第536話:理想と現実と(2)

「孤児院の壁を塗り替えることが、ナリクァンさんの商会にとって、どんな利益があるか……ですか?」


 マイセルが、小首をかしげてしばらく考える。

 孤児院の壁を塗り替えることが、ナリクァン商会にとってどんな利益になるか――そんなことを急に議題にのぼされても、マイセルだって困って当然だろう。俺だってきっと困る。


「ええと……だんなさま。その壁を塗り替えると、孤児院の子たちは元気になれるんですよね?」

「そうだな。リトリィの言う通りだ」

「でしたら、元気になった子たちがナリクァンさまのもとでご奉仕するっていうのはどうですか?」


 リトリィがにこにこしながら、胸元で手を合わせるようにして言った。


「きっとその子たちも、ナリクァンさまにご恩があるのですし、がんばって働くと思います!」


 ……俺も、それはいいアイデアだと思ったんだよな。だから似たようなことはもう言ったんだ。


「……でもさ、言われちゃったよ。優秀な人間が欲しいのであって、孤児院出身者を特別欲しいわけじゃない、という感じにね」


 しょげるリトリィの肩を抱き寄せる。無理難題を出しているのは俺であって、妻たちが悪いわけじゃないんだ。


「……じゃあ、ムラタさん! ムラタさんはとっても物知りですし、孤児院の子たちの先生をやったらどうですか? ナリクァン夫人が欲しいって思う子供を育てればいいんですよ!」


 マイセルが、ものすっごく目をきらきらと輝かせながら身を寄せてきた。


「そうすれば、ナリクァン夫人も孤児院の壁を塗り替えるのを手伝ってくれませんか?」


 夫人が欲しいと思えるような人材を育てる――それも確かにいいアイデアだ。

 だけど俺は家を建てる、その図面を考えることくらいしかできない男だ。期待されること自体は悪い気がしないけれど、買いかぶられても困る。


「そんなことないです! だんなさまは、とってもすばらしいかたです! お知恵も、お心も、街一番だって信じています!」


 ……いや、リトリィ。自分の旦那をそこまで信じてくれるのは嬉しいけど、俺、本当に大したことないから。


 ――などと言って妻を失望させたくもない、のだが。

 

 孤児院の子供たちのために私財を投げ打つ慈悲あふれるナリクァン夫人、というイメージアップ作戦もあっさり却下されたことだし、どうすればいいだろう?

 なんとか実利に結び付けないと、夫人を納得させることができない。しかし、どうすれば実利を生み出せるのか。


 ……だめだ。全然思いつかない。


「だったらムラタさん、考えるのはまた明日にしましょう!」

「マイセルちゃんの言う通りです。だんなさま、考えるのはもうおしまいにして、今夜もいっぱい、かわいがってくださいまし。わたしたちも、いっぱいいっぱい、ご奉仕いたしますから」


 嬉しそうに寄り添ってくるマイセルとリトリィに苦笑しながら、俺は頭を切り替えた。今は目の前の大切なひとたちを、幸せにするために。




「んう? ボクの好きな人? だん……ししょーだよ!」


 リヒテルに問われたリノが、即答する。


「ええと、君がお世話になってる監督のことが好きっていうのは分かるけど……リノさんが、その……男の人として好きな人って、いますかっていう話で……」

「うん! ボク、ししょーのこと大好きだよ!」


 休憩の軽食を取りに庭に下りて行ったはずのリノの戻りがやけに遅いと思ったものだから、俺も庭に下りてみたんだ。すると庭の資材置き場のすみで、二人並んで積み上げられたレンガに座って、そんなことをやり取りしていた。


 思わず建物の陰に隠れて、二人の会話に耳を傾ける。こういうとき、半径五メートル程度の範囲なら、どんなに小さな声でもはっきりと理解できる翻訳首輪は便利だ。


「お仕事、がんばったらほめてくれるし、ぎゅーってしてくれるし。この前、ボクがリトリィ姉ちゃんとマイセル姉ちゃんと一緒に作ったお料理、美味しいってほめてくれたし。だからボク、ししょーのこと、大好き!」

「そ、そうなんだ……。あ、リノさんも料理、できるんだね」

「女の子だもん! ボクだってお姉ちゃんたちに教えてもらってるんだよ! 今じゃニューのほうが上手になってきてるけど、ボクだって少しは作れるよ! お裁縫だって練習してるんだ!」


 えっへん、とばかりに胸を張ってみせるリノが、なんだか愛らしい。

 まあ、確かにそうだ。リトリィ直伝の野菜煮込みスープアイントプフをはじめ、いろいろ挑戦してはいるようだ。しかし裁縫の練習は知らなかった。また今度、練習成果を見せてもらって、ほめてあげよう。


