第608話:子供の幸せは街の幸せに

「監督⁉ こんな昼間から、どうされたんですか? その抱えている布の束は?」


 リヒテルが俺たちを見て驚いた。


「大変ありがたいことに、赤ん坊たちのおむつの寄付だそうです」


 ダムハイト院長の紹介を受けて、俺が続ける。


「そろそろ傷んでいるおむつが目立ってきていたからな。とりあえず、うちの女房たちが近所からかき集めてきたおむつだ。お古だけど、状態がいいものを選別したつもりだ。全部で五十枚くらいあるから、使ってくれ」

「ああ、ムラタ様! それから奥様も! いつもありがとうございます!」


 ヴァシィが満面の笑顔で振り返り、頭を下げた。

 俺は抱えていた布の山を、洗って干したおむつを入れるかごの中に放り込む。リトリィが、それを整えてくれた。


「監督、いつもすみません」


 リヒテルが、赤ん坊のおむつを交換しながら頭を下げた。彼はもう、塔の現場には来ない。最近はずっと、この孤児院の赤ん坊の面倒を見ている。だから彼から監督と呼ばれるのは、少々くすぐったい思いだ。


 ──と、思ったときだった。

 何の運命のいたずらだろうか。


「ぷわっ⁉」


 赤ん坊が、盛大に水門を解放する!

 真正面から顔面に鉄砲水・・・を食らうリヒテル。

 驚くダムハイト院長。

 悲鳴を上げて雑巾を手に取るヴァシィ。

 手ぬぐいを手に走るコイシュナさん。

 リトリィも、持って来たばかりのおむつを手に慌てて走る。

 そして、「あらあら」と微笑むヴェスさん。


 雑巾で恋人リヒテルの顔をぬぐってしまったことに気づいてさらにパニックになるヴァシイを、コイシュナさんがなだめて手ぬぐいを渡す。


「……お見苦しいところを」

「相手は赤ん坊です、よくあることでしょう? むしろ健康な証拠です」


 ハンカチで冷や汗を拭く院長だが、リヒテルにおしっこをひっかけた当の赤ん坊の笑い声が、実に微笑ましい。


「赤ん坊たちの声も、にぎわしくなってきましたね」

「騒がしいと感じられるようでしたら……」

「いえ、赤ん坊ですよ? 静かでいるより何倍もいいですよ」


 俺の言葉に、院長は長いため息をついた。


「……私は、長いこと神の止まり木を自負し、子供たちを導かんとてこの孤児院を運営してきたつもりでした。ですが、私のしてきたことは……」

「子供たちの命を守り、繋いできたんですよ? それ以外に何があります?」


 俺の言葉に、院長は目を見開いた。


「いえ、ですが私は、無知のまま、多くの子供たちを……」

「院長先生、あなたは自分の信じる道を貫き、子供たちのためにと生きてきた。今もあなたの肩には、たくさんの子供たちが乗ってるんですよ? この子供たちを幸せにして送り出せば、街の幸福度もまた、上がるってものです」


 院長が、目を泳がせる。

 その先には、ベッドに並ぶ、たくさんの赤ん坊。

 親から、様々な事情で手放された子供たち。


 そうだ。だからこそ、この子たちには幸せになる権利がある。


「俺も、今回は本当にいい仕事をさせてもらえました。いろいろと知ることができましたからね。これからも子供たちのために、一緒に頑張りましょうよ。大工としての力が欲しければ、いつでも声をかけてください」


 彼はしばらく目をしばたたかせていたが、「……ええ、よろしくお願いいたします」とだけ言うと、部屋を出て行った。


 視線を赤ん坊たちに戻すと、リヒテルの頭をヴァシィが拭き終えたところだった。小便臭さは洗ってこないとどうしようもないだろうに、二人は顔を見合わせて笑っている。


「あの二人、新婚さんみたいだな」


 俺の独り言に、ヴェスさんが微笑んで答えた。


「ふふ、あと何カ月か経てば、そうなるのでしょうね」

「そうなったら、一年足らずほど経つとヴェスさんの部下が減って、困ったことになるんじゃないのか?」

「それはそれです。幸せが増えることは、良いことですよ」


 ヴァシィが『恩寵おんちょうの家』で働くようになったのは、リヒテルの働きかけがあったからだ。あのおどおど少年がナリクァン夫人相手に啖呵たんかを切ったときには、本当に驚いたものだった。


