第534話:人は変わるもの
「……昨夜もひどい目に遭った」
「てめぇ、いい加減に朝っぱらから嫁自慢をやめろ」
うるさい。
もう出ないと思ったら、ケツの穴に指突っ込まれて前立腺マッサージでもう一戦、とばかりに要求された俺の身にもなってみろってんだ。
……なんて言えるわけないだろっ!
もちろん、立場を譲る気もカケラもないがな!
そんなことより聞いてくれよリファル!
マイセルの腹をなでていた時に思いついたんだが!
「だ・か・ら! 独身のオレに嫁自慢をするのをやめろっつってんだろ!」
「……
「誰だっていいだろう。一緒に働く人間として気になったから聞いてるんだ」
「……クソッ、トーリィだな? 余計なこと言いやがって」
ファルツヴァイが、苛立たしげに足元の石を蹴る。
石は大きくカーブすると、庭に積んであった端材の一つにぶつかって、小さく低い音を立てた。
「……雨あがりとか、長雨が降るとか、そんな時っすよ。あとは……夜明け頃っすかね」
意外に素直に答えてくれたので驚いたが、「どうせ答えなきゃ、しつこく聞いてきたに決まってるっすからね」と、口をとがらせて答えたのが、妙におかしかった。
けれど、今も聞こえるのだ。
かすかに、ひゅーっ、という
「なにが大変かって? 決まってるじゃないすか。息を
「息を吐けない? 吸えない、じゃなくてか?」
「なんにも知らないんすね」
ファルツヴァイは、せせら笑うように答えた。
「この胸病みは、喉が詰まるんすよ。無理に息を吸おうとする、吐こうとする……そのうちに喉が詰まってきて、息を吸うよりも、吐けないことが辛くなるんすよ。なんたって息を吐かなきゃ、次の息が吸えないっすからね」
発作が起こり、ゼェ、ヒュゥと繰り返しながら咳き込んでいるうちに、喉が詰まって呼吸困難に陥る――それが、この胸病みだとファルツヴァイは言った。
「オレの場合、ほこりっぽいトコに行ったり雨が降ったりすると、一発っすね。四つん這いになって、咳をこらえながら、全身に力を込めて、ただ息を吸うことだけに必死になる――そんなみじめな生き方っすよ」
「……喉が痛むんだな? 胸じゃないんだな?」
「喉は当然なんすけどね……そのうち、息を吸うのに疲れてきて、胸の骨の下あたりが筋肉痛みたいになりますね」
――ああ。
俺が知っている病気の症状にそっくりだ。
そう――
学生時代の友人がそうだった。
そいつは、高校時代に突然発症したと言っていた。
本人はそれまで花粉症があるくらいで、至って健康な奴だった。だが、ある時を境に気管支喘息になったそうだ。
『息を吸うより、吐く方が大変でさ。無理に吐くと、それで咳がでて、また喉が締まる。地獄だったね。無意味に病院嫌いだったからやせ我慢しててさ。なんでもっと早く病院に行かなかったのかって、当時の自分をぶん殴りたくなるよ』
彼はそう言って笑っていた。発作が起きにくい体質に改善するための、かたつむりの貝殻のような紫のパッケージの日常薬と、発作が起こったときに吸う指先サイズのボンベのような形の薬を見せてくれた記憶がある。
だが、この世界にそんなものはない。
ファルツヴァイは、発作が起きるときはある程度予想はできるものの、一度発作が起きてしまえば、呼吸という「生きるために当たり前の行為」に命がけで取り組まねばならないという、爆弾を抱えて生きているのだ。
「そうか。だから、トリィネが看病をしているんだな」
「……やっぱりトーリィが言ったんすね。どうせオレの世話をしてるのは自分だ、とか言ってたんだろ。あいつ、あとでぶっ飛ばしてやる」
ファルツヴァイは口をとがらせたが、本気で怒っている様子には見えなかった。
「そんなことは言っていない。君のことを、とても尊敬しているみたいだった」
「尊敬? 何をどうしたらそうなるんすか」
「本人に聞いてみればいいんじゃないか?」
「……そんなこと、聞けるわけないじゃないすか」
少し、疲れ気味の顔で、けれど笑ってみせたファルツヴァイ。
相変わらず、息を吸うたびに、かすかにヒューッという音が漏れ聞こえてくる。
彼は、自分からいろいろと動く人間だったという。
人は変わってしまうものだ。
決めつけることはできないが、もし本当に気管支喘息だったなら、日本なら薬で簡単に抑え込むことができたはずの病気だった。だが、その病で今、目の前の少年が苦しんでいる。
この世界ではそれが当たり前なのだろう。けれど、便利な
