第736話:ひとの二倍の幸せを、君に
リトリィが転倒してから、何時間経ったのだろう。
彼女の苦しみは、おそらく今が最大なのだろうと感じていた。
「ふっ……ううぅ……あぐぅうううっ!」
リトリィの苦悶の声が、いよいよ大きくなってくる。
俺はただ、彼女のそばで、手を握りしめるばかりだ。
「リトリィさん! ほら、いきんで! もう頭は見え始めてるから!」
「ぐうぅ……ふぐぅぅぅううううっ!」
彼女に握り締められる──握りつぶされている手が痛い。だが、それだけ彼女が苦痛に耐えているということだと思うと、手の痛みなど気にならないどころか、むしろ彼女の痛みの一部でも代わって受け止めたいとすら思う。しかしそれでも、彼女の苦痛のほんの一部でしかないのだ。
「リトリィさん、息を吐いて! ──そう、力を抜いて。大丈夫、もうすぐよ。息を大きく吐いて……はい、いきんで!」
ゴーティアス婦人が、高齢を感じさせない力強さでリトリィに声をかけ続ける。ここからでは見えないが、頭が見えているというのだ。頭さえ通ってしまえば、あとは早い──今までの経験ならば。
「リトリィ、もうすぐだ。もうひと踏ん張りで……」
彼女を励まそうとして声をかけたときだった。
「も、もうだめ、裂けちゃう、死んじゃう! あなた、たすけてっ!」
それまでどんなにうめき声を上げても、泣き言は漏らさなかったリトリィ。そんな彼女がついに漏らした、悲痛な叫び声だった。
「り、リトリィ……!」
「裂けちゃう! もう無理、無理なのっ! おねがい、たすけて、あなたっ!」
いつも穏やかで、微笑みを絶やさず、チビたちの粗相にも決して怒ったりしなかったリトリィ。優しく、賢く、誇り高く気高い彼女が、恥も外聞もなく泣き叫ぶようにして俺に縋り付いてくる。
──恐ろしいほどの力で、腕に食い込んでくる指!
思わず救いを求めてゴーティアス婦人を見るが、婦人は慣れた様子で苦笑いを浮かべて首を横に振る。
……それだけ、愛しい女性が出産の痛みに苦しんでいるということなんだ。それなのに俺は、なにもしてやれない。
「……ごめん、俺……!」
彼女の姿が滲む。
こんなにも俺を愛し、頼ってくれる女性を前に、何の力にもなってやれない自分が情けなくて。
だが、出産はこれからが肝心なのだ。
「ほら、女の仕事はまだ終わっていませんよ!」
泣き叫ぶリトリィに対して、あえてだろう。ゴーティアス婦人の叱咤激励が飛ぶ!
「リトリィさん! 夫を愛しているなら、あなたのすることはひとつですよ! 大きく息を吐いて、体の力を抜いて……そう、上手ですよ。はい、いきんで!」
「ふぐっ……ぅぅううっ!」
「上手よ、その調子! 頭がだいぶ見えてきたわ! あなたと同じ、金色のきれいな髪よ! 三角の耳も可愛らしいわ!」
ゴーティアスさんの言葉にも、さらに熱がこもる。
「がんばって! だんなさまがあなたに授けてくださった仔ですよ! もうひと息、もう少しです! もう頭が半分は出てきたわ、さあ、いきんで!」
「ふぐっ……あぁぁああああぁっ!」
リトリィの悲鳴。
硬く俺の手を握りしめる手は白く、俺の指に食い込んだ爪の跡から血がにじむ。
「リトリィ、もう少し! もう少しで、俺たちの……!」
「ああ、ぁああぁぁああああっ!」
首を振って悶える彼女が、ひときわ高く叫んだときだった。
「産まれた……産まれたわ! リトリィさん、金色の……きれいな女の子よ!」
周りの女性たちからも、歓声が上がる。
「がんばったわね、リトリィさん! あなたたちの仔よ。リトリィさんそっくりの。……ムラタさん、おへそ、どうしますか?」
問われて、俺はリトリィを見た。
荒い息をつくリトリィは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでもわずかに微笑んで、うなずいてみせる。
「……俺が切ります。切らせてください」
渡されたはさみをアルコールに浸し、ゴーティアス婦人に示された場所を切る。
分厚い布地を切るような感触が、はさみを通して伝わる。
文字通り「じょきり」と音を立てて切断される、乳白色のへその緒。
その時だった。
「かふっ……かふっ……ぁあああぁぁ……」
少しせきこむようにしてから、弱々しい声で泣き始める、小さな小さな我が子。
すぐさま運び込まれた産湯に浸かる我が子を見ていると、本当に、不思議な感慨に包まれる思いだった。ゴーティアス婦人の手が異様に大きく見える、小さな我が子。シシィともヒスイとも違う、本当に小さな子だった。
「さあ、
婦人によって手早く洗われた我が子を、手にする。
マイセルのときには意外な重みを感じたはずなのに、妙に軽い。
改めて見ると、本当に小さな子だった。
リトリィそっくりの、子犬のような姿。
けれど、金色の毛に包まれているだけで、手も足も、ちゃんとヒトそのものだった。
仔犬ではない。間違いなく、
両のてのひらの中にすっぽりと収まってしまうかのようなそのサイズに、俺は驚きを隠せない。
本当なら、あとひと月足らずかけて、リトリィのお腹でゆっくりと育つはずだった我が子は、こんなに小さな姿で生まれてきてしまったのだ。
「……驚いているようね」
「あ……いえ、その……」
ゴーティアス婦人はそっと耳打ちをしてきた。
「大丈夫。ちゃんとリトリィさんが滋養のあるものを食べて、おっぱいをいっぱい飲ませれば、すぐに大きくなりますよ」
つまり、リトリィにしっかりと滋養のあるものを食べさせろ、夫にはその義務がある、と言いたいのだろう。身が引き締まる思いだ。
すると婦人は、なぜか苦笑した。
「なにか勘違いなさっておいでかしらね? そんな不安そうな顔をしないの。胸を張って、がんばった奥さんをねぎらってさしあげなさい」
あまりの小ささに衝撃を受けていた俺だけれど、婦人の言葉に、俺はハッとした。
俺が不安そうにしていれば、早くに産んでしまったリトリィは、きっと自責の念に駆られるに違いない。もう少し自分が注意して行動していれば、お腹の中で育ててあげられたのに、とか。
「……リトリィ! 見てくれよ! 君そっくりの、こんなに綺麗な金色だよ!」
弱々しい産声を気にせず、俺は精一杯の笑顔で、妻が産んだ我が子を見せる。
リトリィのように犬の
基本的には金色の毛で全身が覆われている。喉から胸、そしてお腹、内股にかけては白いところも、リトリィそっくりだ。
そして、固く握られた、小さな小さな指……!