『ぼ、僕は! 彼女を! 幸せにしてみせます!』


 ナリクァン夫人と会見し、ゲシュツァー氏の孤児院や工場で保護し、収容した子供たちの今後について話し合っていたときだった。一緒に連れてきていたリヒテルが暴発したのだ。


 が、なにせリトリィの後見人を自認し、リトリィを泣かせた俺をにこやかに拷問にかけたナリクァン夫人だ。ピシャリと言葉で張り倒した。


『銅貨一枚も自らの力で稼ぐ力のない子供が、人を幸せにするですって? 彼女は十分に傷ついてきました。そのうえあなたのような傲慢な男に任せるなど、正気の沙汰ではありません』


 いや、もともとはこの話が終わってから、個人的な話として、ヴァシィの処遇を相談しようとしていたのに、リヒテルが先走っちゃったんだ。

 おまけに、リヒテルときたら俺の入れ知恵をすっかり忘れてそう言っちゃったんだけどさ。うろたえておろおろするものだから、俺がちょっとだけサインを出して援護して、やっと言えたんだけど。


『だ、だったら! 彼女と一緒に幸せになれるように……いや、彼女の子と三人で幸せになれるように、これから一緒に努力していきます! 僕は彼女たちと、これからずっと一緒に支え合って、一緒に生きていきます!』


 自分と血のつながらないヴァシィの子とともに生きる、という宣言。

 それを聞いて、俺を見て苦笑いしたナリクァン夫人。

 夫人は、ヴァシィとリヒテルがもともと想いを寄せ合ってるって知ってて芝居を打っていたわけだけれど、まさかあっさり、夫人が求めている答えを言われるとは思ってなかったらしい。


『そこの大工さんに入れ知恵されましたね?』


 あっさり見破られた。

 でも、孤児院出身のリヒテルだからこそ、その言葉にはきっと重みがあったはずなんだ。血のつながりだけに依らない、愛のかたちに。


 で、リヒテルの身分は、即日、ナリクァン商会の丁稚でっちとなった。

 何の仕事かといったら、つまりこれだ。


 子守女中ならぬ、子守中。

 ヴェスさん付きの見習いとして、リヒテルとヴァシィは、孤児院『恩寵おんちょうの家』の赤ん坊たちの世話をする、ベビーシッターとなったのだ。


 男の子が子守りの仕事に就くってのは、ナリクァン夫人に言わせれば前代未聞らしい。だが、すでに『恩寵おんちょうの家』では、俺のリノに不埒ふらちな行いをしようとしたクソガキどもが、更生活動の一環として、赤ん坊の世話をやっている。


 ヴェスさんから、男であっても一定の成果が見込める、むしろ力仕事が多いから男手があると助かるという報告が上がっているそうで、だからナリクァン夫人は、リヒテルとヴァシィの二人の生活を保障する手段として、二人まとめて子守りにさせることにしたのだとか。


『ヴァシィには乳飲み子もいます。まとめてお世話できればちょうどいいでしょう』


 さすがナリクァン夫人。商売人として計算高い。


「……それにしても、やっぱりこれだけ赤ちゃんが集まると、にぎやかですね」


 リヒテルにおむつを渡してきたリトリィが、ベッドに並ぶ赤ん坊たちの姿を見て微笑んだ。


「うちもいずれ、こんなふうににぎやかになるんですね」


 今、マイセルとフェルミが妊娠中で、この夏には出産だ。そうしたら、子供がいきなり二人増える。もしまたすぐにマイセルが妊娠するようなことになれば、来年にはさらに増えるわけだ。たしかに、うちもこうやってにぎやかになっていくのだろう。


