第575話:マイセルと過ごす日(2)
「……なんだか、懐かしい『きす』ですね」
「そう、だな。いろいろすっ飛ばして、すぐに大人のキスをするようになっちゃったからな」
ボートの底で、彼女を抱きしめながら、軽く唇を触れさせるだけのキスを、何度も重ねる。
「えへへ……こうしてると、恋人みたい……でしょうか?」
「恋人──」
恋人どころか、あと二ヶ月ほどで子供が生まれる夫婦なんだけどな。まあいいさ、やっぱり夫婦と恋人では、その甘さ加減が違うんだろう。
「──そうだな、恋人だろうな。どう見ても」
「そう、ですか? 嬉しいな……。私たち、二人で『でーと』することも、あまりなかったから……」
そう言って俺の胸に顔を乗せて無邪気に微笑む彼女に、胸がずきりとする。
リトリィが一番──俺たち夫婦の約束。
俺自身、最初に俺に愛を見出してくれたリトリィをこそ一番だとしてきたけれど、マイセルだって、俺のことを好いてくれているんだ。たとえ俺にとっての一番になれなくとも──それを承知の上で結婚してくれるくらいに。
「ムラタさん、私、子供の頃の男のひとの知り合いって、お父さんのお仕事仲間とかお弟子さんばっかりで、同じくらいの歳の男のひとってお兄ちゃんくらいしか知らなくて」
マイセルが、俺の胸でのの字を書くようにしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
マイセルは子供のころ、マレットさんの仕事場について行っては、よく遊んでいたそうだ。遊ぶといっても釘を打つ真似だとか、端切れを使ってかんながけをするとかだったそうだが。子供なりに、道具を運ぶ手伝いをしたりもしていたらしい。
「だから、年上の人にはいっぱい可愛がられたし、お話もしやすかったんだけど、同年代の友達がいなくって。だから、どんな話をしていいかわからなくて。──でもそのおかげで、ムラタさんとお話できたのかもしれませんね」
そういえば初めて会ったとき、やたら熱心に街並みを紹介してくれたんだった。
「えへへ、そうでしたね。ムラタさん、すごく真剣に聞いてくれて、質問もしてくれて、とっても嬉しかった」
口休めのキス。
しばらく、おっかなびっくり舌を絡めるように。
「……恋人の『きす』──ですよね?」
そういえば、乾燥果実を口に含んでの不意打ちだったか。彼女から仕掛けてきたんだ、結婚三儀式のひとつ──『
「あ、……あれは!」
途端に、真っ赤になってうろたえる。
「だ、だって──だって、ムラタさんが、先に、髪を撫でてくれたから! だから、私にも機会をくれたんだって! そうすれば絶対男のひとを捕まえられるからって、と、友達が教えてくれたから……!」
「友達? どこの誰だ?」
「こ、コルンちゃん……です」
コルン? しばらく首をひねって、「ほら、あの、結婚式に青い
ああ、あれか。明け方に、人んちのキッチンで、大工のヒヨッコのさらにヒヨッコなエイホルとヤッてた、あの子だな。
「む、ムラタさん、間違ってないですけど、そういう覚え方ですか?」
マイセルが顔を引きつらせるが、そりゃそうだろう。披露宴の会場になった、その新婚夫婦の家のキッチンで子作りしていたのが、家の主の俺たちじゃなくて客人だったという衝撃的場面を忘れるものか。
「……まあ、あの子の助言だったっていうなら、仕方がないな」
「あ、あはは……」
ひきつった顔のまま笑うマイセルに、「それで、そのコルンって子はエイホルと結婚したのか?」と聞くと、これまた顔を器用に引きつらせた。
「え、ええと……」
「なんだ、まだなのか?」
「だ、だって、エイホルくん、まだ成人してないから……」
……成人って、この世界は十五歳だよな。
まだ成人していない……あれから一年経ってもまだ、それ未満ってことは……。
「で、でももう、コルンちゃん、赤ちゃんできましたから! ですから、赤ちゃんのことで落ち着いたら結婚式を挙げるんですって!」
来たよ、できちゃった婚。しかも成人前。いいのか。もちろんよくないだろ。
「ほんとは男のひとは成人しているべきなんですけど、もう赤ちゃんも生まれちゃっていますから。こうなったらもう、えいやって結婚しちゃうこと、多いですよ?」
「……は? もう、産まれちゃった? できた、じゃなくて?」
「はい。あれからコルンちゃん、すっごく積極的に『でーと』をいっぱいしたみたいで、すぐに赤ちゃんができたんです。もうすぐ赤ちゃんの首が座るころですから、そうしたら結婚式を挙げるんですって」
おやおや、おやおやおやおやおやおやおやおやおや。
エイホルくん。君は一人前になるより前に父親になったのですね。
素晴らしい。素晴らしい。素晴らし……くねーよ! なにやってんだあいつ。
「大丈夫ですよ。なんたってエイホルくんの親方さんはとっても面倒見のいいかたですから。末は大工一家ですね」
くすくす笑うマイセル。笑い事じゃない気がする。
……だけど、こうやって幸せが連鎖していくのは悪いことじゃないな。まだ若すぎる夫婦の誕生だけど、ちゃんと責任を取って奮闘するなら、それもまた人生だ。
「私も、ムラタさんにいただいた赤ちゃん、頑張って産みますから。この子のきょうだいも、いっぱい産みますから。だからこれからも、いっぱい愛してくださいね?」
「……ああ。いっぱいつくろうな」
そのときだった。かすかな感触を味わったのだ。
マイセルの膨らんだお腹を通して、とんと、小さく俺の腹を叩くような感触。
「……動いた、……動きました!」
──やっぱりそうか! 赤ん坊の──マイセルのお腹の中の子の……!