「ほら、リトリィ──」
彼女の手に渡そうとした、その時。
「あ、あなた……だめ、またお腹が……!」
「……リトリィ?」
「かふっ……! あ、ああ、ああああっ!」
再び下腹部を押さえて苦しみだすリトリィ!
「お、おい、リトリィ……! ゴーティアスさん、これって……!」
困惑し、すがるような俺に、婦人は不敵に笑ってみせた。
「どうやらあなたは、リトリィさんに倍の幸せを授けたみたいね。……ほら、みなさん。休憩はあと。もう一人、まだお腹にいるみたいですよ!」
リトリィの出産が終わりを迎え、ようやく緊張が解け始めていた部屋に、再び緊張が走る!
「リトリィさん! あなたは、よそのひとよりも倍の幸せをいただけたみたいですよ? だんなさまに感謝しなくてはね。さあ、もうひとふんばりです! ひとり産んで道が出ているのですから、そう難しいことではありませんよ。大きく息を吐いて──そう、体の力を抜いて!」
再び、リトリィの苦闘が始まった。
だけど、すでにひとり産んだという自信からだろうか。
苦悶の悲鳴はあっても、もう、彼女は泣き言を言わなかった。
「双子を産むとはね。お疲れさま、リトリィさん」
リトリィがトラブルにより産気づいたことについて、瀧井さんにも、そしてナリクァン夫人にも人を遣って伝えてあった。そのためだろうか、二人と双子でそろってリビングに戻ると、リビングでマイセルにお茶を淹れさせているナリクァン夫人がいた。その隣には、瀧井夫妻もいる。
「すべての仕事をとりやめて来ましたのよ? なにせ、待ちに待ったリトリィさんのお産ですからね」
そう言って、澄ましてお茶を飲んでいるナリクァン夫人。だが、背後に立つ黒服の諦めきった表情から、かなり無理のある調整を強いられたようだ。同情する。
「お名前は決まっているのかしら? それとも、これから?」
「一人は決まっていたんですが、まさか双子だとは思っていなかったので。びっくりでしたけど……」
ナリクァン夫人の言葉に、俺は頭をかきながら答える。シシィもヒスイも、生まれてから考えた。だけどリトリィとの子だけは、以前考えた名があって、それを付けると決めていたのだ。
まさか双子なんて幸せを授かるなんて思っていなかったから、もう一人はこれから考えねばならない。けれど──
「……けれど、二倍の幸せを授かったわけですから。これから決めます」
「そう……。金色の双子ちゃんにふさわしい、可愛らしい名を考えておあげなさいね」
「もちろんです」
リトリィが、俺を見上げて微笑む。
いままで苦労してきたんだ。ひとの二倍は幸せになる権利がある。俺はそれを、君に贈れたのだ──彼女の柔和な表情を見て、なんだか誇らしい気持ちになる。
「それにしても、もうお乳を飲んでいるのね。お乳は出ているの?」
双子ちゃんがそろってリトリィの乳に吸い付く様子を、ペリシャさんが優しい目で見つめる。
「はい、おかげさまで」
特にマイセルの出産のあと、なかなか母乳が出ずに困った経験から、これまで「母乳マッサージ」と称してリトリィの胸をたっぷりと堪能……げっふんげふん! 感触を楽しん……げふっげほげほっ! 苦労してきた成果が表れましたよっ!
「……まあ、殿方の考えることなんて、みんな同じですよね。いつまで経っても子供ですこと」
「分かり切ったことですわね」
いやその冷めた目が怖いですペリシャさんっ!
ナリクァン夫人も、その軽蔑しきった目をおやめください!
けっして、けっして下心だけではなくですね……!
「ご主人、言えば言うほど墓穴を掘るだけっスから、やめた方が身のためっスよ。昨夜だってお姉さまの大きくなった胸の感触、十分に楽しんでたじゃないスか」
フェルミの薄甘い笑みに、俺は絶望的な無力感を覚えて、弁解をやめたのだった。
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