 いや、今でこそにぎやかな『恩寵おんちょうの家』の赤ん坊たちだが、初めて見たときには不気味なほど静かだった。この部屋には赤ん坊がたくさんいるのに、笑い声も泣き声もほとんどないという、異様な空間だった。


 やっぱり、泣いたときに反応してもらえるかどうかというのは、赤ん坊の成長でとても大事だったんだろうな、と思う。こんなに劇的な変化を見せられると、俺も子供が生まれてきたら、喜怒哀楽を全力で示しながら子育てしないと、と思わされた。


「監督、もう帰られるんですか?」

「ああ、まだ回るところがあるから」

「お疲れさまです! また遊びに来てくださいよ!」


 赤ん坊から小便をかけられたのに、怒る素振りを全く見せず、むしろその赤ん坊を抱き上げているリヒテルが、笑顔で礼をする。隣のヴァシィも、そろって礼──右手を上げてみせた。


 あの、気が弱くて同じ孤児院の収容児童からカツアゲされるようなありさまだった少年が、ずいぶんとたくましくなった。

 大工として働いてもらおうと思っていた予定が狂ったけれど、彼がこの道を、大切なひとと共に歩もうというなら、それをさえぎる道理はない。


 辛い経験をしてきたぶん、きっとひとに優しくできる二人になるだろう。

 二人で支え合って、子供たちの行く末を照らす光となってほしいと願う。


「ムラタさん」


 部屋を出る直前に、ヴェスさんに声を掛けられた。

 振り返ると、彼女は深々と礼をしてみせてから、言った。


「奥様を、大切に」




 孤児院を出たリトリィは、なんだか奇妙な空気をまとっていた。

 嬉しそうな、けれどそうでもなさそうな。


「……どうした?」

「あの、ヴェスさんというかた」


 リトリィが、孤児院を振り返る。


「……あなたのこと……」


 リトリィは言いかけて、しかし口ごもった。そのまま、何も言わずに俺の左腕に、体を寄せる。


「……ヴェスさんが、どうかしたのか?」


 聞いてみたが、リトリィは小さく首を振ると、小さく微笑んだ。


「だいじょうぶです。わたしはおこったりしてませんよ? だんなさまが、よそで意味もなく種をまいてくるはずがありませんもの」


 ……なんか怒ってるぞ、それ! 間違いなく!

 ていうか、なんでそうなる⁉ それじゃまるで、俺が浮気したみたいじゃないか!

 俺は潔白だぞ⁉


「ふふ、もちろん信じていますよ。言ってみただけ、です」


 あーもう!

 可愛いこと言いやがって!




「それで結局、事業継続に文句はないと?」

「事業そのものの継続には」

「……言わんとしていることは分かるとも。まったく、ナリクァン夫人どころかフェクトール公まで動かして脅しかけてくるのだから、信じがたい人脈だ」


 ゲシュツァー氏は、ソファーに身を沈めるようにしてため息をついた。


「それよりももっと信じがたいのは、私の事業を潰すどころか、むしろ発展を促すような提案をしてくることだ。君は、私が憎くないのかね?」

「俺は、あんたの理念自体には賛同してるんだ」


 俺は、お茶のカップを戻しながら言った。


「ひとを育てることは街を育てること……あんたはそう言った。あんたの経営する救児院は、まさにそのためにあると。俺はそこに、学校の可能性を見出したんだ」

「学校?」


 ゲシュツァー氏は片眉を上げた。


「前にもそんなことを言っていたね、君は。だが私は、神学者なんぞ育てるつもりはないぞ?」

「俺が言っている学校ってのは、生きるための技術を学ぶ学校だ。読み書き計算や正しい知識を体系的に学び、体を鍛え、自立できるひとを育てる、そんな場のことだ」

「そんなもの、親が面倒を見るべきことだろう?」

「でも読み書きなんて、一般家庭の親が教えられるものなのか? 俺は少なくとも、この街で使われている文字については、多少は読めてもいまだに恋文一つ、満足に書くことができない」