「じゃあ、オレ、もういいっすよね?」
「……あ、ああ。引き留めて、悪かったな」
「ああ、それと」
立ち上がったファルツヴァイは、俺を振り返って言った。
「胸病みを抱えてんの、別にオレだけじゃないすから」
「……え?」
俺の驚きには答えず、ファルツヴァイは現場に戻って行った。トリィネが駆け寄ってきて一言二言声を掛けると、ファルツヴァイは不機嫌そうにその頭を小突き、肩を抱くようにしてトリィネの頭をぐしゃぐしゃとかき乱していた。
昼の休憩のときには、最近はいつも様子を見に行く部屋がある。
相変わらずの排泄物のニオイだが、以前よりずっとましだ。窓を開けて換気をするように進言したことで、確実に変わってきているようだ。
「それで、コイシュナさんはいつまでここで奉公を?」
「夏の終わりくらいまで、でしょうか」
「そ、そうですか……。あ、おむつですね? オレがやりますよ!」
……おもしろリファルを眺めるため――もとい! 赤ん坊たちの様子を観察するためだ。
「あ、あの、私がやりますから」
「任せてください、コイシュナさんの手ほどきのおかげで、オレも今じゃ一丁前のおむつ職人なんで!」
馬鹿だこいつ。なにがおむつ職人だ。
というか、あんなに『男は家事をしないものだ』と言っていたくせに、どういう風の吹き回しなんだか。
まあいい。あんな馬鹿よりもリノだ。彼女は、ナリクァン夫人が派遣している子守女中のヴェスさんのそばで、目をキラキラさせながら世話の様子を眺めている。
「ねえねえ、お姉ちゃん! ボクにも抱っこさせて!」
そう言ってヴェスさんにまとわりつくようにしながら、自分も自分も、と実に楽しそうだ。
「ボクもね? 夏になったら、お姉ちゃんになるの!」
「そう……。立派なお姉ちゃんになれるように、練習したいのね?」
「うん!」
実は毎回同じことを言っているリノなのだが、ヴェスさんは飽きもせずに同じ返事、同じ確認をしてくれている。自己肯定感を育む情操教育というものだろうか。
赤ん坊の世話を、見よう見まねで、ときどきヴェスさんやコイシュナさんに教えてもらいながら楽しそうにしているリノ。それを眺めていると、その愛らしく健気な姿に癒される。
だから昼休みには、いつもここに顔を出すのだ。リファルの観察はおまけだ。
しばらくそんな二人を眺めていると、ずるずるとドアの向こうから、何やら引きずる音が近づいてきた。
最初に聞いた時には何事かと思ったが、今はもう、分かっている。例の懲罰少年たちだ。ドアを開けてやると、
「洗濯、終わりましたー」
「乾いたヤツ、取り込んできましたー」
「あら、ごくろうさま。籠はいつものところに置いておいてくださる?」
ヴェスさんがにっこりと微笑みながら言うと、少年たちはうなずき、籠を部屋のすみに引きずっていく。
「……どうですか、あいつらは」
「最初はどうなることかと思いましたけれど……今は頑張ってくれていますよ」
ヴェスさんは微笑みを浮かべたまま、うなずいた。
「男の子に赤ん坊の世話をさせるなんて、そんな考え方、聞いたことがなかったものですから。正直に申しますと、不安でした。でも、ただの心配のし過ぎでしたね」
「それはよかった。さすが子守りの専門家ですね」
「……いいえ? ムラタさんがおっしゃったんですよ?」
少年たちが、干したばかりのおむつを手にすると、むずかっている赤ん坊のおむつを確かめ始めたのを見ながら、ヴェスさんは続ける。
「子守りなんてやったことがない連中だから、失敗しても咎めないで、コツだけを辛抱強く教えて、少しでもできたらほめてやってほしい――ムラタさんのお願いを聞いたとき、まるで幼子を見守るようなやり方だと思いましたけれど、おっしゃる通りでした」
少年が一人の赤ん坊のおむつを交換し終えると、その子を抱き上げてあやしながらこちらを見てきた。ヴェスさんがにっこり微笑んで礼を言うと、少年は少しだけ得意そうな顔をして鼻をこすった。
「私、あの子たちに何もあげていないのですよ」
ヴェスさんが、近くのベッドでむずかり始めた赤ん坊を抱き上げながら言った。
「躾けるときにはアメとムチ――それがよく言わることですけれど、あの子たちは、なにも欲しがらないのです。私はただ、ムラタさんがおっしゃったように、ほめてあげているだけなのに。それなのに、あの子たちは黙々と働くのです。やはり、神の家で育つ子供というのは、違うのですね」
