第535話:理想と現実と(1)

「はあ……壁を塗り替える、ですか?」


 一日の作業が終わったあと、俺はまっすぐダムハイト院長に掛け合ったが、当の院長は、首をかしげた。


「屋根を直していただいている最中で、この上さらに壁をお願いするのは……。いえ、もし綺麗にしていただけるのでしたら、ありがたいことだとは思いますが」

「ダムハイトさん。私は必要だと考えるからお話を持ち掛けています。正直に申しますと、私たちも慈善事業で仕事をしているわけではありませんので、確約はできません。ですから、やりくりの中で、可能であればやらせていただく、という程度のお約束となりますが」


 俺は一度言葉を切って、部屋を見回した。

 この応接間もかなり酷いありさまだ。俺の動きにつられてか、ダムハイトさんも部屋を見回した。


「そうですね……。お恥ずかしい話ですが、やはりお客様をお迎えするにあたって、この部屋はなんとかしたいと思ってきてはいたのですが……。やはりお金がなくて」

「いえ、私は応接間をどうにかしたいと思っているわけではないのです」

「……それでは、どのようになさるおつもりですか?」


 困惑するダムハイトさんに、俺はまっすぐ目を向けた。


「私がなんとかしたいのは、子供たちの部屋――とくに屋根裏の寝室と、赤ん坊の部屋です。その壁を塗り替えたいのですよ」

「寝室を……ですか?」


 戸惑いを隠せないダムハイト院長に、俺は大きくうなずいてみせた。


「あの屋根裏部屋は、子供たちをむしばんでいます。この孤児院の子供たちが苦しむ原因の一つが、まさにあの壁と柱、そして床です」


 言い切ってみせた俺に、ダムハイトさんはしばらく目をしばたたかせていた。白湯さゆのカップに手を伸ばしたあと、カップに口もつけずしばらく中身を見つめていた。


「……そう考える理由を、聞かせていただいても?」

「カビです」

「……カビ、ですか?」


 ダムハイトさんは少しだけ視線を泳がせてから、やはり不思議そうに聞いてきた。


「なぜでしょうか。見苦しいものは、子供の目に触れないようにしたほうが心が健全に育つと?」

「違います」


 俺は即答すると、白湯さゆのカップに手を伸ばした。


「あのカビが、子供たちの体を蝕んでいるのです」

「子供たちの体を、カビが、ですか?」


 首をかしげるダムハイト院長に、俺は少しだけ苛立たしさを覚える。

 だが、その苛立ちもぐっと飲み込んだ。俺が二十一世紀の日本に生きた人間なのに対して、この世界の人たちは、まだそこまで文明が発達していないのだ。確か、パンを発酵させる酵母菌についても「妖精の働き」と解釈していたっけ。


「雨が一晩、あるいはそれ以上降った時のことを思い浮かべてください。部屋がひどくカビくさいと思うことはありませんか?」

「それはまあ……」


 言いかけたダムハイト院長は、はっとしたような顔をした。


「ひょっとしてカビのにおいには、気分を悪くする作用があるのですか?」

「……そうですね、それもありますが、もっと困った問題があります」


 ダムハイト院長は、決して悪い人ではないのは分かっているし、情熱もある人だ。それは分かっているのだが、しかしなんだろう、この苛立たしさ。


 ……いやいや、ダムハイト院長に分かってもらわないと、意味のある工事が進められないし、今後の孤児院の経営にも関わってくることだ。

 苛立ちと焦りを、白湯さゆを口に含むことで抑え込む。


「カビのにおいは確かに不快ですが、気分が悪くなるだけではないのですよ。ファルツヴァイ――彼は胸をわずらっていますね?」

「はい、昨年の冬からだと記憶していますが」

「同じように胸を患っている子供は、彼以外にもいますね?」

「はい、残念ながら――」


 神妙にうなずくダムハイトさん。

 やはり、朝にファルツヴァイが言っていた通りだった。

 彼以外にも、呼吸器疾患に苦しむ子供がいたのだ。

 

「カビは、壁に染みを作ったり、食べ物を腐らせたりするだけではありません。増える際に、一粒一粒は目に見えないほどの小さな種を飛ばします。それが胸に入った時に胸を病むんです」

