第614話:今日も一日、ご安全に

『今日も一日、ご安全に!』

『ご安全に!』


 俺にとっては聞き慣れたこの言葉から始まる、異世界の現場。

 ──いや、今の俺にとって、もはやこの世界こそが「俺にとっての世界」であって、生まれ故郷のはずの日本こそが、もはや二度と帰ることのない「異世界」だ。


 この世界では、現場作業員の安全意識が非常に低かった。命綱一本、保護帽ヘルメット一つすら面倒がっていた。


 それが今では、日本でみるような装備品を身に着けているものが多い。少なくとも俺のいる現場ではそれなりに安全装備を着ける姿がほとんどになった。


 保護帽は全員に支給しているし、特に塔の高所作業者には墜落防止用器具フルハーネスの着用を義務付けてうるさく言ってきたからだろう。実際、それが威力を発揮して助かった職人もいる。


 そして熱中症対策のスポーツドリンクは、この『幸せのしょうとう』の作業現場でも大人気だ。疲れ知らずの魔法の水扱いされている。


 実績を積み重ねることが信用に繋がり、安全装備への理解が進んだのだ。日本並みとはいかなくとも、安全意識を高めることができれば、建築現場という素晴らしい職場から、より事故を減らしてゆくことができるだろう。


 そんなことを思いながら、現場を見守る。

 作業着姿の職人・作業員たちが、今日もしょうとうの修復・補修作業に取り組む。高さ百しゃく──三十メートルを超える塔の内部は、俺の提案通り、鉄骨によって補強が進められている。

 塔の最上部の修復工事、および塔の壁面の破損修復工事はほぼ完了。白い雲がわずかにあるくらいのよく晴れた初夏の空の下、工事はいよいよ最終局面を迎えようとしている。


 昨年の初夏に公募コンペティションが始まり、工事が始まってからクレーン破損の事故と崩壊、歴史ある鐘の落下事故。アニマードヘタイン侯爵による武力侵攻と門外街防衛戦。様々なトラブルが続いていたが、順調に行けばこの夏には終わる予定だ。


「それにしても、もっとかかると思ったんだけどな」


 俺が現場の作業を眺めながら、感嘆のため息をつく。すると、うしろから現場の総監督であるクオーク親方が俺の頭を小突いてきた。


「なに言ってやがる。お前が言い出したんだろうが、細かく作業区画を区切って同時進行させるって方法を」


 面白くもなさそうな顔でそう言うクオーク親方。


「効率効率、それは分からんでもねえが、イチから仕舞いまで自分の手でやるのが職人の矜持きょうじってモンだろうが。それを、素人に毛が生えたような奴らに一斉に割り振って……」


 そう!

 やっぱり出てきた「職人の矜持プライド」。なんだかんだ言っても採用してくれたんだから、俺の提案に理解は示してくれているはずなんだけどな。


「まあいい。ここはいいから、とっととメシ食ってこい。そこのチビの腹が、さっきからうるさくてかなわねえ」




「はい、だんなさま。おつかれさまです、どうぞ召し上がれ」


 リトリィから直接の手渡しで、パンとスープを受け取る。リトリィたちの手作りによる昼食だ。

 現場作業員たちの間では、この作業場で支給される食事は、他の日雇いの仕事で支給されることがある食事よりも質がいいらしい。

 その噂のおかげだろうか。この現場では、塔の作業従事者がほいほいと集まってくれている。確かに、リトリィが俺の飯を作るために飯場に乗り込んで以来、飯の質は段違いに良くなった。


 結果として働き手が集まり、そのおかげで俺たち大工は自分の専門の仕事に専念することができるようになったというわけだ。つまり、彼女たちの飯は作業効率を大幅にアップさせてくれる一つの原動力になっているはずだ。


「わーっ! 見て見てだんなさま! 今日のパン、干しあんずが入ってる! スープも、お肉がいっぱい入ってるよ!」


 リノが割ったパンの断面を見て、嬉しそうには叫んだ。俺のパンを割ってみても、確かにドライフルーツが入っている。子供の頃はドライフルーツ、特にレーズンパンが苦手だったが、この世界に落ちてきてからは、ドライフルーツは貴重な甘味の一つになった。

「ね、ね、だんなさま! 早く食べよう! ボクお腹すいた!」


 リノが大はしゃぎで、くるくると踊っている。スープがこぼれそうでこぼれないのは、彼女の獣人族ベスティリングならではのバランス感覚ゆえか。


「そうだな。じゃあ適当に、その辺りで座って食べるか?」


 幸い、辺りには木材だの石材だのが山と積まれていて、座る場所にはこと欠かない。「じゃあ、ここに座る!」と言って、積み上げられた資材の上に腰掛けた──その時だった。


「きゃうっ⁉」


 リノの甲高い悲鳴!

 同時に、彼女があんなに楽しみにしていたパンとスープが、俺の方にぶちまけられる!