「……そ、そっか。ところで、リノさん」

「んう?」

「その……僕は、リノさんのこと、すてきなひとだなって思ってるんだ」


 隣のリヒテルのことをまっすぐ見ているリノに対して、リヒテルはうつむき加減に前を向いたまま、続ける。


「……今、聞いたこともそうなんだけど……。君は明るくて、元気で。女の子なのに、監督の仕事を手伝うために現場に手伝いに来るくらいに働き者で……。何より、笑顔がすごく可愛らしくて。『幸せの鐘塔』で一緒に働いていた時から、ずっと、すてきな子だなって、思っていて……」

「ボクもリヒテルのこと、好きだよ?」


 それまでうつむき気味だったリヒテルが、弾かれたように顔を上げ、リノを見た。


「そ、そうなのかい?」

「だってリヒテル、ボクにいじわるしないし。今だって、おかしとかくれるし」


 はは、と力なく笑ったリヒテルだが、気を取り直したように続けた。


「リノさんは……その、将来を、どうしたいって考えてるの?」

「将来?」

「ほ、ほら。僕はもうすぐ十六で、独立する。すぐにぜいたくできるわけじゃないけど、頑張って働いて稼ぐから、だから――」


 リヒテルは、そこまで言ったあと、うつむいた。急に声が、小さくなる。


「だから、その……き、君さえよかったら、僕は、君と――」


 そして、そのまま黙ってしまった。

 リノは資材に腰掛けて宙に浮いている足をぶらぶらさせながら、少しだけ考えてみせたあと、ほがらかに笑った。


「ボク、大きくなったらししょーとおなじ、建築士になるんだよ! そしたら、結婚だってしていいって」


 思わず吹き出しそうになる。

 あいつ、そんなふうに考えていたのか。確かに、将来、食うに困らないスキルを身に付けさせたいとは思っていたし、実際、ヒッグスとニューとリノには、折に触れてそうあるべしとは言っているけどさ。


 結婚については事実上、女性側にはイスラム社会並みに年齢制限が存在しないという話も聞いたし、リトリィが妊娠すれば、あとはリノの希望次第だと思っていた。


 というか、本当は拾ったときの理想としては、チビたちがちゃんと未来を切り拓く力を身に着けて、いい相手を見つけて独立してほしい――だったはずなんだが、現実はわけの分からない方向に向かってしまっている。


 理想と現実、なかなか思い通りにならないものだ。まあ、あいつがあくまでも俺を選ぶというのなら、それはそれでいいんだが――


 そう思った瞬間、リヒテルは両手でリノの肩をつかむようにして、真剣な様子でリノに訴えかけた。


「……それじゃ監督は、リノさんに実質、結婚するなって言ってるようなものじゃないか!」

「んう? どうして?」

「『建築士』ってのがどんな仕事なのか知らないけど、でも職人なんだろう? 女の子は、職人になんてなれっこない。ギルドだって認めないと思うよ? 監督は君に、ひどい嘘をついて――」


 その瞬間だった。


「ししょーを悪く言うな」


 リノは、リヒテルの手を振り払った。


「ししょーはボクのこと、とっても大事にしてくれてる。今朝だってボクをぎゅーってしてくれた。ししょーは絶対ボクに嘘なんかつかない」


 何かを言いかけたリヒテルの手を、再びリノは振り払う。


「ししょーはボクのすべてだ。それ以上ししょーのこと、悪く言うな」

「で、でも……女の子が職人になるなんて、聞いたことがないよ! 女の子は結婚して子供を産み育てるのが仕事なんだ。それなのに、君に職人になれるなんて嘘をついてるなら、監督は君のことなんて――」

「おまえ」


 リノは、離れて聞いている俺にまで聞こえるほどの歯ぎしりをした。


「おまえ、ボクに優しくしてくれる。だからボク、おまえのこと好き。でもおまえ、ししょーを悪く言った。ボク、ししょーを悪く言うやつ、嫌い。これ以上言うな。ボク、おまえを嫌いになりたくない」

「でもリノさん、理想と現実は違うんだ。監督は君の……!」

「うるさい! ぬくぬくと家で暮らしてきたおまえに、ボクの気持ちなんか分かるもんか! ボクは、ボクのこと大事にしてくれるししょーの――」


 その瞬間だった。


「……お前、さっきからそこで何してんだ?」

「うわっ⁉」


 肩を叩かれ、思わず振り返ってしまったときに変な声を出してしまう。

 肩を叩いたのは、リファルだった。


「そろそろ再開しようってのに、いつまでも上がってこねえからよ、様子を見に来たんだ。そしたらお前、壁のすみに張り付いてやがるし。それになんだ今の声。リノチビが誰かとケンカでもしてんのか?」

「い、いや、リファル、それは――」


 言い訳がましいと思いながらリノたちの方を向くと、リノもリヒテルも、こっちを向いて固まっていた。


「……やあ。仕事、始めようか」

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