第607話:戻って来た幸せに

「おつかれさまでした、だんなさま」


 青い月の光が差し込む寝室で、リトリィが微笑む。


「でもムラタさん、せっかくがんばったのに、あのひとのやったことは、あんまり問題にならなかったんでしょう? お話を聞く限り、もうちょっとなんとかできなかったのかなって、なんだか悔しいです」

「俺たちは別に無法者ってわけじゃないからさ。それでも、かなりぎりぎりの、危ない橋を渡ってたんだぞ? もし地下室が見つからなかったら、俺たちが訴えられていたかもしれないんだからな」


 そのあたりは、門衛騎士のフロインドさんが奴隷商人の足取りを追っていたときに「限りなく黒に近い灰色」としてマークしていた、当時の資料を見せてくれたおかげだ。あれがあったから、あの工場には絶対に何かがある、と当たりを付けて襲撃できたのだから。


「みんなが協力して追い詰めてくれたおかげだ。なにより今回は、フェクトール公の力を借りることができたのが大きかった。あのおかげで動きに大義名分ができて、冒険者ギルドや巡回えいをも動かせたんだからな」


 協力を得る前の二時間くらい、赤ん坊と愛妾あいしょうたるミネッタの惚気のろけ話に付き合わされたけどな!

 今はまだ愛妾のミネッタだけど、いずれは公妾こうしょうにできるようにするつもりだなんて言ってたから、まずは正室をもらってからにしろとは釘を刺しておいたが。


 それにしても、貴族ってのは恋愛なんてものにはもっとドライで、家と家との同盟関係のために結婚するもんだとばかり思っていたから、フェクトール公の言動には驚かされっぱなしだ。いつか勘当されないか、あいつ。


『君に言われたくはないな。一人の女のために貴族の館を潰しにかかる市民なぞ、聞いたことがない。……まあ、今の私なら、君と同じことをしただろうがね』


 ……いいんだよ。俺のことなんて。


「それにしても、今回は本当に、いろんなひとに力を借りてしまったな。借りを返すのが大変だ」

「いいんですよ。みなさん、だんなさまを信じて、だんなさまを助けたいって思って動いてくださったのですから。だんなさまの、これまでのおこないのおかげです」


 リトリィにそう言われると、一番歯がゆいんだよ。

 俺は今まで、何度も何度も君を泣かせてきたんだ。

 そんな俺の行いにみんながついてきてくれただなんて、到底思えない。


 結局は、ゲシュツァー氏の事業の一部でも取り込もうともくむナリクァン夫人の思惑と、

 俺の背後で動いているナリクァン夫人に、売れるだけ恩を売っておこうとするフェクトール公の思惑と、

 娘を嫁に出した相手に潰れてもらっては困るマレットさんの思惑と、

 あとは諸々の思惑が絡み合って、今回の大動員に繋がっただけなんだと思う。


 俺個人の影響力なんて、とっかかりの爪の先程度しかなかったはずだ。だからこそ、結局はゲシュツァー氏の事業自体にはおとがめがほとんどなく、今日も彼の良心に訴えかけることしかできなかったんだ。


「そんなこと言わないで、ムラタさん!」


 マイセルが首を振ると、俺の手を取る。その手を彼女自身のお腹に当てて、マイセルは真剣な目で訴えてきた。


「私たちは、ムラタさんのことを信じてます。今回のことだって、ムラタさんはこの子のために、街を、未来を変えたいって思ったんですよね? そんなムラタさんの気持ちが伝わったから、お手伝いしてくれたんですよ。きっとそうです」


 出産の予定まであとふた月もないマイセルの白く大きなお腹は、青白い月の光を受けて、光り輝くようだ。

 そのお腹の中に、街の未来を担う、新たな命が宿っている。

 俺とマイセルとの──俺たちの家族で初めての、子供。


 それがあったからこそ、孤児院の子供たちの姿を通して、今回俺は、街の未来をより明るいものにしたいと願った。

 だから孤児院の改装に取り組んだし、消毒用アルコールの蒸留を提案したし、理不尽な扱いを受けていた女の子を救いたいと考えた。

 ナリクァン夫人を巻き込んでスポンサーになってもらったし、果ては貴族まで取り込んで、自分自身はろくに戦えないくせに突入作戦を立てて、それを決行した。


「だんなさまのよいと思うようになさってください。わたしたちは、どこまでもだんなさまについていきますから」


 そう言って、リトリィが頬をなめてくる。

 わたしは、あなたのリトリィですよ──いつもそう言ってくれて、だけど俺の操り人形というわけでもなく、むしろ納得できないことは真正面から反対してくる、まさに人生のパートナーたらんとする彼女。


「リノちゃんだって、こんども大活躍してくれましたから。みんな、だんなさまのことがだいすきで、だからだんなさまの助けになりたいんです。だんなさまが、みんなのために動くことをだいじにするかただって、みんな、知っていますから」

