閑話⑩:散髪(栗井 夢飯様に捧ぐ)

この作品を「栗井 夢飯」様に捧げます。(現「𓀤𓀥」さま)


栗井 夢飯様がまだ「きを」様で「クリームパン」だったころ(今もクリームパンですが(笑))にいただいた「ムラタ」の絵から生まれたエピソードです。

やっと公開することができました!

イラストはこちら。

https://kakuyomu.jp/users/kitunetuki_youran/news/16816700426437950696



 * * * * *




「ほら、動かないでくださいませ」


 楽しげな声に促され、背筋を伸ばす。

 そんなことをするつもりはなかったのだが、後頭部が柔らかな弾力あるものに挟まれる感覚。


「……もう。そうやっていたずらするのでしたら、このままにしてしまいますよ?」


 彼女の言葉はたしなめる調子ではあるのだが、それでも、決して不機嫌さは感じられない。むしろ、年長の少女が、年端もいかない少年の世話を、楽しんでいるかのような、そんな声色だ。


「……ふふ、これからは、こうやってあなたの髪を整えるのも、わたしのお仕事になるんですね」


 チャキチャキという軽快なはさみの音と共に、目の前をぱらぱらと髪が降ってくる。


「慣れてるんだな」

「はい。だってお父様の髪もお兄さま方の髪も、わたしが整えていましたから」

「あいつら、どれだけリトリィの世話になってきたんだ……というか、リトリィが山を下りてしまったら、あいつら、生活できるのか?」

「しりません♪」




 リトリィが髪を切りたい、と言ったのは、マイセルをマレットさんの家に送り届けた、すぐあとのことだった。


「ほら、もう髪がだいぶ目にかかっていますから。切りましょう?」


 そういえば、この世界にやってきて、髪など一度も切っていなかった。


 この世界に来る少し前に床屋に行ったばかりだったし、もともと散髪も面倒くさくてあまり好きではなかったこと、顧客を気にしなくていいことも、伸ばし放題に拍車をかけた。

 ついでに言うと、姿見に使えるような大きな鏡も山には無くて、自分の髪型が今どんな状況なのか、気にすることもなかった。


 リトリィなどは、毎朝たらいに張った水を見て髪を整えていたのだから、まあ、俺のズボラなところがこうやって、ほったらかしの髪に表れているともいえるが。


 ただ、確かに洗髪が面倒になってきてはいた。この世界――すくなくとも山には石鹸などなく、灰を溶かした水を使うしかなかった。

 街に下りてきてからは、何やら石鹸代わりに使える木の実――それでも石鹸のように泡立ったりしないが――を水に浸し、その水で髪を拭くくらいだ。


 だが、実は人間、髪を状態が、本当の姿なのかもしれない。

 この世界に来て、最初のひと月ほどは、確かに髪が脂まみれになるのが気になって仕方がなかったのだが、二カ月もすると、気にならなくなってしまった。


 確かに「シャンプーの香るサラサラヘアー」などというものではなくなった。

 けれど、どうも体が環境に適応したというか、逆にこれまでの日本での暮らしが「脂を落とし過ぎていた」ために過剰に脂を分泌する体質になっていただけなのか――確かにサラサラヘアーではないものの、しっとりと、落ち着いた髪になってきたのだ。


 昔、女性のつややかな黒髪を褒めるのに「カラスの濡れ色」などという表現があったが、まさにこの状態なんじゃないかと思う。適度に髪に脂分がいきわたり、ベタベタするでもない、しっとりとまとまった状態。


 俺の髪の脂っ気が落ち着いてきたころには、リトリィも俺の髪の匂いをかいで、嬉しそうにするようになった。まあ、仲良くなった、というのが原因として大きいのだろうけれど。




 チャキチャキ。

 リトリィのはさみさばきは、俺がよく行っていた床屋と比べて、なんら遜色を感じない。親方や兄貴たちの髪を整えていた経歴は、伊達ではないということか。


「そういえばムラタさんは、髪に香りを付けないんですか?」

「……付けるものなのか?」

「おしゃれな男性というか――ときどき工房にいらっしゃる方のなかには、そうされている方もいらっしゃいます。香水とか、香を焚き込めるとかして」


 ……日本にいたころは、ヘアトニックを付けたりもしていたが、まあ、床屋を面倒くさがる俺だ。汗をかきやすい夏に使っていたくらいで、あとは大して使ったことがなかった。


「……そうだなあ……、まあ、いらないよ。どうせ、街の人もあまり使っていないんだろう?」

「そういうと思っていました」


 そう言って、リトリィは俺の後頭部に鼻を押し付ける。


「ふふ、……あなたのにおい。いいかおり……」


 人は、側頭部の下――耳たぶの裏のくぼんだところあたりから、その人の匂いが発せられやすいのだという。日本にいたころは体臭管理として、そこと首の後ろ、脇などは重点的に洗っていたものだ。