「目に見えないほどの小さな種――ですか?」

「はい。風邪などの病気にかかって体が本当に弱っている時には、胸の中にカビが生えることもあるそうです」

「そ、そんなことが……⁉」

「本当です。稀なことではありますが」


 本当は種ではなく胞子だし、肺にアオカビなどが生えるのではなく、カビの仲間の菌というだけだが、内容として嘘は言っていない。というか、危機感を持ってもらわなきゃだめなんだ。


「雨自体も、むねみの発作を起こすと言われています。ですがそれよりも、雨によって活発になったカビがたくさんの目に見えない種を飛ばし、それを吸い込んでむねみの発作を起こすほうが問題です。そのカビの種を吸っているのは、胸を患う子供たちだけでなく、院長先生、あなたも同じですから」

「た、確かに……」


 俺の言葉に、院長はされるようにしてうなずく。俺は一気に畳みかけた。


「私は、この孤児院で暮らす子供たち全てが、健康であってほしいと願っているんです。きっかけはリヒテル君との関わりからでしたが、今はより多くの子供たちの存在を知りました。やはり知ってしまった以上、ここで暮らす子供たちが、一人でも多く、幸せをつかんでほしいと思うのです」


 結局、ダムハイト院長はやや半信半疑といった様子だった。やはり目に見えないカビの種が体をむしばむ、というのは、なかなか理解が難しいらしい。

 これならいっそ悪魔や妖精に変換して説明したほうが、すんなり受け入れてもらえたかもしれない。相手の理解を促すための説明というのは、難しいものだ。


 けれど、工事そのものには同意してくれた。半信半疑でも、子供たちのためになるならばと言ってくれたのだ。




 帰り道。

 リファルを逃がさぬようにしてリノを家まで送ったあと、俺は嫌だとわめくリファルを引きずるようにして、アポもなしにナリクァン夫人の元に行った。壁の漆喰しっくいを剥がし、新たに塗り替えるための資金調達をお願いするために。


「なるほど……。大筋は分かりました」


 ナリクァン夫人はすぐに応対に出て、話もじっくり聞いてくれた。しかし、俺の要望に対しては首を縦に振ってはくれなかった。


「わたくしどもの商会では、これまでにも屋根の修繕のため、すでにかなりの投資をしております。それに加えて、さらに壁の修繕ですか?」

「孤児院の子供たちの中には、胸を病んでいる少年もいます。胸のやまいには、壁一面がカビで覆われているような今の環境はよくありません。だから、どうしても壁を剥がして、壁を新しく塗り替える必要があるのです」


 俺は『子供たちのため』と、精一杯訴えたつもりだった。だが――


「何度も繰り返さずとも分かります。分かりますが――」


 夫人は、俺をまっすぐ見据えたまま、答えた。


「それが、我がナリクァン商会の利益・・・・・・・・・・と、どう結びつくのですか?」


 それは――言いかけて、言葉に詰まる。

 あえて夫人は聞いてきたのだ、「孤児院を支援した場合、商会として得られるメリットは何か」と。

 リトリィの救出を最初にお願いしたときと、全く一緒だった。


「わたくしどもも一介の商人です。商会に利益がなければ、残念ながら、力をお貸しすることはできませんよ?」


 ……考えろ。

 ナリクァン夫人は、メリットが無ければこれ以上は動かない、と言っている。

 裏を返せば、ナリクァン商会を動かすに足る理由を寄こせと言っているのだ。

 納得できる理由があれば商会を動かす、夫人はそう言っているに等しいのだ。


「で、では、子供たちが健康的に生活できるようになることで、そのぶん商会に恩義を感じる子供も増え、将来的に商会で働くことを望む子供たちが増えるということも

――」

「すでに何人か引き受けておりますし、わたくしどもは優秀な働き手を望んでいます。誰でもよいわけではありません」


 ぐ……。

 これじゃ、暗に「今引き受けている子供たちはいまいち使えないが、それでも使ってやっている」と言われているようなものじゃないか。


 どうする。子供たちのため――それだけでは商会にとって持ち出ししかない。

 商会は、決してボラインティアではない。利益を追求することで、末端の従業員一人一人の生活を保障する役割も担っているのだ。無駄は極力なくしたいはずだ。


 だからこその、大義名分。

 商会にとってのメリット。


 考えろ――考えろ! ナリクァン商会としての利益になる何かを。

 孤児院から何か差し出せるもの……ない。

 商会が求めるもの――とはいえ、下手に何かの権益を譲り渡すようなこともしてはならない。今はよくても、のちのちに悪影響を及ぼさないとは言えないからだ。

 では、自然発生的にできるもの――名誉?