「あっつーっ!」


 思わず悲鳴を上げてしまったが、俺なんかよりもリノの方だ。


「どうした、何があった!」

「あ、熱かったの……とっても、とっても……!」


 ワンピースをまくりあげて、涙目でお尻をさすっている。

 かわいそうに、その可愛らしいぷるんとした白いおしりが、若干赤くなっていた。ただ、赤くなっているというだけでやけどにまでは至っていないらしい。とりあえず、胸をなで下ろす。


「まったく……。パンツも履かずにいるからだ」

「ボク、パンツ嫌いだもん!」

「だから今、熱い思いをしちゃったんだろう?」

「ボク、今度から気をつけるからいいもん!」

「リトリィはちゃんと可愛いパンツをはいているぞ?」

「ヒトはヒト、ボクはボクでしょ? だんなさま、いつもそう言ってるもん」


 ああ言えばこう言う。可愛らしい屁理屈をこねたがる年頃なのかもしれない。


「まったく……ほら、そんな言い訳をしていても、落としたお昼ごはんが元に戻るわけじゃないんだぞ?」


 俺の言葉に、リノは初めて自分の昼食が台無しになったことに気づいたらしい。「あ……」と、泣きそうな顔になる。


「理由を話して、代わりをもらってこようか」

「……お姉ちゃん、怒らない?」

「パンツをはいていなかったから、鉄骨に座った時に熱くて飛び跳ねちゃいました、と正直に言えばね?」

「そ、そんなこと言ったらまたマイセル姉ちゃんに怒られる!」

「じゃあ、今日のお昼ごはんは抜きだな」

「や、やだよぉ! うう……だんなさまのいじわる!」


 リノは顔をくしゃくしゃにしてしばらく悩んでいたが、干しあんず入りのパンの魅力には敵わなかったようだ。しぶしぶ、もう一度列に並び、偉いことにちゃんと理由を説明し、やっぱりマイセルからあきれられ、朝、マイセルによって履かされたはずのパンツをこっそり脱いでしまっていたことを叱られていた。


 けれど、そのあとでちゃんと代わりの昼食をもらって、今は俺の隣でご満悦といいった表情でパンを頬張っている。今度座っているのは、木材の上だ。

 それにしても、先ほどは驚いた。初夏とはいえ、直射日光にさらされた鉄骨は、もうやけどしそうなほどに熱くなるんだな。


「リノ、おしりはもう、痛かったりひりひりしたりすることはないか?」

「うん、ボク、もう、大丈夫だよ? でも、びっくりした」


 幸せそうにスープをすする彼女の頭を撫でながら、しかし作業場に連れてくるなら、こんどこそ彼女用のちゃんとした作業着を着せなければならないと強く思った。


 ──彼女の胸元の隙間から、その膨らみかけの胸と、つんととがる先端が見えるんだよ。彼女がそういったことに無頓着なのはしょうがないとしても、そんな俺の宝物の一つであるリノが、おなじ職人仲間とはいえ、野郎どもの目にさらされている現状は実に遺憾なのだ!


 ついでに言うと、高所作業者の一人でもあるというのに、彼女は特例で保護帽ヘルメット墜落防止用器具フルハーネスもつけていない。


 それでも彼女が文句や嫌味の一つも言われないのは、現場作業者たちが、彼女の恐るべき身のこなしを知っているからだ。彼女にとっては、本来命を守る働きをするはずの万が一の時の身のこなしを阻害する恐れがあるから、保護帽へるめっと墜落防止用器具フルハーネスも、拘束具に過ぎない。


 彼女がいかに身軽で驚異的な身体能力を持っているかは、かつて門外街防衛戦において、家と家の間が五メートル以上あっても、そこを難なく飛び移り、屋根の上を縦横無尽に駆け回ったことからも十分に分かる。


 なにより、塔の外壁のデコボコを使ってひょいひょいと上り下りしてみせる奴など、彼女を置いて他にいない。


「えへへ、ボク、だんなさまのこと、だーいすき」

「調子のいいことを言っていると、俺もげんこつを落とすかもしれないぞ?」

「ボク、おこるのがだんなさまなら、どんなことだってがまんできるもん」

「じゃあおしおきだ。さっきの鉄骨にもう一度座って来い」


 真面目くさっていってみせたらさすがに驚くだろう、と思っていたら、リノのやつ、目を丸くして、次いで表情が死に、けれどすぐさま立ちあがってまっすぐ鉄骨に向かって歩き始めたから、慌てて捕まえるしかなかった。


 ごめんよリノ。お前は本当に素直でいい子だよ。お仕置きで、太陽で焼けた鉄骨なんかに座らせるものか。


 リノはまたも驚いた様子だったが、本当にほっとしたようにため息をつき、「だからだんなさま、大好き」と、俺の懐に顔をうずめてきた。

 ……やっぱり本気だった。俺の言葉に限っては、本当に冗談を冗談だと受け取らない。


「リノを試すようなことをして、悪かったな。でも、俺は絶対にリノをむやみに傷つけるようなことはしないからな?」

「うん、だって、ボクのだんなさまだから」


 頭を撫でるたびに、幸せそうに目を細める彼女に、胸が痛くなるほど愛おしいという想いが込み上げてくる。何がご安全に、だ。冗談でも、太陽光のもとで熱くなった鉄板の上に座れ、などと言った自分が許せないほどに。


「……太陽光のもとで、熱くなった、鉄板……?」


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