第340話:逆境こそチャンス

「やいムラタ、お前、この前はよくも騙したな!」


 リファルがまっすぐに指を突きつけてくる。

 

 俺は、慎重に慎重を期して描き上げた渾身の図面を、レルバートさんに届けるために、川沿いの道を歩いているところだった。

 今回は事前にアポイントメントも取って、互いに予定を合わせて、満を持しての提出――そのはずだった。


 午後の日差しが水面でキラキラと輝き、対岸からは水辺で船のようなものを浮かべて遊ぶ子供たちの楽しそうな声が聞こえてくる。こちらの方では、護岸の上から釣り糸を垂らす人の姿も、ちらほらと見られた。


 そんなのどかな午後、どうして俺という人間には、こう、大事な時に邪魔が入るんだろうか。


「なにが執事みたいな人が来ただ、片っ端からいろんな人に聞いてみたが、それらしい人が仕事の依頼に来たなんて、一人も言ってなかったぞ!」

「何の話だ?」

「何の話って……塔に決まってるだろ! 塔の建て直しの話に決まってるだろうが! お前、この前は口から出まかせを言いやがって!」


 リファルが、手に持っていた食いかけの焼き鳥の串を突きつけてくる。


「この前、てめえは執事みたいな男が来たって言っていただろう! でもな、そんな男、ギルドにも来なかったというし、俺の知り合いも片っ端から聞いて回ったが、そんなヤツは来なかったって言っていたぞ! このフカシ野郎!」


 そう言ってリファルは、串に刺さっていた残りの肉を全部口に突っ込むと、もしゃもしゃやりなががら指を突きつけてきた。


「残念だったな! てめえの嘘はとっくにバレてんだよ!」

「そうか。で、言いたいことはそれだけか?」

「あ? ……てめえ……俺を無視するつもりか。いい度胸、してるじゃねえか!」

「分かった分かった。俺が嘘つきでも何でもいいから。こっちは急いでいるんだ、それ以外に話すことがないなら、もういいよな?」

「あっ、待ちやがれ!」


 多分、リファル自身は特に考えもなしに、腕をつかむつもりで掴んだんだろう。俺が小脇に抱えていた鞄をつかんで引っ張った。


「――あっ」


 この世界に、ファスナーという便利なものはない。よって、鞄を落とせば即、中身がぶちまけられてしまう。

 しかも間が悪いことに、ちょうどその時、比較的強い風が吹いていた。


 俺が、リトリィが、マイセルが――

 急いで手を伸ばしても、もはや間に合わなかった。


 ばさばさと音を立てて鞄から飛び出した紙の束は、たちまち風にあおられて飛んで行く。


 俺が慌てて体を投げ出し、とりあえずこれ以上飛んで行かないようにしてかき集め、マイセルとリトリィが悲鳴を上げながら紙を拾いに行くが、川に、街中に飛んで行ってしまった何枚かはもう、どうにもしようがなかった。




「……悪かった。本当に……」


 濡れて破れてしまった外観デッサン、インクのにじみが酷くて潰れてしまった三面図や工程表。


 しかも、よりにもよってもっとも本命だった、現在の塔の改修案――その外観デッサンが紛失した。破れたでも、水濡れによる潰れでもなく、紛失。どこに飛んで行ったのか、それとも流れて行ってしまったのか、行方が分からなくなってしまったのだ。

 厳密にはほかにも何枚か紛失していたが、本命を紛失したというのは痛かった。あまりにも。


 あのあと、何とか拾い集めた図面はもう一度鞄に放り込み、とりあえず川に落ちた何枚かを、川に飛び込んで拾い集めた。マイセルもリトリィも泳げないものだから、俺が集めるしかなかったのだ。

 日本人はほとんどが泳げる、というのは、たぶん誇っていい文化なんだと思う。


 リファルも俺に続いて飛び込んで、でもコイツも泳げないものだから溺れかけて、貴重な時間を無駄にしやがったのは本当に腹が立った。見殺しにしてやろうかと思ったくらいに。


 けれど、でも、責任を感じて飛び込んだこと自体を責める気にはなれず、水中で蹴り飛ばしながらかろうじて岸まで引っ張って。


 拾い集めても、濡れた紙はぼろぼろになってしまっていたし、インクはにじんで読めなくなってしまっていたし、そもそもリファルを救助している間に流れて行ってしまったものもある。


 俺が泣きそうになりながら川を泳いでかき集めて戻ったとき、リファルは俺が引っ張り上げたその場所で、ずぶ濡れのまま、うなだれて座っていた。


 自分たちが泳げないうえに、リファルがおぼれるさまを見ていたからだろう。

 どうも、リトリィもマイセルも、俺が岸まで戻ってこれこないかもしれないと、ひどくやきもきしていたようだ。


 俺が、ほぼ紙くずと化した図面を手に川から上がって来たとき、服が濡れて汚れるのも構わずに二人して泣き叫びながら飛びついてきて、しばらく放してもらえなかった。

 正直に言うと、この時に破れてさらに紙くず化した図面もあったが、それはまあ、言わないことにしておく。


 このあとがまた、大変だった。


 悪かった、この一言だけ言って立ち上がったリファルをつかまえ、引き倒したリトリィが、リファルを川に蹴り落としたのである。


「あなたなんかに、大工の資格があるものですか! そのまま流れて行ってしまえばよかったんです!」


 泣き叫びながら、「いくらだんなさまが許したって、わたしが赦すものですか!」と、溺れて岸に伸ばしてくるリファルの手を、岸に届かぬように蹴り飛ばすのだから、その怒りはすさまじいものだった。