 ――そうだ、名誉だ。


「……孤児院の修繕のために、商会は慈悲の手を差し伸べてくれた、と宣伝するのはいかがでしょう。孤児院の修繕のために、商会が負担を請け負って、子供たちの未来のためにふさわしい奉仕を実現したとあれば――」


 商会に、よりクリーンで慈悲深いイメージが広がれば、取引も増えるはず。

 こちらから出せるものはなくとも、イメージアップ戦略で商会に貢献すれば、商会の売り上げも上がることが見込めて、将来的な増収につながる――それに賭けるしかないと思ったのだ。


 だが、ナリクァン夫人は、首を横に振ってみせた。


「それならば、屋根の修繕に関わる費用の負担、そして孤児院の子供の慈善的雇用。これらの件で、十分に宣伝できているのではありませんか?」


 夫人は静かに、だが有無を言わさぬ微笑を浮かべながら、お茶のカップを手に取ると、どこか楽しそうな表情で、リファルに向かって同意を求めた。

 リファルは額の汗を拭きながら、その言葉にうなずきやがった。


 ――くそう、裏切り者め。俺は自分が無理矢理連れてきてしまったというのに、思わず胸の内で悪態をついてしまった。

 だが、そんなことをしていても、ほかに魅力的な理由をひねり出すことができない事実は変わらない。なにかほかにアイデアはないか――必死に考えるが、どうにも思い浮かばない。

 まもなく俺は、夫人にタイムリミットを告げられた。


「お客様がお帰りになられます」


 もう少し話を聞いてほしいと訴えたが、何かいい案が別にあったわけでもないことを、夫人は見抜いていたのだろう。薄い微笑みを浮かべつつ、全く取り付く島もない様子で、俺たちを追い出した。


「わたくしを納得させることができる面白いお話を思いつきましたら、そのとき、また、お会いしたいものですね」




「だから嫌だっつったろうが、あの夫人と話をするのは!」


 屋敷を出てからしばらく歩いたあと、リファルが、だらだらと滝のように流れる汗を拭きながら訴えた。


「あの最後の言葉、聞いたか⁉ くだらない用事で時間を使わせるなって言われたようなモンだぞ、ありゃあ!」

「うっさいな! 俺だって本当に怖かったんだ、そんなところに一人で行けなんて薄情なこと、友達なら言わないよな⁉」

「誰が友達だ、誰が!」

「なに言ってんだ、俺とお前は友達だろ⁉」

「都合のいい時だけトモダチづらするんじゃねえよ!」


 しばらく二人でド突き合ったあと、二人でベンチに体を預けた。大の男が二人してぐったりとベンチで溶けていたのだ、なかなかにかっこ悪かったと思う。


 夕焼けも西の空に消えて、お互いの顔も判別がつきにくくなったころ、俺はのろのろと立ち上がってリファルを引きずり、家に帰った。


 リトリィたちは、そんな俺の意図を見抜いてくれていたようで、リファルのぶんもしっかり夕食を準備してくれていた。


 俺はリファルに無理に連れて行ったことをわびたあと、しこたま酒を飲ませ、一泊していくように促した。だが、リファルは赤ら顔をぶんぶん振り回すようにして拒否した。


「飲ませた俺が言うのもなんだけど、それだけ酔ってるんだ。泊まっていけって」


 いうことを聞かずに結局玄関を出て行くリファルに、俺はもう一度声を掛けた。

 するとリファルが、苦笑いしながら答えた。


「……バカヤロ、俺はてめぇのことなんかどうでもいいんだけどよ、金色さんを怒らせることだけは断固したくねぇんだよ」

「おい、そりゃどういう意味だ」

「てめぇらの夜の夫婦生活の邪魔をして、奥さん二人に恨まれたくねえって言ってんだよ。この年中無制限発情夫婦め!」

「毎晩たっぷり愛し合ってるのは事実だが、面と向かって言われると照れくさいな」

「なんでホメられてるかのような受け止め方をするんだよ、誰もホメてねえよッ!」

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