「い、いや、それは結果的ってだけで、俺は……」

「ムラタさん、お姉さまが一生懸命、ムラタさんのことを大好きって言ってるんですよ? それを否定するつもりなんですか?」


 マイセルが、上目遣いで微笑む。

 思わずリトリィを見返すと、彼女は頬を染めて、ぱたぱたとせわしなく耳を動かした。ぱさぱさと、ふかふかのしっぽが揺れている。


 ……ああ、そうだ。彼女たちの想いを否定してどうするんだ。

 彼女たちだって、共に築く幸せのために、努力してくれたんだ。

 まずはそれを労うべきなのに、どうして俺は、自分の至らぬことばかりを口にしてしまうんだろう。

 ようやく戻って来た幸せを前にして。


「ムラタさん? また深刻そうな顔、してますよ?」


 マイセルが、俺の顔をのぞき込む。いたずらっぽい笑みを浮かべながら。

 リトリィが、リノを見て恥じらいながら、けれどしっぽと腕とを絡めるようにして、微笑んだ。


「だんなさま。リノちゃんももう、すっかりねてしまいましたよ? ここからは、おとなの夫婦めおとの時間だと思いませんか?」




「つめたーい!」


 今朝もリノとのモーニングルーチン後の水浴びだ。

 といっても、春も過ぎて初夏と言ってもいい季節。

 氷のように冷たかった井戸水は、かろうじて気持ちいいというレベルに感じられるようになった。


 きらきらと朝日の中で輝く水しぶきをまとう、ややふっくらしてきたリノの白い肢体がまぶしい。


「えへへ、だんなさま! 昨日はうれしかったよ!」

「なにがだ?」

「昨日、一緒に寝てくれたでしょ!」


 約束だったからな。

 昨日、ゲシュツァー氏と面会するにあたって、「遠耳の耳飾り」を身に着けて臨んだんだ。


 リノにはナリクァン夫人のもとで、俺の見聞きしたことを全て伝えてもらった。

 俺の言葉も、ゲシュツァー氏の言葉も。

 もちろんその情報は、きちんと記録に残されているはずだ。


 大変だっただろう、彼女が聞いた二人分の会話を、すべてナリクァン夫人に伝えるのは。

 だから、リノには協力を求めるにあたって、一つ条件を出したんだ。

 俺にできる範囲内で、なにか望む物はあるか、と。


 それで彼女が望んだのが、一晩の添い寝だった。

 彼女は、ほぼ悩むことなく答えたんだ。


『ボクが欲しいもの、もうみんな、だんなさまからもらってるから。だからなんにもないけど……もしくれるなら、ボクと一緒に寝てほしいの。一晩だけでいいから』


 だめ……? と上目遣いで聞かれて、だれが駄目だと言えようか!


 よほど精神的に疲れたのか、結局リノは夕食もうつらうつらと舟をこぎながらだったし、ベッドに連れて行けば微笑みを浮かべたまま、すぐに寝入ってしまったのだけれど。


「だんなさま、これからはもう、一緒にお仕事できる?」


 耳をぴこぴことせわしなく動かしながら問うリノに、俺は大きくうなずいてみせる。


「ああ、もうこれからは塔の仕事に専念するつもりだから。またリノと一緒に、お仕事だ」


 歓声を上げて飛びついてきたリノを抱き上げる。

 こうして、なにも悩まなくて済む朝を迎えるのも久しぶりだ。

 ようやく家族で過ごす幸せが戻って来た──そんな気がする。


「……大きくなったな」

「えへへ、お姉ちゃんたちのごはん、おいしいもん!」

「そうだな。リトリィたちの飯は、街一番だ」

「ボクもお料理覚えて、だんなさまに作ってあげれるようにするから!」

「そうか。大工仕事に加えて料理まで覚えなきゃならないなんて、大変だな?」

「お嫁さんなら、できて当然でしょ? ボク、がんばる! もっともっと、だんなさまのお役に立つから!」


 猫のようにしなやかなしっぽを振りながら、リノが頬をなめてくる。

 ざらざらした舌が、少々刺激的だ。


「あ、だんなさま! シェクラの実って、いつごろ食べれるの?」


 庭の隅にあるシェクラの木には、赤く染まり始めた実が鈴なりだ。


「……そろそろだな。あの実が真っ赤になったら、マイセルがきっとおいしいパイを焼いてくれるぞ」

「わあい! ボク、楽しみ!」


 リノが俺の腕から飛び降りると、シェクラの木の下に駆けてゆく。


「シェクラのパイ! シェクラのパイ! 早く真っ赤にな~ぁれっ!」


 木の下でぐるぐるまわりながら、リノが妙な節をつけて歌っている。


 けれど、なんて幸せそうな笑顔なんだろう。

 あの、孤児として生きてきて、すさんだ目をしていた少女が。

 彼女たちを手元で育てると決意して、本当によかったと思う。


 駆け戻ってきて飛びついてきたリノを再び抱き上げながら、俺は心の底からそう思えた。

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