第577話:マイセルと過ごす日(4)
「リヒテルさんっていうんですね。あたしはヴァシィと言います。いつも歌を聴きに来てくれてありがとう」
少女──ヴァシィは、リヒテルに向かってにっこりと微笑んだ。
そのときだった。
「そこ! オイ、うちの子供になにをしているんだニ!」
背中の曲がった男が、すぐそばまで来て俺たちを睨みつけていた。
「……『だニ』?」
俺が思わずつぶやくと、男はハッとしたような顔をしてから、もう一度俺を睨みつけた。
「オマエらだ! なにしてんだと聞いてんだ!」
「いや、寄付をしていただけだが」
「寄付⁉ 寄付だと⁉ いい加減なことを──」
そこまで言いかけたそいつは、俺の顔を見て胡散臭げに目を細め、そして目を見開き、慌てたように一歩、飛びのく。
「ヴァシィ! そんなところで時間を潰すな! そういう縁はもう無いことぐらい、お前もとっくに分かってるだニ、とっととこっちに来るだニ!」
言うだけ言うと、こちらを警戒するように何度も振り返りながら元の場所に戻って行く。
「……なんだ、あれ?」
威勢が良かったのは最初だけ、あとは尻切れトンボなその男の態度に、俺の頭の中には「?」が大量に湧き上がる。
「ご、ごめん! 君の邪魔をしちゃったみたいで!」
「……いいえ」
ヴァシィは「ご寄付、ありがとうございました」と、先ほどまでとは打って変わってどこかぎこちない笑顔を浮かべ、そのままとぼとぼと戻って行く。
改めて整列した子供たちは、俺たち観客に向かって、やっぱり一糸乱れぬ例をして、そして会場を後にしていった。
「……あああ!」
そんな少年たちを見送りながら、リヒテルが頭を抱える。
「彼女、怒られるのかな! 僕、とんでもないことをしちゃった気がする……!」
「なに言ってんだ、喜んでただろ。次の機会を待てばいいさ」
「で、でも監督! 僕、どう見たって彼女が怒られる原因を作っちゃったみたいじゃないですか! あの子に嫌われていたらどうしよう⁉」
「そんなこと知るか。泣こうがわめこうが、今日はこれで終わりだ。また次の機会に挽回しろ」
「ああぁぁぁああぁぁあぁああ!」
うじうじとうめき続けるリヒテルに、マイセルもかける言葉が見当たらないらしい。顔を引きつらせて、どうすればよいかと聞きたげにしている。
「……そういえばリヒテル、お前、なにかのお使いの途中じゃなかったのか?」
気分を変えるために聞くと、これまた「ああぁあぁ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「も、もう日が傾き始めてる! 急がないと!」
「気をつけてな。……どんな用だったんだ?」
「院長先生のお仕事仲間へのお手紙なんです」
彼は、先ほど渡した香り付きの水を一気にあおって飲み干すと、容器を俺に返してきた。自分で露店の店主に返せば、わずかだが容器代が還ってくる。小遣いにもできたはずだ。けれど、それを律義に俺に返してきた。
「お水、ごちそうさまでした!」
「気にするな。じゃあ馬車に気をつけて。また次の機会に頑張れよ?」
「はい、監督!」
リヒテルは駆け出しながら、こちらに挨拶の右手を向けてきた。
どこまでも律義な奴だ。俺も右手をあげ、挨拶を返してやる。そんなことをしているものだからだろう、彼はもう少しで馬車に
言わんこっちゃない。こっちもひやりとしたよ、本当に。
「……あれが、前にムラタさんが話してくれた、リノちゃんのことを好きになった男の子なんですね?」
「ああ。気が弱くて、孤児院の中でも、悪ガキから小間使いみたいにいいようにいろいろやらされていたらしいんだけどな。その辺は、今も変わらないようだ」
「……そ、そうなんですか?