 だが、実はリトリィのお気に入りもそこで、彼女いわく、彼女の調次第では「くらくらするほど」俺の匂いを堪能できるのだとか。いつも、夜の行為の時にはとくにすんすんと鼻を鳴らし、嬉しそうにしている。わんこスタイルだけに、気に入った匂いにはこだわるのかもしれない。


「ムラタさんは、あまり髪を伸ばされないんですよね?」

「……まあ、面倒くさいからな」

「面倒くさいから、ですか?」


 彼女がくすりと笑う。


「お兄さま方と一緒ですね」

「なんだ、アイネたちと俺、同レベルなのか」

「ちゃんと理由はあるんですよ?」

「火花で焦げるからか?」

「それも正解ですけど、髪が長いと、やっぱり作業を終えたあと、後始末が面倒らしくて」


 ――ああ、そうか。納得する。

 あれだけ火の側で作業をしているのだ、汗もたくさんかくだろう。

 髪が長いと、手入れも面倒くさくなるに違いない。


「……でも、リトリィは髪を長く伸ばしているよな?」


 腰まである、長くつややかな、金の髪。

 実は長すぎて、彼女を抱くとき、絡まったり引っ張ってしまったりして、彼女を困らせる原因になってもいるのだが。


「……短い方が、お好きですか?」


 声のトーンがやや沈む。


「いや、俺は長い方が好きだ」


 間髪入れずに答えると、嬉しそうに答えた。


「よかった……。長い髪は女の誇りだって、お母様がいつもおっしゃっていましたから」


 そういえば、親方の奥方が、彼女を「一人前の女性」として躾けたんだっけ。胸を患って亡くなったんだとか。


 チャキチャキ。

 しばらく、はさみの音だけが響く。




「……リトリィは、自分の髪の手入れは、自分でしているのか?」


 ふと疑問に思って聞いてみると、「はい」と即答だった。まあ、他人の髪の手入れができるのだ、自分の髪ならお手のものだろう。ましてあの長さだ、毛先を整える程度だろうから、そう面倒も無いのだろう。


「そうでもないですよ? やっぱり鍛冶をやっていると、焦げちゃうことも多いですから。お手入れは結構、気を使うんですよ?」

「あ、やっぱり焦げるんだ」

「だって、火花が飛びますから」


 ……確かにそうだ。

 というか、火がついて燃えたりしないのだろうか。

 何かの映画で見たことがある。女性の豊かな髪に火が付いて、すさまじい勢いで燃え上がるシーン。

 ……危険じゃないか!!


「だから、鍜治場に入るときにはちゃんと結い上げています。大事な髪ですからね?」


 ちゃんと難燃布で頭を覆うことも忘れないそうだ。

 暑苦しくはあるが、それを手間だと思ったことはないらしい。


「だって、髪は、数少ない、わたしの自慢ですから」


 何を言う、魅力の塊のような君が。自慢なら俺が代わりにいくらでもしてやる。


「はいはい、動かないでくださいね?」


 チャキチャキ。


「お母様に、あなたの髪はお日様の雫をいただいたようなものだから、大切になさいって」


 ……そう言えば、リトリィの名前は陽光の慈悲と恵みリト・ラ・エイ・ティルだったか。

 彼女の名前の由来の、その一つということなのだろうか。


「はい。わたしの毛は、犬属人ドーグリングにはとっても珍しい色だそうなので」

「そういえば、街では君ほどきれいな金色の毛並みの人は、見かけたことがないな」

「ふふ、褒めても、何も出ませんよ?」

「いや、普通に感想を言っただけで」

「はいはい。そういうことにしておきますね」


 だが、彼女の声は一段と嬉しそうだ。


「もう、お世辞なんてうまくならなくていいんですよ? 今夜は、何が食べたいんですか?」

「リトリィ」


 ぢゃぎりっ


 ……なんか、ばっさりと、大量の髪が、目の前を落ちて言った気がする。

 そして、リトリィの悲鳴。




「まあ、こんなものかな? ありがとうリトリィ、さすがに男三人の髪を手入れしてきただけのことはあるね」

「……ご、ごめんなさい……」


 思ったより短くなったが、まあ、しばらく切る必要がなくなったということだ。俺がたわむれに――唐突に、としてリトリィを要求したのが何より悪い。


「また、頼めるかな? ――これからも、


 俺の言葉に、しょげていた彼女の顔が、ようやく輝きを取り戻した。


「……はい! 、……ですね!」

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