第574話:マイセルと過ごす日(1)
孤児院「恩寵の家」で再び工事が始まったのは、ナリクァン夫人の家を訪問してからおよそ一カ月後のこと。
今度は、俺の思いつき仕事ではなく、ナリクァン夫人が主導する正式な案件となった。
工事そのものは補修工事も含めた大工、壁を塗り替える左官がメインに配置されたが、同時に環境衛生に関する監修として抜擢されたのが、何故か俺。
……いや、俺、ただの二級建築士であって、衛生なんてそれこそ全く分からないんだが!
クオーク親方からは、「もうてめえなんぞ知らん。二度と帰ってくるな」とまで言われてしまったし、俺ほんとにどうすればいいんだって話だったよ!
加えて、工事に関わる諸々の書類とかは本当に大変だった。恥を忍んでマレットさんに応援を頼みに行ったら、「もっと早く声をかけてくれりゃ、話が早かったのに」とあきれられた。
マレットさんは世襲の棟梁という特殊な立場だけあって、役所の書類の処理も実に手慣れていた。
正直、マレットさんの事務仕事姿なんてまったく思い浮かばず、きっと奥さんがやってるんだろうと思っていた。
ところが、マレットさんが全部教えてくれた。彼は設計も、建築も、そして事務手続きも、すべて自分でやっていたんだ。これには驚いた。
「今回は宗教施設に対する寄付の名目だから、必要な書類はこの三つ。特にこの三枚目が大事なんだ。でなきゃ、ナリクァン夫人が不正な投資をしたことになっちまうからな。恩を仇で返すなよ?」
マレットさんは丁寧に教えてくれたが、彼自身は一切何もせず、すべて俺たちにやらせた。書類の取り寄せから記入、提出まで、すべて。
だから俺たちは、すべてをマイセルと一緒に整えた。というか、マイセルがマレットさんのげんこつを喰らいながら整えたんだ。実の親だからといっても、なんて厳しいのやら。
「なに言ってんだ。あれだけ亭主を支える柱になってこいと送り出したのに、書類の一つも整えられんなんて、女房失格だ」
すべての書類を整え、役所に提出し、手続きが完了したあと、マレットさんは、頭をばりばりとかきむしりながら、大きなため息をついた。
「今まであいつは、俺の仕事の何を見ていたんだって話だ。ちょうどいい機会だから仕込み直す。しばらくあいつを預かるぞ。どうせ腹の子が気になって、外じゃ働けなくなるころだろ?」
「それはそうですけど、彼女のせいばかりでもなくて、俺が……」
「あんたのそういうところはダメだと自覚しな」
マレットさんのげんこつが降ってくる!
「あんたはあんたのできることを増やさなきゃならんというのは、確かにいい心がけだ。それはぜひがんばってくれ。だが、だからマイセルができなくてもいいという話にはならねえ」
マレットさんは、頭をかきながら続けた。
「アイツはただの娘でなく、あんたの下で、大工として生きることを選んだ。だったら、『棟梁の娘』としての技能を持って生きていかなきゃならねえ。アイツが自分で望んだことなんだからな」
「で、ですが、それは──」
「なにも言わんでくれ。俺は自分の娘に大工の道をあきらめさせようとした。あんたはそれを、アイツの夢ごと拾ってくれた。だったら、仕込み足りなかった分は俺が責任を持って仕込む。それが筋だろう?」
マレットさんはそう言って、俺が止める間もなく、自分の頭をガツンと殴った。
「あんたができようとできまいと関係ない。アイツは俺の娘だ。俺の娘として生まれた大工として生きていくとアイツが決めたなら、俺にできることはできるようにならなきゃいけねえ。ジンメルマンの名のもとに生まれて大工をやるっていうのは、そういうことなんだよ」
だから、大工をやらせたくはなかったんだけどな──そう言って、マレットさんは苦笑いしながら、もう一度自身の頭をぶん殴っていた。
『こんなことを、娘には言わないでおいてくれよ? カッコつかねえからよ』などと言っていたけれど、ガツンガツンと容赦なく娘の頭をぶん殴っていたマレットさんがこんなことを考えていたということを、俺は伝えずにはいられなかった。
俺の言葉を聞いて、マイセルは苦笑いした。
「お父さんも不器用なんだから」
そう言って、すでにマレットさんから「仕込み直し」の話は聞いていたこと、そして自分もそのつもりでいたと話してくれた。