マイセルがあいまいな顔で笑う。
「悪いやつではないんだけど、どこか抜けているところもあるし、もう少しシャキッとしてくれるといいんだけどな」
「その子の新しい恋の相手が、いまのヴァシィちゃんという子なんですね、きっと」
失恋から立ち直ってくれたのは嬉しいが、これは厳しい話になりそうだと思う。
「厳しい……ですか?」
俺の予想に、マイセルが小首をかしげる。
「だって相手も孤児院だぞ? なかなか外に出てくることはないだろうし、あいつ自身も用事があるとき以外、ここには来れないだろうし。お互い孤児院出身なら、なかなか金もないだろうし、付き合っていくのは難しいだろうな」
しかしマイセルは「大丈夫ですよ!」と笑う。
「お金ならなんとかなりますよ。ほら、私たちだってしばらく困ってたときがあったじゃないですか。でもムラタさんが頑張ってくれたから、なんとかなったでしょ? 愛し合う二人で頑張れば、なんとかなりますから!」
マイセルはそう言って、「ムラタさん! 市場、見ていきましょう?」と、俺の手を引っ張る。実に楽しそうに。
実際、マイセルと歩く街は楽しかった。
赤レンガの壁面で統一された三番街の由来やこだわりを教えてくれたり(大火災の教訓由来だが、今は統一的な美観創出の意味で赤レンガらしい)、
市場で購入したレース生地の使い道を教えてくれたり(最初に下着と言いかけたので、使い道は間違いなくショーツかガーターベルトなんだろう)、
道端で売っていた果物を歩きながら食べたり(酸っぱさと渋さと甘さが同居した、ラズベリーっぽい紫の果物で、マイセルが喜んで藤籠ごと買った)、
マイセルのドレスをまくって走り抜けていったクソガキを二人で追いかけたり(すぐに見失ってしまって、二人で顔を見合わせて笑うしかなかった)、
リトリィとのデートとは違い、いろんな意味でハプニングの多いデートになった。
「わあ……! いい眺め……!」
最上階である四階の窓から身を乗り出すようにして、マイセルが歓声を上げた。
妊娠七カ月ともなると、お腹もだいぶ大きくなる。疲れも出やすくなるのだろう。朝から俺の隣でずっとはしゃぐようにしてきたマイセルだが、昼のお茶の時間に立ち寄ったカフェで、すこし休憩したいと言い出したのだ。
「え、えっと! このあたりはもう、半分、街道ですので! 隊商の方だけでなく行商人さんとかも気軽にお休みできるお店もいっぱいあって! そ、そ、それで、このお店も、そういうお店なので!」
「そうなのか。さすがマイセル、よく知ってるな」
「し、シィ……っと! 知り合いが教えてくれたので!」
そんなわけで、カフェと宿を兼ねていたこの店で、少し休んでいくことにした。
基本プランは一泊いくら、なのだが、オプションとして三時間単位の利用もできるらしい。仮眠をとってすぐに出るという人向けなのだそうだ。
マイセルが言いかけた「シィ……」という言葉から察するに、知り合いというのはマイセルの兄の恋人であるシィルさんだろう。きっと、何かのタイミングでこの宿の話を聞いたことがあったに違いない。
マイセルが教えてくれた通り、三番街は南の街道とつながる街。ここから南に向かって街道沿いに歩いて行けば、街をいくつか経由したあと、「王都」に着くとのことだ。寄り道せずひたすら歩いて行けば、順調ならひと月半ほどの道程らしい。
「そうやって街道を歩いてきた方々を迎えるのが、この三番大路です。だから宿も多いですし、そういったひとたちが楽しめるお店も多いんですよ」
「一番大路や二番大路はどうなんだ?」
「一番大路は、川のほとりに作られた、
ただ、難癖をつけて鉱石を狙うふとどきな隣接領主たちから自衛するために要塞化されていたこともあって、古い家はみんなゴツい石造りなんだそうだ。
はっきり言ってあまり住みよい街には思えないんだが、かつての栄華を支えた重要区画だったというプライドでもあるのだろうか。
「東に向かう二番大路は最後に整えられた道ですけど、すぐにうっそうとした森林地帯が広がっていて、門外街自体も最も小さいんです。でも、森の木の実を活用した養豚や、豊富な獣を対象とした狩猟が盛んなんですよ!」
「じゃあ、俺たちが食べる肉は……」
「そうですね、二番街で作られたものが多いです」
