閑話⑪:リトリィとマイセルと(1/2)

「ムラタさん、リトリィ姉さま! こんにちは!」


 ……マイセルはときどき、絶妙に困るときにやってくる。

 俺が慌ててリトリィから離れた際に、壁にぶつけた頭を抱えてしゃがみ込んだのと、リトリィが急いで奥に引っ込んでいくのと、元気な笑顔が大量の野菜を抱えてドアからのぞき込むのが、ほぼ同時だった。


「あれ? ムラタさん、お風邪を召されたんですか?」

「……多分、風邪は、後頭部が痛むことはあんまりないんじゃないかな?」

「もし風邪でしたら、ワインに卵とはちみつとすりおろしたショウガを入れて飲むといいですよ?」


 ……人の話を聞かない娘だ。まあ、そんなところも可愛いんだけどな。


「いや、風邪じゃないんだ、大丈夫……」

「お姉さまは? お姉さまはどちらにいらっしゃるんですか? この前教えてもらった刺繍、どうしても上手にできなくって、教えてもらいに来ました!」


 こちらの反応を全く気にせずマイペースに要件を伝えるマイセルに対して、反射的に、リトリィが引っ込んだ奥を指さしてしまう。

 ありがとうございます、と大きくぺこりと頭を下げると、マイセルは元気よく奥に向かい――


「お姉さま、どうして裸に腰エプロンだけなんですか?」


 リトリィの悲鳴と、無邪気に質問するマイセルの声が聞こえてきた。

 ……ごめんリトリィ。




 リトリィが作ってくれた手本帳を見ながら、石板にロウ石で文を書いていく。


 リトリィの字は、ナリクァンさん曰く、お手本のように整っているらしい。遊びがなく、もう少し装飾を入れると優雅なのですけれど、とのことだが、とにかく「綺麗な字」なのだそうだ。

 もっとも、ペリシャさんに言わせれば、庶民、それも山育ちの彼女が文字を読めて、しかも書けるというのは、にわかには信じがたかったそうだが。


「わたくしも、主人に教わるまでは書けなかったのですよ」


 さすがにこれを聞いた時は、ツッコミを入れざるを得なかった。

 ――なんでこの世界の住人であるペリシャさんが書けなくて、この世界に転移してきた瀧井さんに教わってるんだ。ていうか瀧井さん、あんたほんとに何者だ。


「何者とはなんだ。外国に放り出されたなら、その国の言葉を覚える。それしか生きる道はなかろう?」


 ……戦前の教育水準で、戦争に行くまで大学で農業の研究をしていた、というだけあって、たしかにそのエリートぶりは本物だった。


 同時に、この世界の教育水準もうかがい知れた。

 庶民にあっては、読めること自体、それなりに高度な教育を受けている証拠で、さらに書けるとなると多くはない、ということだ。


 それはつまり、リトリィの母親代わりになって彼女をしつけ、育てた女性――ジルンディール親方おやじどのの奥さんは、少なくともただものではなかったということでもある。


 まあ、そのおかげで俺はリトリィから文字を学べるわけで、色々と感謝しかない。

 しかし、音と文字がほぼ一致していた日本語と違い、若干、音と表記にずれがあるのが手ごわい。それでも、英語のようにズレまくっているわけでもなく、なんというか、日本の古典――歴史的仮名遣い程度、多少の音便おんびんくらいで収まっているのがまだマシというか。


 そうやって字の練習をしている俺の目の前では、いずれ俺の妻になるはずの女性二人が、並んで刺繍をしている。正確には、丸いテーブルを囲むように、リトリィの両隣に俺とマイセルが座り、リトリィが俺たち二人の先生役をやっているというか。


 ただ、こうして見ていると、見た目も種属も違うものの、この二人の振る舞いから、どことなく姉妹のように見えてくるから不思議だ。

 マイセルがリトリィのことを「お姉さま」と呼んでいるせいもあるのだろうが。


 リトリィは、山の鍛冶屋では末っ子扱いだったが、唯一の女性ということで、母親のような立場で家を切り盛りしていた。それに対してマイセルは、長く妹の立場にいたためだろうか。ごく自然に、それぞれ姉と妹のような立場に収まっている。