 ゲシュツァー氏は、じっと俺を見つめる。


「……君と会話をしていると、とても教養が無いようには思えないのだが?」

「俺の生まれ育った故郷には、読み書き計算や一般常識、高度な知識の土台となる学問を教える『学校』があってね。人生の半分以上、そこで過ごしてきた」

「人生の、半分以上、だと?」


 ゲシュツァーが、さすがに身を乗り出すようにして驚いてみせる。

 幼稚園から大学卒業まで、一般的なケースをストレートで進めていくと十九年間。それが、日本が子供の教育にかける期間。


「俺の例はともかく、子供たちが読み書き計算と、一般的に知っておいた方がいいこと、それを共同で学べる場を作ったら、子供たちはより一層役に立つ人間になり、また自立して生きていけるようになるだろう。そうしたら、三十年後……いや、百年後には、街はもっと豊かになると思わないか?」

「……ばかな、そんな遠大な……」

「それをやってきたのが、あんただろ?」


 俺が笑ってみせると、ゲシュツァー氏は首を振った。


「私は、なにもそこまで……」

「あんたは優秀な働き手となる子供を育ててきた、その自負はあるんだろう?」

「それはもちろん……!」

「食べていくための技術を身につけた子供たちを、あんたは三十年間送り出してきたんだ。ずっと工場内で働かせてきたひとたちには、社会性を身につけるための別の教育が必要だろうけど、いま救児院にいる子供たちは、もう少しだけ、身につけることを増やすだけだ。簡単だろう?」

「簡単なわけがないだろう」

「大丈夫さ。あんたは三十年かけて、子供たちを育ててきたんだから」


 俺は立ち上がると、窓のほうに向かう。

 窓の向こうには、三番街の活気あふれる街の様子が見える。


「事業のための効率全振りだったのを、もう少しだけ、ひとを育てる方向に向かうだけだ。誰もが、自分らしく生きることができる──そのためには、生きるための力を身につける必要がある。あんたがやってきたことを、自分の事業だけで独占するのをやめて広く街に解放することで、あんたは未来の顧客を作ることにつながるんだぞ」

「誰もが、自分らしく生きる、だと……?」


 夢物語にすぎん──そうため息をつくゲシュツァー氏を、俺は真っ向から否定してみせる。


「夢物語なんかじゃない。子供たちは未来の街の住人だ。子供たちが自立して生きていけるようにするのは、子供たちの幸せのためで、それはそのまま未来の街の幸せのためになる。そうすれば、あんたの事業も間違いなく成長する」


 俺の言葉に、ゲシュツァー氏は苦笑すると首を振った。だが、あきらめたような微笑みを浮かべると、カップに手を伸ばし、ひと口すすった。


「……大袈裟な話だ。だが、どうせその話に乗らぬと、またナリクァン夫人とフェクトール公の力で圧迫してくるつもりなのだろう?」

「従業員と孤児院の、例の待遇に関する改善が無ければの話で……」


 言いかけて、ふと、気づいた。


「というよりも、どうして売春を斡旋して、結婚を斡旋しないんだ? 従業員には男も女もいるんだろう? 欲望うんぬんは分かるけど、結婚を斡旋すれば解決するじゃないか。そうだ、結婚相談所を作ろう! ゲシュツァー結婚相談所! うん、それがいい!」

「……は?」


 目が点になったというか、ハニワ顔になったゲシュツァー氏に、俺は結婚のすばらしさを、拳を振るって熱弁した。

 彼にだって、可愛らしい双子の娘さんがいるんだ。亡くなった奥さんに捧げた愛情を思い出させれば、売春させるより結婚させた方がいいって気づくはず!


 気が付いたら、目の前には苦笑いを浮かべてぐったりしているゲシュツァー氏、そして隣ではリトリィが、真っ赤な顔をしてうつむいていた。

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