚式の時に身に着けていた、煽情的な下着――あの隠しているのかいないのか、むしろ見せつけるためなのか、レースとフリルの装飾と、そして肝心な場所にスリットを入れて隠していない、あの下着姿で、部屋に入ってきた。


 ただでさえいらだっていた俺は、こちらが忙しいというのに、精神的に参っているというのに挑発された、いや馬鹿にされたとすら思い込み――彼女が俺をバカにすることなんて、天地がひっくり返ったってあり得ないはずなのに――彼女の髪をつかみ、壁に押し付け、後ろから叩きつけるようにして、彼女を蹂躙した。


 リトリィは、辛そうな様子などむしろかけらも見せず、濡れた声を上げ、腰を振り、終わったあとはかしずいて綺麗にしゃぶってみせた。耳をつかまれ、喉の奥に押し込まれ注ぎ込まれても、尻尾を振って飲み下してすらみせた。


 そして全てが終わってから、居間の長椅子で俺を抱きしめ、子守唄を聞かせてくれた。

 その時初めて、俺は自分が何をやってしまったのかに気づいて、彼女にすがって涙を流し、詫びた。


「どうして、謝るんですか?」

「……だって、俺は、きみに、……ひどい、ことを――」

「ひどい? どうしてですか? あなたはわたしに、夫として子種をさずけてくださった――それだけでしょう?」

「どこが……どこがそれだけなんだ。俺は、俺は……」


 ぼろぼろと涙を流しながら、彼女が愛想をつかしてしまっていないかをひどく恐れていた俺を、リトリィは微笑みを浮かべて、その胸に俺の顔をうずめるように、抱きしめてくれた。


「わたしは、あなたに見出してもらえた――それだけで、十分に幸せなんです。それよりもわたしは、あなたがくるしそうにしてらっしゃることのほうが、よほどつらいんです」

「でも、俺は――」

「ムラタさん?」


 彼女は、俺の頭を撫でながら、たしかに『ムラタさん』と呼んだ。

 結婚してから彼女は、二人きりのときには必ず『あなた』と呼んでいたのに。


「ムラタさんの悪いくせ――つらいときほど、ご自分で抱えてしまうくせが、出ていますよ?」


 そう言うと、彼女は改めて俺を抱きしめる。


「わたしは、あなたのリトリィです。あなたのために生きる女です。なにも心配なさらなくていいんですよ? あなたの思うままに、お好きになさってください。そうして英気を養ったら、また、明日からがんばりましょう?」


 おんなで活力を養うのは、おとこのひとの特権ですから――そう言ってリトリィは笑うと、もういちど、優しく俺を中に導く。


 獣人族ベスティリングの彼女は、ヒトよりも体温が高い。

 熱く蕩ける彼女の中に身を浸しながら、俺は彼女の愛の深さに、泣けて泣けて仕方がなかった。


「あなた、もう、今夜はお休みしましょう? 心がおつかれになっているときは、無理はひかえてください。わたしに、心のおりのすべてを吐き出してください。あなたの苦しみを、ほんのすこしでも、受け止めたいんです。そしてちゃんとお休みになって、また明日から、がんばりましょう……?」


 頭を撫でられ、子守唄を聞きながら眠りにつく――いったい、何年ぶりのことだったのだろうか。早くに亡くした母のことを思い浮かべながら、俺は、いつの間にか眠っていた。




「よかった。最近、ムラタさん、お顔の色がすぐれなかったから」


 朝食でスープのおかわりを要求すると、マイセルが嬉しそうに器を受け取った。

 今朝は数日ぶりに起き抜けにリトリィを抱き、そして日の出の体操に乾布摩擦と、 朝の健康ルーティンのすべてを消化できた。


 そのせいだろうか、朝食が妙に美味く感じられて、いつもより多くぺろりと平らげてしまった。

 リトリィはそれを予期していたのか、俺の食欲がちょうど満たされる程度に余裕をもって作ってくれていたらしい。本当に彼女には敵わない。


「そんなことないですよ。あなた、ご気分はいかがですか?」

「ああ、なんだか生まれ変わったみたいに快調だ」


 俺の言葉に、リトリィはくすりと笑う。


「あとで、三人でお散歩にでかけましょう?」

「え? お姉さま、でもムラタさん、お仕事が――」


 驚き、顔を曇らせたマイセルに、リトリィはにっこりと笑いかけた。


「お疲れのときには、体を動かして気分転換をするのも大事ですよ? ここしばらくだんなさまとお出かけしていないのですから、朝市のお買い物ついでに『でーと』しましょう」

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