ヴェスさんの物言いに、俺は思わず苦笑する。
「……いや、どこで育とうと同じですよ」
連中は、シュラウトやミュールマンに扇動されたとはいえ、リノの肌に手を掛けようとしたクソ野郎どもだ。神の家で育つだけでよくなるなら、そもそもこんな罰を食らっていない。
そうだ。
いくらリノがワンピース一枚の無防備な少女だったからって、絶対に許さない。
……許さないが、だからこそ安易に罰を与えて濁すより、真っ当な人間に改造したくて、今回の罰を考えたんだ。
「あの連中は、清貧を旨とする神の教えの中で、我慢と感謝ばかりを覚えさせられて、おそらくほめられた経験が少なかったんですよ。だからです、きっと」
「……そういうもの、ですか?」
「ええ。だからヴェスさんにほめられることが嬉しくて、ああやって自分から動くんじゃないですか? ただ、あの年頃なんで、聞いたところで、素直に認めるかどうかは分からないですが」
俺は一人っ子だったから、いろいろ自由にさせてもらえた。ものづくりが好きになったのも、家であれこれ工作をしては、母親にほめてもらえたってのも大きかったと思う。
大学の心理学などでも学んだが、やっぱり自分のことを認めてもらえる――自己肯定感を養うってのは、特に子供の頃は大事だろう。自分にはこれがある、という確かな
「……ひとは、ムチがなくとも変われるのですね」
「認めてもらえる実感と喜びのほうが、ムチなんかよりもよっぽど人を変えると思いますよ」
子守りのプロフェッショナルであってもアメとムチの発想だった――ひそかに驚いたが、日本だって「愛のムチ」などと称した体罰は、結構最近まであったんじゃないだろうか。
――いや、なくなっていないと思う。児童虐待の基本は、「愛のムチ」のエスカレートだった気もするし。
「……ムラタさんは、すごい方ですね。なんだか私、いままでの自分のやり方に自信をなくしそうです」
――彼女は子守りのプロだ、間違いなくただの社交辞令。
でも、どこか少し寂しげな微笑みに、俺は思わず、ヴェスさんの手を握ってしまっていた。
「なに言ってるんですか。リノがあの連中に酷いことをされたとき、彼女が俺にも言えなかったことを、ヴェスさんが聞き出してくれたんですよ? それだけでも、俺とリノにとって恩人ですよ。ヴェスさんは間違っちゃいません」
「え、あ、……でも」
目を白黒させるヴェスさんに、けれどここまでやってしまったのだからと、破れかぶれ気味に訴えた。
「俺の言ってることなんて、ただの理想論ですから。今回は、あいつらがちゃんと反省してるから上手くいってるだけです。なにより、ヴェスさんが俺の意図を分かってくれて、あいつらのために辛抱強く寄り添ってくれたからですよ。すごいのはヴェスさんです」
「は、はあ……」
困ったように微笑むヴェスさんの顔に、俺は今さらのように慌てて手を離したときだった。
「大丈夫です、コイシュナさん。まだ時間はありますから」
「でも――」
「洗い物ならオレに任せてください!」
リファルが、汚れたおむつを入れた
「おう、ムラタ。オレ洗濯してくるから、もし遅れても気にすんな」
通りすがりに耳打ちをしてゆく。
おい、お前は自分の本業を
鼻歌交じりに部屋を出て行ったリファルに、俺はヴェスさんと苦笑しあった。
「……ほら、大人でもあんな感じです。ほめられると、人間、その気になって変わるものですよ」
窓の向こうで、まるでスキップでもするように、中庭の井戸まで軽快な足取りで向かう
「あいつ、子育ての手伝いなんて男の仕事じゃない、そんなことをやらせるのは正気の沙汰じゃない、といった剣幕だったんですけどね。コイシュナさんにいろいろほめられたおかげでしょう」
そう言って笑うと、ヴェスさんはリファルとコイシュナさんを見比べるようにしながら、なぜか苦笑いをしてみせた。
「本当に、それだけでしょうか……?」
「そんなもんですよ。男なんて単純ですから、それだけで変わりますよ」
軽く返してみせたが、ヴェスさんは苦笑いを浮かべたままだった。
なにか違うのだろうか。頬をかきながら、コイシュナさんの方を見る。
彼女は、むずかる赤ん坊を胸に抱き、その背中を軽く、ぽん、ぽんとリズムを刻むようにして叩きながら、窓の外をじっと見つめていた。
なんとなく、微笑みを浮かべるようにして。
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