「お姉さま、ここは?」

「そこでいったん留めましょう? 裏から回して、こちらに針を通して――」


 リトリィは、マイセルに教えつつ、自分も新しくこしらえたエプロン――山で使っていたシンプルなものと違って、やたらとレースやらフリルやらの装飾が多い、凝ったもの――に刺繍をしている。


 彼女の頭の中には、刺繍の完成図があるらしい。白い布の上には何も描かれていないのに、驚異的なスピードでつる草が伸びてゆく。マイセルがひと針ひと針、おっかなびっくり進んでいくのとは対照的だ。


「……ムラタさん? 手が止まっていますよ?」


 ――きみの指さばきに、つい見入ってしまうんだよ!

 ていうか、書き取り練習の例文は全部リトリィが考えたものだと思うのだが、ときどき、ひどい。


『わたしは あなたの すべてを あいしています』

『わたしは むらたさんのことが だいすきです』


 ……例文の中にさらりと紛れ込んでくる、通称「恋文」シリーズ。

 二人きりで練習しているときなら、甘酸っぱい気持ちになれるのだが。


『こんやも わたしを たくさん かわいがってください』


 …………。


 マイセルにも見られるんだぞ!

 別の意味で手が止まるよ!

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、リトリィはマイセルと、刺繍の技術で盛り上がっている。


「お姉さま、やっぱり形が変になっちゃう。これじゃ読めないかも……」

「大丈夫ですよ。もう一度布を張り直してごらんなさい? ……ちょっと貸してね?」


 リトリィはマイセルから布を受け取ると、糸を若干抜き取ってから、手直しを入れる。歓声を上げ、そして返されて、笑顔と渋みが混ざったような顔で、再び針を手にするマイセル。


「……ムラタさんも、マイセルちゃんのがんばりが見える刺繍の方が、うれしいに決まっていますから」

「そ、そうですか?」

「そうに決まっています。ムラタさんは、がんばる子を応援してくださる方ですから。知っているでしょう?」


 三年ほどしか年は離れていないはずだが、リトリィの、姉――というより圧倒的なはなんなのだろう。


 マイセルは、リトリィにとってみれば、以前俺に泣いてみせた通り、いずれは彼女にとって強力なライバルになるはずの女の子なのだ。それなのに、こうして手取り足取り、マイセルの刺繍の技術を高める手伝いをしている。


 マイセルのことをライバルだとは思っていても、それでも世話を焼くところに、リトリィの優しさというか気高さというか、ある種の凄みを感じる。


「ムラタさん、見てくださいな。マイセルちゃんのお花、とっても上手にできていますから」

「お、お姉さま待って! まだこんなの、見せられなくて……!」

「大丈夫ですよ。自信を持って。――ムラタさん?」


 たしか、マレットさんやハマーの話だと、マイセルは裁縫などが苦手だったはずだ。どれどれ?


「……なかなか、可愛いじゃないか」


 淡いピンクの糸であしらわれた、小さなバラの花がいくつもある、花束のような意匠の刺繍。


「花の縁取りに、もう少し濃い色の糸を使う予定なんです。そうすると、引き締まった感じが出て、いっそうはなやかになります。葉っぱも同じですね」

「も、もういいです! お姉さま、これでもう十分だから!」

「だめですよ? せっかく作るのですから、もう少し工夫して、見栄えのいいものに仕上げないと」


 リトリィの言葉に、半分涙目になって俺を見上げるマイセル。リトリィが笑顔で針を持たせる。


「がんばりましょうね?」

「ふぇぇえええええっ!?」


 まあ、なんだ、頑張れ。

 生暖かい目でマイセルにエールを送ると、リトリィは俺の手を取り、包み込むようにして、ロウ石を握らせる。


「ムラタさんもですよ? ほら、ここ。つづりをまた間違えています」

「ぐふぅぅううううっ!?」

「がんばりましょうね?」

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