第576話:マイセルと過ごす日(3)

 昼食を食べ終えて、広場のいちを冷やかしていた時だった。

 妙に落ち着きなく、きょろきょろしている赤髪の少年がいた。孤児院「恩寵の家」の子供の一人、リヒテルだった。様子が気になったので、声を掛けてみた。


「あ、監督――こ、こんにちは」


 やっぱりどこかおどおどしていた様子の彼に、俺は苦笑いする。


「どうしたんだ、こんなところで。一番街から三番街なんて、城内街を挟んで正反対じゃないか。何かあったのか?」

「あ、いや、その──お使いを頼まれまして」


 リヒテルの話によると、どうもシュラウトが院長先生から仰せつかった手紙を、リヒテルに回したとのこと。──シュラウトと言ったら、あの口が回るクソガキじゃないか!


「なんだお前、まだ連中にいいように使われてるのか?」

「それは……その……」


 腹が立ってきた。シュラウトの奴、リノをほかの男たちに襲わせるという手口でリノに酷いことをした張本人だ。やはりしばらく働いた程度じゃ、奴の性根は変わらないらしい。


「あ、い、いえ、違うんです! 僕もその、嬉しかったので……」

「嬉しかった?」


 使い走りをさせられて嬉しかった、とはどういう意味だ?

 俺が首をひねったときだった。


「あ、ムラタさん! 見てください、あの服の子供たち。ひょっとして、この前歌った子たちでしょうか?」


 マイセルが弾んだ声で指差した方向には、同じ服を着た少年少女たちが噴水の前に並び始めていた。


「そうみたいだな。定期的にやっているのかもしれないね」

「そ、そうなんですよ!」


 なぜかリヒテルが、妙に熱っぽく拳を握る。


「あの子たちも孤児院のひとたちらしいんですけど、僕らと違ってとても歌がきれいで! あ、僕らも神様に捧げる讃美歌は歌えるんですけど、やっぱりあの歌声にはぜんぜん敵わないっていうか! とってもきれいなんです、透き通るような声で! でも不思議な笑顔なんですよね! 笑ってるんだけど、どこか心がそこにないっていうか……でもそれがまたすてきで!」


 言いながら、じっと一点を見つめるように語るリヒテルの視線をたどっていくと、なんだか前列の端のほうにいる小柄な女の子が目に付いた。サファイアブルーの髪が印象的な女の子だ。そういえば、前も見たぞ? たしか、最後に寄付を募って回っていた女の子だ。


 ほーん、そういうことか。

 先日、リファルの奴に学ばされたからな。人間観察は大事だ。


「ムラタさん、近くで聴きましょう?」

「そうだな。……リヒテル、お前が面倒なお使いを『嫌じゃない』って言った理由、分かったよ。この歌を聴きに来るためだったんだな」

「え、ええと……は、はい! そ、そう、そうです! そんなかんじで……!」


 なにやらバツの悪そうな顔で、あたふたしながら肯定してみせる。

 それでも、彼の目は例のサファイアブルーの髪の女の子に釘付けだ。例の子が何やら口上を述べるためだろう、動き出したら、それに合わせて首ごとそちらに向かって視線が動いているのが面白い。


「じゃあ、近くまで行くか。おいヒリテル、お前も来い」

「あ、い、いや、僕はここで……」

「なに言ってるんだ。面倒なお使いついでとはいえ、せっかくいい機会に巡り会えたんだ。そばで聞く方がいい」


 そう言って、渋る彼の腕をつかみ引きずるようにして近くに行く。

 ──例の女の子の近くになるように。

 リヒテルは目を白黒させて何度も逃げようとしたが、強引に連れて行った。


 今度は最初から最後まで、ひと通り間近で聞くことができた。

 リヒテルの言う通り、確かに十人そこそこの人数が、声をそろえて歌う合唱は奇跡のように美しかった。少年少女たちの声には不思議な透明感があり、すばらしい響きを広場に満たす。

 俺の中学時代、こんな綺麗な合唱なんてできただろうか。


「──とっても綺麗な声ですね!」


 マイセルが、目をキラキラさせながら合唱団を見つめる。

 確かに素晴らしい歌声だ。

 しばらく、誰もが足を止めて耳を傾ける。

 讃美歌というのはそもそも神の奇跡や恩寵を栄光を称えるものであるから、歌詞自体は単調でクソつまらないものだけれど、歌声はすばらしい。


「ねえ、ムラタさん。私たちの赤ちゃんも、小さいうちから練習したら、あんな歌を歌えるようになりますか?」


 マイセルの言葉に、俺はおもわず微笑んでしまった。我が子もあんなふうにできるようにしてあげたい──そんな願いを、まだ産んでもいないのにマイセルが願っている。


「……そう、だな。音程を正確に聞き取る力を絶対音感って言うんだけど、本当に小さなころから鍛えると、身に付くっていうからな」

「ムラタさんは、お歌の上手な子にしたいって思いますか⁉」

「そうだな……下手よりは上手な方がいいけれど、あとはマイセルが、そういう子供に育てたいかどうかだろう」


 言われて、何やらぶつぶつ言いながら悩み始めるマイセル。

 たしかにああいうのを見ると、教育の力というのはすごいと思ってしまう。マイセルじゃないが、塾や習い事に子供を放り込む親の気持ちが、理解できてしまう気がするのだ。


 自分の子供がこんな歌声を出せるようになるなら──そんな夢想を抱いて、レッスンに通わせるみたいな。


 俺は、子供の歌が上手になったってならなくたって、どっちだっていい。ただ、親が興味を示さなければ子供も興味を示しにくいだろう。

 子供が生きる糧を得るために、興味を持ってそれに突き進めることができる、それを見つけてやるのも親の仕事なのかもしれないし、あとは夫婦の理想のすり合わせなんだろうな。


 ──などと思いながら子供たちを見ていたが、ふとリヒテルを見ると、やっぱりあの女の子の方を食い入るように見つめていた。こいつ、リノへの失恋のダメージはもう快復したんだろうか。いつまでも引きずられても俺が困るからいいんだけど。


 まあ、恋することは悪いことじゃない。

 ……二十七年間童貞だった俺が偉そうに言えることじゃないけれどな!