だが、二番街の東に広がる森には狼が住んでいて、詳しい人以外はほとんど森に入らないらしい。俺が遭遇した、青白く光るたてがみのような毛を持つ
その二つに対して、四番大路はかつてのレディアント銀鉱石を運ぶ最も重要な道路で、三番大路は精錬したレディアント銀を出荷する道だった。だから、どちらもよく整えられている。
特に街道に直接つながる三番大路を擁する三番街は、だからもっとも規模が大きく、栄えているというわけだ。この宿から見える赤レンガの街並みも、風情があって悪くない。
「見て、隊商の列が入ってきますよ!」
マイセルが、大路を進んでくる人馬の列を指差して「南の街の新しい流行のレース生地とか、入ってこないかなあ?」などとはしゃいでいる。
俺もしばらく一緒に、眼下のひとの流れを見ていた。
マイセルは、さっきから弾みをつけるように腰掛けながら、ベッドのスプリングの感触を楽しんでいる。
「えへへ、ふかふかのベッド! うちほどじゃないですけど、でも素敵ですね!」
「うちが破格すぎるんだ。ナリクァン夫人がリトリィに持たせてくれた嫁入り道具のひとつなんだからな、モノが違う」
「お部屋も広いですし、窓からの景色もいいですし。……ほ、ほんとに、いいんですか? もっとお安い部屋で──」
「どうせなら、いい体験をしたいからな」
マイセルは二階の最も安い部屋でいいと言ったのだが、俺は最上位並みの四階の部屋を取ることにした。なぜならこのグレードになると、ルームサービスで湯が使えると分かったからだ。事前に申請しておくと、入り口に専用の鍵付きの箱があって、そこに湯を入れた桶を持ってきてくれるのである。
さらには、隣接する大路街まで、任意の場所に運んでくれる馬車を呼ぶサービスも付帯するらしい。部屋の値段は倍以上なのだが、これはうれしい。
たかが桶一杯、されど桶一杯。今日一日、歩き回って疲れただろう彼女の足を洗ってやるのも悪くない。ちょっとした休憩のつもりだったが、そのまま仮眠をとってもらって、疲れをとってもらうのもいいだろう。なんなら、馬車を使って家まで帰るのもいい。
──そう考えていたのだが。
「……ムラタさん、今日は、その……うれしかったです。私、ムラタさんと二人っきりで、こんなふうに過ごせるなんて、久しぶりだったから……」
そう言って頬を染めながら、隣に座った俺に体を寄せてくるマイセルの肩を、そっと抱く。デート中にも思ったことだが、彼女に寂しいを思いをさせてきてしまったことを改めて自覚し、恥じ入る。
いつもリトリィのことばかり優先してきた俺を見限ることなく、この一年、ずっとそばで支えて来てくれたマイセル。
いまさらではあるけれど、少しでも彼女の心を満たす一日にできたのなら、わずかでも罪滅ぼしになったかもしれない──そう思ったときだった。
俺の体は、ベッドに投げ出されていた。
「……マイセル?」
俺の上にのしかかって来たマイセルは、俺の口をしばらくふさいだあと、胸元のリボンをほどき始めた。
「午前中のボートでは、ひさしぶりにヘタレなムラタさんを見ましたから」
「ヘタレって……いや、あんなところでは……」
ボートの上で、しばらくキスやペッティングにふけっていた、あのことだな!
いや、いつ、ほかのボートがそばに寄ってくるか分からないあんなところで、抱けるわけないだろ!
「ムラタさん、さっきの広場では『仲の良さが公認になるだけ』って言ったじゃないですか。あのボートの上で結ばれた二人は、永遠の愛をつかむって話もあったのに」
そーいうジンクスは大抵破綻してるんで、実践しなくてなによりだっ! それにマイセルは妊婦だろうに!
「あの態勢じゃ、お腹にも障るだろうし……」
「いつもどれだけ私の奥に入ってきてるか、自覚がないんですか?」
あきれてみせるマイセルに、自覚がありすぎる俺はぐうの音も出ない。
「妊婦だって、たまには乱れたいって思うこと、あるんですよ? それに──」
マイセルは、窓から入る日の光に輝く、以前より一回り大きくなった胸に、俺の手を取って添える。
「──それにたまには、ムラタさん一人に見てほしいんです。オトナの口づけも知らなかった私が、あなたの手で、あなた好みに染められて、どんなふうに乱れるようになったのかを──」
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