「いいんです、ムラタさん。だって私、今回のこと、お父さんに手助けしてもらわなきゃ、書類の一枚も整えることができなかったんですもん」
そう言って彼女は笑う。
「私だって棟梁の娘なんですから。お父さんのように、ムラタさんを支えられる女になりたいんです」
もちろん、俺だってこの街で仕事をするようになってから、書類仕事もある程度は理解できてきた。仕事を請け負うたびに一から勉強して、そしてやっとどうにか理解して──の繰り返しの中でどうにか覚えてきた、という場当たり的な理解の仕方で。
だから今回も、宗教施設への寄付についての書類なんて当然知らなくて、マレットさんに指摘されてやっと知ったくらいだ。
しかも、やっぱり文字を覚えただけじゃだめなんだ。実を言うと、一年以上この街で暮らしてきているというのに、まだほとんど書類を書くことができないんだ。
文字を書くこと自体は、ある程度できるようになったんだよ。かろうじてローマ字的な書き方はできるようになってきたんだ。
けれど英語と同じで、それは正しいスペルではないんだ。だから、どうしてもリトリィやマイセルに頼ることになってしまう。
そんな俺だから、結局書類自体は理解できても、間違いが許されない公文書を書くには圧倒的に力不足で、だから「書けない」んだ。
「そんなこと、気にすることじゃねえ。そこは俺の娘を使ってくれりゃいいんだ。俺だって、ただの職人だったなら書類なんざ書けなくてもよかった。世襲棟梁だから、なんでも一人でできなきゃいけねえってだけだ」
マレットさんはそう言って笑う。
それは俺のことを、設計を専門にする人間──そのように認めてくれているということでもあるんだけれど、それでもどんな書類が必要か、どのように書けばいいか、理解していなければ仕事に差し支えるおそれがある。少なくとも、自分に関わることは理解していなければならないんだ。
「いいえ、私が頑張ります。頼ってもらえたら私も嬉しいですし」
そう言ってくれるマイセルがなんともけなげで、俺は思わず、マレットさんの目の前で抱きしめてしまった。
「えへへ、ムラタさんと二人っきりでお出かけ──これが『でーと』なんですね」
つばの広い、リボンつきの白い帽子をかぶり、春らしい薄手の、クリーム色のドレスを身にまとって、俺の前に座っているマイセル。俺の方は、リトリィが作ってくれたコート。色合いは派手ではないが、体にぴったりと馴染み全く違和感を覚えさせない、リトリィの奇跡の縫製技術の産物だ。
先日、意図せずではあったが、結果として俺と二人きり、しっぽり過ごす時間を二回得たリトリィは、マイセルにそのことを正直に言い、マイセルにも二回、二人きりでデートする権利があるのだと伝えた。
「でしたら、二回分を一日にまとめて、朝から夕方まで、ムラタさんと二人きりで過ごす日をいただいてもいいですか?」
マイセルの言葉に、リトリィは「本当に一日だけでいいんですか?」と何度か尋ねたが、マイセルは迷わなかった。
──だから今こうして、三番街の例の公園の池で、二人でボートに乗っている。
「ムラタさんが誘ってくれるなんて、夢みたいです」
「……そりゃ、約束したからな」
マイセルはここのところ毎日、マレットさんに絞られているらしい。「大変ですけど、ムラタさんの役に立ちたいから」と、彼女はへこたれない。そういうところは、本当に強い子だと思う。
だからこそ、今日は彼女を連れ出した。「棟梁」から一発げんこつを食らったのは、彼女を連れ出すための必要経費だ。「あんたも根性がついたなあ」と苦笑いしながら俺の脳天に拳を振り下ろしたマレットさんは、その一発で俺たちを送り出してくれた。
「ムラタさんったら、素直になぐられることなかったのに」
「あれがマレットさんのけじめのつけ方なんだから、受けるしかないだろう?」
俺はボートを漕ぎながら、苦笑いした。
ボートなんてほとんど乗ったことがない。オールの使い方ひとつとっても、結構難しい。けれど、マイセルが楽しそうだからそれでいい。なかなかまっすぐ進まないけれど、まあ、それもありだ。
「こうやって、ただゆっくり過ごす時間って、私たち、そういえばお付き合いしているころからあまりなかった気がしますね」