 歌が終わって、また前のように数人の少年少女が帽子を手に、寄付を募って歩く。今日も「歌をありがとう」と、ちょっと奮発して大銅貨を帽子に入れた。

 サファイアブルーの髪の少女が、嬉しそうに礼を言って、そしてまた寄付に回ってゆく。


 ──リヒテルが、もどかしそうにその姿を目で追っていた。

 なるほど。寄付できるほど手元にお金がないわけか。


「おい、リヒテル」

「は、はい監督。なんですか?」


 現場でもないのに、律義に俺を監督と呼び続けるリヒテル。ちょっとトロいところはあるけれど、義理堅い奴だ。


「すまないが、喉が渇いたんで、悪いがあそこの水売りから水を三人分、買ってきてくれないか? 香りを付けられるなら、甘酸っぱい系の奴なら何でもいいから」

「……え? 今、ですか? ……三人分?」

「ああ。今だ。頼む」


 さすがに渋る様子を見せたが、大銅貨を渡すと小さなため息をついた。

 使い走りにされるのは残念ながら慣れているようで、彼はあきらめたように、すぐ近くの水売りに向かって走って行った。


「……ムラタさん、優しいんだから」

「別に。喉が渇いたからな」


 ほどなくして帰って来た彼に、「駄賃だ」と言って、三人分の水のうち、一人分を彼に渡す。


「あの、お釣り──」

「それはお前の分だ」

「え? ……ええ?」


 彼は、手の中のジャラジャラした銅貨と俺の顔を何度も見比べながら言った。


「水を買いに行っただけで、こ、こんなにたくさん……受け取れませんよ!」

「労働には正当な報酬が付き物だ。必要な時に必要なものを、自分の気持ちを我慢して調達しに行ってくれた礼だ」


 話している間に、例の少女が帽子を抱えて戻ってくる。


「……ほら、戻ってくるわよ?」


 マイセルが、リヒテルの背中をそっと押した。


「あ、いや、僕は……!」

「ほら、もう来てしまうぞ?」

「監督……まさかこれを? まだ早すぎます!」


 急に言われても心の準備が、などとうろたえるリヒテルの背中を、景気づけに軽くたたく。


「今使わずにいつ使うというのだ。行け!」


 つんのめりながら少女の前に出たリヒテルに、少女がすこし、驚いた顔をする。


「あ……」

「……えっと……」


 リヒテルがしどろもどろになっていると、少女がにっこりと微笑んだ。


「最近、よく聴きに来てくれますね。うれしいです」


 ……ああ、リヒテルの奴。その一言でゆでだこみたいになってるよ。ああ、これは渡せないかなあ。さっさと渡せばいいのに。ほら、行け押せリヒテル! 男は押しだって。俺を見ろ、この可愛い嫁さんを二人もゲットしたこの俺を。


 などと、自分が彼の年頃の頃には、同級生の女子と会話もできなかったくせに、それを差し置いて偉そうにしている自分に気づく。それどころか、かつては「する気もなかった」という言い訳をしていた自分の愚かさに、今さら気づいた!


「……ムラタさん? 顔が赤いですけど、どうしたんです?」


 自分の暗黒の過去を振り返って羞恥に悶えてるんだよっ!

 あ、いや、そんなことはどうでもいいんだ。リヒテルはどうなったんだ!


 正気に返った俺の目の前で、リヒテルが、震える手で、手のひらから銅貨を一枚、二枚、手に取ったが、迷った挙句、手のひらに戻してしまう。


 おい。

 おいおいおいおい。死ぬかお前。

 ここまできて何やってんだ。


 ここはさらに景気づけが必要かと思ったが、違った。

 リヒテルの奴、手のひらの金、全て、彼女の帽子の中に突っ込んだんだ。


 さらに、「こんなに……ありがとうございます!」と顔をほころばせた少女の、帽子を持つその手をつかむ。


「僕! 僕は! あ、あの……あの……!」

「は、はい……?」


 突然のことで驚いたのだろう。少女──ヴァシィというらしい──は、戸惑ってみせる。

 いや、そりゃそうだ。突然手を握られて、「あの……!」を延々と繰り返されているのだから。


「……こら、リヒテル。女の子が困っているだろう?」


 仕方なく肩を叩くと、リヒテルは驚いて俺を見上げ、そして彼女の手をつかんでいた自身の両手を、奇声を上げながら空に放り出す。


「ご、ごご、ごめんなさい! 僕、その、君と……!」


 そのまま口ごもってしまうリヒテルに、驚きから落ち着いたらしいヴァシィのほうが声を掛けた。


「リヒテルさんっていうんですね。あたしはヴァシィと言います。いつも歌を聴きに来てくれてありがとう」


 そう言って、少女──ヴァシィは、リヒテルに向かってにっこりと微笑んだ。

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