 俺が捕まえても振りほどき、悪鬼あっき羅刹らせつの如く追撃を繰り出すリトリィの姿には、正直、背筋が凍えた。


 後ろから抱きすくめてキスで唇をふさぎ、正面から抱きしめなおして落ち着かせるまで、彼女は止まらなかった。


 溺れる人間のそばで、一組のカップルがそれを放置して、わずかな時間だったとはいえディープキスをかましているのだから、絵面的に相当シュールだっただろうが。


 まあ、彼女は俺のかわりに怒ってくれたのだと考えることにする。とにかくもう一度川から引っ張り上げると、リファルは俺の後ろに隠れてがたがたと震えていた。誰に対して震えていたのかはもう、言うまでもない。


 で、いつも狂犬の如く噛みついてくるリファルが、ぼろぼろの図面を前に、本当にひどくうなだれているのを見るのは新鮮だった。


「……悪かった、本当に」


 奴も大工だ。図面を起こす大変さについても、分かってはいるのだろう。ことに俺の図面は、ギルドでも「偏執的」「狂気的」と評判(?)の緻密さが、ひそかな俺の自慢だった。


 その図面が、水に濡れてインクはにじむ、破れてぼろぼろになるなど、はっきり言って使い物にならない状態になっていた。やってしまったことの重大さを、変わり果てたモノを目の前にして、あらためて思い知ったのだろう。


「……本当に、悪かった。――虫のいい話だが、その……図面の修復や書き起こし、手伝わせてくれないか?」

「……いや、いい。その必要はない」


 俺の言葉に、マイセルが「でも、あんなに苦労していたんだから、手伝ってもらった方が――」と、ためらいながら口をはさむ。

 だが、俺は断った。

 そもそもコンペの作品をライバルに手伝わせるなど論外だ。


「二度とリトリィを犬女とか、見下げた呼び方をするな。俺のことはどう呼んでも構わないが、妻を侮辱する奴は絶対に許さない」

「わ、分かった。それは、もう、絶対に――」

「それだけで十分だ。約束できるなら、とっととどっかに行ってくれ」

「い、いや、だが、図面が――」

「あなたのせいなんです! それでもだんなさまは、もういいとおっしゃったんです! 口を開かないでください!」


 リトリィだった。マイセルが手をつかんでいなかったら、リファルの胸倉をつかみ上げていたかもしれないくらいの勢いだった。


「今すぐどこかに行ってください! だんなさまはそれをお望みなんです! だんなさまがおっしゃったことが不満なら、今すぐわたしがもう一度、川に叩き落として差し上げますから!」


 リトリィが噛みつかんばかりに牙を剥いて泣き叫ぶさまに、リファルはそれ以上何も言わず、よろよろと立ち上がると、護岸の階段を上ってゆく。


 一度だけこちらを振り向いたが、即座にリトリィが牙を剥いたためか、何も言わずに、そのまま姿を消した。




「どうして――どうして、こんな……!」


 俺のほうはもう吹っ切れたというのに、リトリィはずっと泣き続けていた。


「ムラタさんが、寝る間も惜しんで、お描きになられたっていうのに……神様……どうして、こんな……」


 あれから、例のお屋敷に行って、事情があって図面を提出できなくなった、また後日提出に伺うから、その日まで待ってくれと頼んだ。

 生乾きでよれよれの服、ぼさぼさの髪、そしてしわのよったドレスの妻二人に、さすがに何かがあったのだろうとは判断してくれたらしい。


「よろしかったら、替えのお召し物をご用意いたしますが?」


 レルバートさんはそう言ってくれたが、丁重に断った。十日後には、今度こそ持ってくる――そう約束して、帰って来たのだ。


 彼女はきっと、俺の代わりに怒り、そして泣いてくれているのだろう。

 本当なら俺の方がはるかに取り乱すところなのだろうが、俺以上に取り乱している人物を目の前にすると、かえって冷静になれるから不思議なものだ。


 なに、頭をひねりにひねって、何日も悩んだ末に生み出したデザインだ。その設計図は、しっかりと頭に残っている。そして、今もマイセルが、準備してくれた紙に薄く基準線を書き入れてくれている。俺が作業を進めやすいように。


「大丈夫だよ、リトリィ。俺自身に何かがあったわけじゃない。俺の頭の中には、しっかりと残っているんだから」

「でも……でも、あんまりです! こんな、こんな、理不尽な……!」

「大丈夫だよ。……怒ってくれて、泣いてくれて、ありがとうな? 俺、また頑張るから」


 ――大丈夫。むしろ、さらにアイデアを練り直すチャンスをもらったと考えよう。

 そうだ、逆境こそチャンスだ。

 俺はやれる。愛する妻二人が、こうして俺を案じ、支えてくれているのだから。

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