そう言って、水面に手を伸ばすマイセル。あまりなかったどころか、ほぼゼロだろう……とは思っても口に出さない。
「私、今日一日、こうやってムラタさんと二人きりで過ごせるんですよね? なんだか夢みたいです」
二人きりで過ごすことが「夢みたい」だと感じるくらいに、俺は今まで、マイセルと二人きりで、互いを独り占めし合う時間を作れていなかったんだと痛感する。リトリィがノコギリをつくるために山に残っていたころ──マイセルと出会ってからのわずかな時間しか、彼女は俺と二人きりの時間を楽しむことがなかったんだ。
そう考えると、彼女がよくも愛想をつかさなかったものだと思う。ずっとずっと、彼女は、「リトリィと共にいる俺」と一緒だったんだ。彼女と二人で行動するときなんて、リトリィが何らかの理由でピンチに遭遇していたときくらいだったんじゃないだろうか。
「きゃっ……! 水が跳ねました、ムラタさん!」
「コイかなにかじゃないか?」
「そうですか? ……手を入れたら、触れるかな?」
「コイはタニシを喉の奥でばりばり噛み砕くらしいからな、指がなくなっても知らないぞ?」
「ほっ……ほんとですかっ⁉」
慌てて手を引っ込める彼女が愛らしくて、わざと片方のオールを水中で乱暴に操作する。ゴトン──ボートが揺れて、マイセルがさらに慌てて帽子を押さえながら身をかがめた。
「おや? ボートを揺らすほどの巨大なコイがいるのかな?」
「そ、そんなの聞いてないですよ!」
「いや、魚ってのは実は寿命なんてあってないようなものらしくてさ。環境さえよければ百年以上生きるらしいぞ? こんな大きな池だ、どんなでっかい
そう言ってまたボートを揺らしてやると、またきゃあきゃあと騒ぐ。しばらくそうやって遊んでいると若干涙目になってきたものだから、さすがに可哀想に思えてきてやめた。
「……っとと、あれ?」
いつの間にか、小島と
「む、ムラタさん……なんだか、困ったことになってませんか?」
「……そうだな」
「……こんなところに、池の主なんて、本当にいたんですか? 草がいっぱい生えてますし、主なんて入ってこれなかったんじゃないんですか?」
「……そうだなー、いなかったかもしれないなー」
すっとぼけると、彼女はほっぺたをふくらませた。
「私をからかったんですね!」
「ごめん。冗談だった」
「もう! ムラタさんがこんな意地悪するなんて思いませんでした!」
そう言って立ち上がりかけたマイセルだが、直後、大きくボートが揺れる。
「む、ムラタさん! 意地悪しないでくださいよぉ!」
「なにもしてないぞ?」
「そ、そんな……⁉ まさか、ほんとに、池の主が……⁉」
十中八九、マイセルが立ち上がったせいでバランスが崩れただけに違いないんだが、面白いので黙っていると、おろおろするマイセルのせいでまたボートが揺れる。
「きゃああああっ!」
なにやらパニックになったマイセルが俺のほうに飛び込んでくるものだから、もう少しでボートがひっくり返るところだった。
「お空が、青いです……よね?」
「そうだな。マイセルは背中に目が付いているのか?」
ボートはひっくり返らなかったが、俺がひっくり返っている。
その上に覆いかぶさるマイセルだから、マイセルが空を見られるわけがないんだが。第一、俺の目を、ずっと見つめ続けているのだし。
「どうしてかな……ムラタさんには、この一年でいっぱい抱いてもらったのに、抱きしめてもらうのにはもう、慣れたはずなのに……。こうしてるだけで、すごく、胸が熱くなって、どきどきするんです」
やや遠くから、水辺で遊ぶ子供の声や、同じくボートを漕いでいるであろうカップルの談笑が聞こえてくる。
それほど、いま、俺たちの周りは静かだった。
草が揺れる音、小鳥のさえずり、ボートの底からの水音──身の回りからは、それだけしか聞こえてこない。
「……ムラタさん、その……あの……」
マイセルが、しばらくためらったあと、「……すこしだけ、いい、ですか……?」と、目を閉じる。
その姿があまりにも初々しくて可愛らしくて、だから俺は恋人からやり直すつもりで、唇を軽く重ねた。
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