「えへへ、ムラタさん、あなたの子ですよ?」
「ど、どれどれ?」
体を起こし、マイセルを座らせ、感触があったところをマイセルに聞きながら、そのお腹に耳を当てる。
「……ううん、よく分からないな」
「向こうから蹴ってこないと、分からないんじゃないですか?」
「じゃあ、こうしてれば、またいずれ蹴るかな?」
お~い、早く蹴ってみろ~、お父さんだぞ~、などと呼びかけてみるが、うんともすんとも言わない。
「ふふ、ムラタさんったら」
「中にいるのは確実なんだから、耳を当てたら中の音が聞こえそうなものだけどなあ」
「じゃあ、直接、お腹から聞きます?」
そう言って、マイセルは顔を赤らめつつ、ドレスをたくし上げてみせる。
妊婦帯越しに耳を当てようとすると、マイセルが妊婦帯を外してくれた。
明るい陽射しの下で、彼女の妊娠七カ月となった大きなお腹が白く輝く。
白いお腹の真ん中を縦に走る、浅黒い正中線。
大きなお腹の周りに走る、いく筋もの妊娠線。
少し出っ張ってきた、チャーミングなおへそ。
そしてその奥にいる、俺の遺伝子を継ぐ子供。
「む、ムラタさん、恥ずかしいの、あんまりじっと見ないで……?」
「なに言ってるんだ、こんなに綺麗なのに、どこが恥ずかしいんだ」
「だ、だって……ひゃん!」
何を恥ずかしがる必要があるものか。
妊娠中っていうのは、女性が一番美しい時だって思う。
お腹に耳を当てると、いろいろな音が聞こえてくる。
彼女の命を──彼女が
あたたかい、ああ、あたたかい!
焦って出てこなくてもいいから、ゆっくり大きくなれ。
ゆっくり大きくなって、そして、この世界に出てこい。
お前のために、お父さんはもっともっと頑張るからな!
「ずいぶんとゆっくりされてたんですね」
「大切な女性とのひとときでしたから」
「ひとときどころか二刻(二時間)も何をしていたんですか?」
あのあと、お互いに気分が盛り上がって、茂みの向こうで愛を確かめ合っていたんだよ! だって、互いの愛の結晶を、彼女の肌を通して感じ合っていたんだぞ? そのまま……などとは口が裂けても言えない。
「ふふ、もうお昼時ですね」
マイセルが「お弁当にしませんか?」と、腕から提げている藤籠を指す。
「そうだな……せっかくだし、例の噴水まで歩いてから食べないか?」
この公園から三番街中央広場まではすぐ近くだ。マイセルも賛成してくれたので、一緒に並んで歩く。
公園の出口からまっすぐ歩いて行けば、すぐに三番大路へ。そこから大路に沿って南に歩けば、すぐに中央広場だ。
「いつ見ても大きいですね……!」
マイセルが、噴水を見て感嘆のため息を漏らす。
十五体の神像と、その神像と共にある噴水。
水柱の高さ自体はそれほどでもないが、やはり規模が大きい。
先日利用したカフェで飲み物を買うと、噴水のそばのベンチでお弁当を広げた。パンに燻製肉やチーズ、旬の野菜などをはさんだ、マイセル特製サンドイッチ。本当はしゃれたお店で昼食を、と思っていたんだが、マイセルがお弁当にこだわったんだ。
「だって、特別な日ですよ? 特別な日には、やっぱり私が作ったものを食べてもらいたいですから」
どうも、決行の何日も前から準備をしていたらしく、色とりどりの具材が食欲をそそる。
「えへへ、はい、どうぞ!」
受け取ったサンドイッチを頬張ると、シャキシャキとした葉野菜と燻製肉の香ばしい香り、甘辛いタレの旨味が口内でとけて交じり合う。ああ、美味い。
「よかった! いっぱい作りましたから、たくさん食べてくださいね!」
俺の反応に対して、実に嬉しそうなマイセル。彼女も小さな口でパクリとひと口。
「うん、美味しい。よかった、美味しくてできて」
「マイセルが失敗なんてありえないだろう?」
「失敗でない料理と美味しい料理では、全然違いますよ!」
「そうか、じゃあいつも失敗のありえない美味しい料理を食える俺は、幸せ者だな」
そう言って、彼女の頬にキスをする。
「む、ムラタさん……!」
そう驚いてうつむいてしまったマイセル。
「もう……みんな、見てますよぅ……!」
「いいことじゃないか。俺たちの仲の良さが公認になるだけなんだから」
ますます真っ赤になって固まってしまった。
「……お、お姉さまにもしてあげないと、あとでやきもちを焼かれますよ?」
ぼそぼそとそんなことを言う。マイセルは俺という人間を、分かっているようで分かっていないようだ。分からせるために、もう一度ほっぺにキスをする。
「その時はその時。今日はマイセル、君のための日なんだから、それを楽しもう」
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